賭け、取引、祈り
月の光がミルヒオールの横顔を照らす。
影を落としたその顔の半分に宿っていたのは笑みか、諦めか。
私には分からなかった。
「共和国との戦争は、正解だったよ」
赤い瞳が、月明かりを映す。
静かな声だった。
「迷いが……晴れた」
「迷い?」
「気にしないでぇ。こっちの話」
彼はふわりと笑う。
けれど、その笑顔の奥にあるものが見えない。
─────まるで霧がかかったみたいに。
昔なら、ミルヒオールが何を考えているのかなんて、すぐに分かったはずなのに。
今の私は目の前にいる小さな子の心を、ひどく遠く感じていた。
「共和国が、どうやって魔術師を管理していたか知っている?」
「……いいえ」
「単純明快。……飼ってたのさ。魔術師に首輪をして」
「首輪……?」
「そう。飼い主の命令に逆らえば、一瞬で首と胴体が離れ離れになる特別製。共和国の魔術師は生まれ落ちたその瞬間にそれを着ける決まりでねぇ」
「……惨いことをする」
喉の奥から、掠れた声が漏れた。
それは人を管理するための道具なんかではない。
逃げることも、逆らうことも、生きることさえも許さない。ただの殺戮装置だ。
「酷いよねぇ。……ただ魔力を扱える身体で生まれたってだけなのに」
その言葉にはほんの少しだけ、私の知っている彼が残っていた。
仲間思いで、勉強熱心。
魔術師の中でも特別に生まれてしまった。だからこその苦悩があり、差別される者に寄り添える心優しい少年。
彼は生まれ持ったものだけで、人の価値を決める世界を憎んでいた。
「だからねぇ」
……だからこそ、私は次に続く言葉を聞きたくなかった。
赤い瞳は、私を逃がさない。
「やっぱり非術師は、俺たちが管理してあげないとだめなんだよぉ」
純真無垢だった少年の頃と全く同じ表情を浮かべたミルヒオールに、ぞくりと背筋が冷えた。
「……だから、やり返すの?」
「そうだねぇ。でも、もっと上手くやるよ」
迷いのない返事だった。
赤い瞳が細められる。
「非術師は愚かで、頭がどうしようもなく悪い劣等種だけど……。それでも、使い道ならいくらでもあるからねぇ」
胸の奥が、ずきりと痛んだ。
繋がった。
辺境伯が口にしていた、人間に着けられた首輪。
共和国で今まで行われていた支配のカタチ。
エルステラは、復讐をしようとしているのだ。
同胞を傷付けた報いを、全く同じ痛みを返すことで。
そしてかつての仲間たちは、それら全てをひっくるめて……正義という言葉で包もうとしている。
ただの復讐ではない。
怒りに任せて力を振るっているわけでもない。
彼らは本気なのだ。
自分のしていることこそが、正しいのだと。
……だからこそ、怖かった。
昔のミルヒオールなら、こんなことを言わなかった。
間違いなく、知らない男の人に変わってしまった。
……けれど。
それがミルヒだけの責任ではないことにも、痛いほど気づいてしまう。
彼が見てきたものを、私は知らない。
彼が失ったものも。
戦争の中で何を見て、何を失って、何を憎み、何を守ろうと決めたのかも。
だから私は、簡単に彼を否定することができなかった。
正しいとは決して言えない。
けれど……。
────間違っているとも、簡単には否定出来ない。
「俺はねぇ、ロティのことが大好きだよ」
「……ミルヒ」
「たとえ、その器が非術師でも」
彼の視線が、私の身体をなぞる。
「その魂がシャーロット・ラヴィアンジュであるならば、俺は君に幸せになってほしい」
彼の指が、私の頬へ触れそうになって───止まった。
あと、ほんの少しで届く距離だった。
けれど、彼は触れなかった。
赤い瞳が細められる。
その表情は優しくて、昔と何も変わっていないように見える。
なのに胸の奥が、痛い。
昔と同じ優しい声なのに、どうしてこんなにも遠く感じるのだろう。
「だから教えて。ロティの幸せって、なに?」
「……そ、れは」
しあわせ?
私の、しあわせ。
魔術師が等しく幸福を受けることが出来る世界の実現?
それとも、帝国に住む人が、笑顔で生きること?
すぐに、答えることができなかった。
かつてのシャーロットの夢だったエルステラの平和を願えば、きっとこの世界では大勢が犠牲になる。
アデラインの故郷・帝国の平和を望めば、真っ向からエルステラと対峙することになる。
誰かの幸せを選べば、その裏側で誰かが不幸になる。
私はアデラインになってからずっと、そのことばかりを考えてきた。
どうすれば、誰も傷つかずに済むのか。
どうすれば、みんなが幸せになれるのか。
……そこで、はたと気がついた。
私は今まで誰かの幸せばかりを考えていた。
なら、……私自身は?
胸の奥に、ひとつの疑問が浮かぶ。
私の幸せって、なに?
「……だと思った」
そんな私を見てミルヒオールが、くすりと笑う。
その笑顔には、どこか確信めいたものがあった。
まるで私がそう答えられないことまで、最初から知っていたかのように。
「ねぇロティ。ゲームをしようよ」
「ゲーム……?」
「そう。君がロティだってヴェリアル様が気付けたのなら、俺の勝ち。もし気付けなかったら、ロティの勝ち。簡単でしょ?」
赤い瞳が、楽しそうに細められる。
「そのルールは……ずるいわ。孤独のダイヤモンドが私の身体にある限り、ベルはきっと異変に気づく」
普通の魔術師なら、注視しなければ気が付かない程度の魔力の残渣。
だとしても、ミルヒオールは私の心臓の孤独のダイヤモンドの存在に簡単に気がついた。
古代遺跡に固執していたヴェリアルなら、簡単に答えを導き出してしまう。
だから、ゲームは公平ではないと。
そんなルールのゲームはやらない、と。
そう言ったつもりだったのに。
「え?大丈夫だよぉ。俺が上手に隠してあげるから」
「……」
事も無げにミルヒオールはそう言った。
他の人なら、無理だと一蹴する。
けれどミルヒオールになら、本当にそれが出来てしまうのだろう。
この大陸で最も優れた魔術師である彼だからこそ、ヴェリアルの目から、孤独のダイヤモンドの気配を隠すことができるのだろう。
この賭けでミルヒオールは、本気で私をヴェリアルから隠すつもりなのだ。
そして。
その先にある未来まで、きっと彼はもう決めている。
「……ミルヒが、賭けに勝ったら?」
「エルステラに帰ってきてよ、ロティ」
「……」
あまりにも迷いのない答えだった
かつん。かつん。
革靴の音が、静かな回廊に響く。
ミルヒオールは私から離れていく。
そして、回廊の向こうに浮かぶ月を見上げた。
月明かりに照らされた横顔は、ひどく穏やかで綺麗だった。
「エセルリード公爵の娘」
かつん。
「帝国の特別秘書官」
かつん。
「それでもヴェリアル様が、ロティに気づけるのなら」
ミルヒオールは月を見上げたまま、静かに言った。
「ロティは、エルステラにいた方が幸せになれる」
「……どういう理論よ」
「ふふ。じゃあ、ロティが勝ったらどうしたい?」
「……?」
「好きに決めていいよぉ。帝国を侵略しないででも、宝石の欠片を全部封印してでも」
「勝利の報酬が全く釣り合ってない……」
出来るか出来ないか。そんな議論は割愛した。
何故ならミルヒオールは出来るだろうから。
「出来るよ。俺なら、出来る」
あまりにも傲慢な自信。
彼の「できる」は、私が思っているよりずっと重い。
「……期限は?」
「いまから半年」
「思ったより短いわね」
「どうする?」
ミルヒオールが尋ねる。
私は少し考えて。
「……私、それまでずっと部屋に籠もっていれば勝てるわ。いいの?」
「そうだねぇ」
ミルヒオールは、にやりと笑った。
けれど、その笑みには、奇妙な余裕があって。
まるで、私がそんな選択をするはずがないと、最初から分かっているような。
そしてまるで、それを期待しているような。
「でもきっと、そうはならない」
そう言っているように聞こえた。
鳥肌に身震いし、もう一度ミルヒオールを見据えた時。
─────いや、見据えようとした時。
彼はもうそこにいなかった。
月明かりだけが、静かな回廊を照らしている。
まるで最初から、ミルヒオールなど存在しなかったかのように。
私はしばらく、その場から動けなかった。
「出来る」
いつまでもその言葉が、耳の奥に残っていた。




