血塗られた月の使者
「ロティ」
気配もなく背後へ近づいてきた存在が、そう私を呼んだ。
その呼び方をする人間を、私は一人しか知らない。
アデライン・エセルリードの身体に、シャーロット・ラヴィアンジュの記憶が宿っていることを知っている者の中で、私を「ロティ」と呼ぶ者はたった一人だけ。
間延びした、どこか気の抜けた声。
けれど、その声色は私の記憶にあるものとは少し違っていた。
以前会ったときよりも低く。
そして、ほんの少しだけ大人びているような気がした。
(六年も経っているのだから……当然ね)
頭の片隅では、ずっと彼の存在を疑っていた。
……結界の一件もそう。
ユリウス・ティリスの魔力に対抗できるほどの力を持つ者など、そう多くはない。
そしてカトレア嬢の件。身体を一時的に奪うなんていう高度な精神干渉魔術を、犯人は詠唱すらせずに使ってみせた。
そう考えると、候補はほとんど一人に絞られる。
だからこの声を聞いた瞬間、驚きはしなかったのだ。
「……ミルヒ」
ゆっくりと振り返る。
そこに立っていたのは、記憶の中よりもずっと大人びた青年だった。
短かった黒いくせ毛は肩に届くほど伸び、一つに無造作に束ねられている。
戦争で長く外にいたのだろう。
以前よりも肌は日に焼け、かつてはまだ残っていた少年らしい面影はもうすっかり無くなっていた。
けれど、ルビーのように光り輝く真紅の瞳だけは何も変わっていない。
爛々と輝く双眸が、まっすぐ私を見つめていた。
「あれぇ。なんでいるのって、驚かないの?」
ミルヒオールは、楽しそうに首を傾げた。
「……予想はしていたから」
「ふぅん」
にこり、と浮かべるのは昔と変わらない笑顔。
それなのに、胸の奥には嫌な冷たさが広がっていく。
「うわ、かぁいそ。びちょ濡れじゃん。せっかく綺麗なドレス姿なのに、ねぇ?」
ミルヒオールの視線が、私のドレスへ落ちる。
彼がパチンと指先を鳴らすと風が巻き起こり、濡れたドレスの裾がふわりと揺れる。
次の瞬間、ドレスには染みの一つすら残っていない。
まるで、なんにも起こらなかったかのように。
「……どうも、ありがとう」
「ん。どういたしましてぇ」
ミルヒオールは満足そうに笑うと、そのまま私の頭へ手を伸ばした。
ぽんぽん。
少年だった彼が大人ぶってそうしていた昔と同じように、軽く頭を撫でられる。
あまりにも自然な仕草だ。
まるで六年という歳月なんて、最初から存在しなかったみたいに。昨日の続き、みたいだなと思った。
「ところでぇ、ロティのドレスを汚した非術師たちなんだけどさぁ」
彼の声が、少しだけ弾む。
その言葉に、胸の奥がざわついた。
非術師。
魔術を使える者と、そうでない者を分ける侮蔑的な言葉。
かつてエルステラで暮らしていた頃、私が最も嫌っていた呼び方だ。
……その響きには、明確な優劣と敵意が含まれているから。
魔術師と、それ以外。
こちら側と、あちら側。
ミルヒオールはいつの間にか、それを当たり前のように口にするようになっていた。
その事実が、何よりも苦しかった。
まるで私と彼の間に、見えない線を引かれたようだった。
「……彼女たちが、どうしたの?」
努めて平静に尋ねると、ミルヒオールはきょとんとした顔をした。
そして、何事もないことのように言う。
「殺していいの?」
「……」
あまりにも簡単に。
それは夕食に何を食べるかでも尋ねるような口調だった。
「駄目」
私は即答した。
「ええ、なんでぇ?」
「……あの程度でそこまでやり返してたら、キリがないでしょう。その後の対応だって、面倒よ」
「ふぅん。そういうの、未だによく分かんないやぁ」
ミルヒオールは納得したような、していないような顔で私を見る。
「むかついたら、やり返すでしょ?それは駄目?」
「……ティティが頭を悩ませるのが目に浮かぶわ」
「えへへ。大正解」
なぜか嬉しそうに頬を染める。
変な……ミルヒオール。
昔から、そうだった。
彼はいつも嬉しそうに、楽しそうに笑う。
その笑顔だけは、16年前と何も変わっていない。
……なのに、どうしてこんなにも彼が怖いのだろう。
今のミルヒオールは、エルステラの幹部。
帝国の敵だ。
……そして私は、帝国側の人間。
彼がここにいるということは、何かが起きる前触れ。
あるいは────もう、起きている。
ミルヒオールは相変わらず楽しそうに笑っている。
その無邪気な笑顔を見つめながら、私は胸の奥で、静かに息を呑んだ。
……彼がここへ来た理由を、私はまだ知らない。
「……どうして、ここにいるの?」
「ふふ、ひどい言い方するなぁ」
「ミルヒ」
私はくすくすと笑う彼をまっすぐ見つめた。
「ルキウスを襲わせたのは、貴方ね」
「うん。そうだねぇ」
あまりにもあっさりと認められて、言葉に詰まる。
やはり、私の予想は間違っていなかった。
「……ベルは、本当に世界を征服するつもり?」
共和国という大国を征服したエルステラ。
彼らの前に立ちはだかるのは、帝国のみ。
大切な人達が、殺し合う未来。
信じたくなくて、向き合いたくなくて。
でも、確実にその日は近づいてきていて。
どうしても、確認する声が震えてしまった。
そんな私にミルヒオールは、少しだけ困ったように微笑んだ。
「ねえ、ロティ?そんな怖い顔しないで。それはねぇ、間違いだから」
「…………間違い?」
彼は頷いた。そして─────。
「エルステラは、世界を正すんだ。……ただ、それだけ」
そう言った。
鳥肌が立つ程、真っ直ぐな瞳だった。
冗談でも、虚勢でもない。
彼は心の底から本気でそうなると預言する、信者の顔をしていた。




