甘い毒杯は飲み干せない
「……だめ、です」
声にならない声だった。
そもそも、口にしたつもりがなかった。
でも口に出してしまったと気がついたのは、全員の視線が集まっていたから。
ついさっきまであれほど近い距離で楽しく踊っていた男が、今は酷く冷たい目で私を見ている。
「お前に意見は聞いていないのだが」
「も……うしわけ、ありません。でも、戦争は……!」
「アデライン・エセルリード」
名前を呼ばれただけで、身体が強張った。
「なんの権限があって、この国の国政に口を出す?」
「私は、貴方の秘書官です」
「一秘書官が、随分と偉くなったものだ」
かつ、かつと足音が近づく。
逃げる隙など与えないとでも言うように、目の前まで来たルキウスが、くい、と私の顎を掴んだ。
ひるむな、と自分を鼓舞する。
弱った顔を見せれば、全て終わる。
「殿下。娘が大変失礼をいたしました。……しかし私も、兵を連れていくことには反対です。こうして明らかな罠をしかけているのですから」
「エセルリード。かのシャーロット・ラヴィアンジュを討った英雄がその弱腰か」
「だからこそ、申し上げます。……我が国の魔術師団は強くなった。それでも、あの魔術大国には敵わない」
「ふん……」
エセルリード公爵はずっと頭を下げていた。
その姿を見ているだけでわかる。
明らかに私をルキウスの不興を買わないよう、庇っているのだと。
「アゼル・ガイウス!緊急軍部会議の準備を」
「御意に」
「ユリウス・ティリス!帝国魔術師団も同席せよ」
「……はっ」
二人は団員を連れて、足早に去っていく。
ユリウスが一度だけ振り返った。
その瞳には、明らかな心配が浮かんでいた。
(大丈夫よ)
心配性の同胞に、心の中でそう呟く。
やがて。
地下牢獄に残されたのは、私とエセルリード公爵。そしてルキウスだけになった。
「殿下」
エセルリード公爵が口を開く。
「今回の件、私にも関わらせていただきたい」
「……お前が行けば、1番に狙われるぞ」
「存じております。それで、貴方様の御身を少しでも守れれば幸い」
「お父さま……!」
思わず声が漏れると、エセルリード公爵は穏やかに微笑んだ。
彼が1番に狙われる。
そう言い切れるのは、一見シャーロット・ラヴィアンジュの仇を討つため、に見える。
けれどその実、エルステラの魔術師たちはエセルリード公爵こそが孤独のダイヤモンドを不完全な状態へと破壊した人物だと思っているから、だろう。
(流石に、そこまでは自惚れていない。ミルヒとか……私を慕っていてくれた魔術師たちは、誤解をしたかもしれないけれど)
ヴェリアルはどれだけエセルリード公爵を憎んでいるのだろう。
彼の野望の『宝石王の欠片』は、エセルリード公爵の一撃によって……正確には、欠片が融合したシャーロットの心臓が砕け散った事によって、二度と完全な状態に戻らなくなった。
(もっと正確に言えばその孤独のダイヤモンドは今、完全なカタチで私の中にある。でもそんなこと、ベルは知りようはない)
そう思っているはずだから。
きっとエセルリード公爵は一番に狙われる。
(でも、一番恨んでいるのはきっと、私の事)
「……ヴェリアル・クレミア・ルーファスという男は私を見たいだけだ。そうでなければ、とっとと開戦している。だから、そう早くお前の父は死なない」
不安が顔に出ていたのだろうか。
ルキウスはさっきまでの怒気を抑え、静かな口調で私に向けて、まるで慰めのような事を言う。
「……ルキウス様」
「駄目だ」
「まだ何も言っていません」
「行く、というのだろう。お前には何も出来ない」
「貴方の特別秘書官です」
「先程から、お前は大きな勘違いをしている」
ルキウスは苛立ちを押し殺すように、煙草へ火をつけた。
小さな火が灯る。
その向こうで、彼の瞳だけが冷たく光っている。
「その特別秘書官には、国を動かせるだけの力なんぞない」
頭を殴られたようだった。
胸の奥がつんと痛む。
いままでの6年間が。私の努力が、まるで全部無かったことになったみたいな錯覚。
一気に、6年前の───何も出来ない、体の弱い女の子に戻ったみたい。
「駄目だ。やめてくれ、アデライン。そんな危険な事に自ら巻き込まれようとしないでくれ」
「お父様」
「お前はわかっていないのだよ。ヴェリアル・クレミア・ルーファスという男の恐ろしさを……」
(いいえ、誰よりも知っている。だからこそ、今のエルステラと……ベルと向き合わなければならない。本当に彼が、あんな恐ろしい真似をするようになったのか)
でもそれは、決して言葉には出来ない願い。
何も言い返せず、私は黙ってしまう。
(嗚呼、ミルヒの言った通り)
ミルヒオールはきっとこの状況をわかっていた。
だから、私が部屋に閉じこもってるなんてことがないと知っていた。
「……唯一、お前がエルステラに行く方法があるとすれば」
「あるのですか……!」
俯く私は単純で。
その言葉1つで、希望を見つけた子供のように、表情が綻んでしまう。
父が、僅かに目を伏せた。
「皇太子妃になればいい」
「え……?」
「この国の皇族の言葉なら、誰も逆らえまい」
頭の中が、真っ白になった。
皇太子妃。
それは、世の中の令嬢にとって、きっと甘美な響きなのだろう。
けれど私は知っている。
これは泥舟だ。
沈みかけた船へ、自ら乗り込むようなもの。
それでも。
使える切り札は、何だって使うべきだ。
「どうする」
ルキウスが私を見る。
「結婚するか?アデライン」
「……分かりました」
私は、顔を上げた。
「なりましょう」
「ほう?」
ルキウスが楽しそうに笑う。
それはまるで、私があまりにも簡単に挑発へ乗ったことを、面白がっているようだった。
「その代わり、交換条件を出してもよろしいでしょうか」
皇太子妃になる。
その代償として、なんとか戦争を回避させる。
そう言えばいい。
何を差し出せばいい?
何を条件にすれば、彼は兵を動かすことを思いとどまる?
考えろ。
考えろ、私。
けれど──────。
「……無しだ」
「……え?」
あまりにも即答だった。
(交換条件も聞かずに?)
私の知っているルキウス・アリュール・ルーファスという男は、利益のみで生きている。
だからこそ魔術に素養がある私を皇太子妃にすることと、わたしの交換条件をきっちり天秤にかける。
そもそも……これは、ルキウスの悪い冗談。悪ふざけ。
本気で求婚されてる、なんて自惚れていない。
それでも利益が彼の中で重くなれば、検討の余地があるとそう言ってくれる……
はずだった。
「おい、エセルリード公爵。貴殿は情操教育に失敗しているぞ」
「……生憎、早々に私の手を離れてしまいましたので」
苦虫を噛み潰したような表情で、彼は父を見た。
エセルリード公爵は冗談じみたように答えたが、どこかその表情は楽しそうだった。
(……じょうそうきょういく?)
予想が外れ、呆然と2人のやり取りを見ている私にルキウスは真剣な表情で問うた。
「妃として、添い遂げる覚悟があるか?」
皇太子妃になる覚悟。
帝国の利益だけを考え、国の母たる存在になる覚悟。
エルステラを切り捨てる覚悟。
「……」
(私には、頷けない)
「なら、話は終いだ」
こうしてあまりにもあっさりと扉が閉じるように。
私の前から、道が消えた。




