砂糖菓子のような毒
ルキウスと別れたあと、彼は瞬く間に人の波へと紛れていった。
誰も彼もが、皇太子へ挨拶するために必死だった。
────皇太子の呪い。
そう囁かれ、次々と代替わりしていくはずだった皇太子の座に、ルキウスは六年もの間、座り続けている。
その事実だけで、彼はこの国の貴族たちにとって、畏れと好奇心を同時に掻き立てる存在なのだろう。
遠ざかっていく黒い背中を、私はしばらくぼんやりと眺めていた。
そして、ふと視線を移す。
少し離れた場所では、ルチアと辺境伯が踊っていた。
音楽に合わせて、二人の姿がゆっくりと回る。
煌めくシャンデリアの光を受けて、ルチアの淡い金髪がふわりと揺れた。
その手を取る辺境伯の姿もまた堂々としていて、まるで一枚の絵画のようだった。
─────綺麗。
そんなありふれた感想しか浮かばないほどに。
私は二人の姿を、しばらく静かに目に焼き付けた。
……これで十分だ。パーティーは、もう十分楽しんだ。
第一、エセルリード公爵が───私が恩返しをしなければならない父が、この場にはいないのだ。
ならばこれ以上この華やかな場所に留まる理由もない。
(早く、ユリウスたちに合流しよう。状況を把握しなくちゃ)
そう思って踵を返し、ホールの外へ向かう。
あと少しで、この喧騒から抜け出せる。
そう思った、そのときだった。
「……労働階級なのに、レディの真似事はお上手ですこと」
くすくす、と。背後から、砂糖菓子のように甘い笑い声がした。
けれど、その甘さの奥にあるものは、ひどく冷たい。
悪意というものは、不思議なくらい分かりやすい。
言葉より先に、向けられた視線がそれを教えてくれた。
明らかに私を見ている。
そして、その瞳は私を値踏みするように細められていた。
声の方向へ振り返ると、そこにいたのは、四人の少女たち。
私より少し年上だろうか。
その中心に立っているのは、艶やかな金髪を結い上げた少女だった。
─────確か、皇后派の公爵令嬢。名前までは、覚えていないけれど。
関わるか、否か。
ほんの三秒ほど迷ってから、私は彼女の瞳をまっすぐ見返した。
「……何か?」
金髪の少女は、私の反応を楽しむように目を細めた。
そして一歩、また一歩と、こちらへ歩み寄ってくる。
「素敵なファーストダンスでしたよ」
「ありがとうございます。お会いするのは初めてですね」
「ええ」
にこり、と微笑む。
けれど、その笑顔には温度がなかった。
「ルチア様とは違って、貴方は別の世界の方ですから」
互いに友好的な仮面を被ったまま、上辺だけの言葉を交わす。
その言葉のひとつひとつに、薄い刃が仕込まれていることを知りながら。
「カトレア・ルートヴィッヒですわ」
「アデライン・エセルリードと申します」
ルートヴィッヒ。皇后の血縁。
その名を聞いた瞬間、すべてが繋がった。
なるほど、だからこれだけ同格の貴族相手に傲慢な態度を取れるのだ。
そして皇后派がルキウスと縁を結びたいのは有名な話。
彼女たちにとって、皇太子の側に仕える秘書官である私が目障りなのは当然だった。
「もうお出になるのですか?」
「急な仕事が入りましたので」
「まあ」
カトレア嬢は、わざとらしく目を丸くした。
「お忙しいですものね。秘書官をされているなんて、本当に素晴らしいわ」
その声だけを聞けば、称賛しているようにも聞こえる。
けれど。
「エセルリード公爵も、きっとお喜びでしょうね」
その微笑みの奥にあるものは、あまりにも分かりやすかった。
────公爵令嬢ともあろう者が働かなくてはならないほど、エセルリード公爵家は困窮しているのね。
そう言っているのだ。
……別に、私自身が馬鹿にされるのは構わない。
アデラインは公爵令嬢だけれども、シャーロットは孤児だ。
だからなんでもやった。そうしないと、生きていけなかった。
靴磨きをして日銭を稼ぐことも、魔術師としてエルステラを発展させるのことも。
だから労働階級というのは、正直本当の事。
けれど、エセルリード公爵家が私のせいで貶されるのは、嫌な気分がする。
こういう人たちにとって、正しさなど最初から存在しない。
自分たちが優位に立てること。
相手より高い場所にいると確認できること。
それさえ叶えば、どんな言葉だって正義になる。
だからそんな正義に真剣に向き合う必要なんて、ないのだ。
「……それでは、失礼いたします」
私は曖昧に微笑んで、踵を返そうとした。
その時だった。
「……っ!」
ぱしゃり、と。
夜会の音楽に紛れるには、あまりにも鮮明な音が響いた。
赤い液体が宙を舞う。
気がついた時には───カトレア嬢の後ろにいた少女がかけた赤ワインが、私のドレスに広がっていった。
「まあ、大変」
カトレア嬢が口元を押さえる。
「駄目でしょう、ミーシャ様。困った方ね」
「あ……あ、ご、ごめんなさい……!」
「ごめんなさいね。この子ってば、こういうそそっかしいところがあって」
ミーシャと呼ばれた少女は、真っ青になって震えていた。
その姿を見れば、すぐに分かる。
この四人の中で、彼女が一番格下なのだ。
────これは偶然ではない。
彼女がグラスを持つ手の震えも、周囲の少女たちが向ける視線も、全てが最初から決められていたものだ。
全ては、私に恥をかかせるために。
「でも……」
カトレア嬢が私へ視線を向ける。
「流石、エセルリード公爵令嬢。どんな姿でも、よくお似合いですこと」
視線が、私のドレスへ落ちた。
私は黙って、自分の胸元を見下ろす。
淡い色の布地に、赤い染みがゆっくりと広がっていく。
今日のために、父が用意してくれたドレス。
指先でそっと布地に触れる。
…………別に。
着替えなら、城内にいくらでもある。
ここは私の家なのだから。
だから、困ることなど何もない。
部屋に戻って、着替えるだけの手間。
……それなのに。
胸の奥に、じわりと熱が広がっていく。
だって、これはただのドレスではない。
父が今日のために誂えてくれた特別なもの。
彼が、私が16になった事を心から祝って……。
……それを、こんなくだらない悪意で汚された。
怒り。
その言葉が、ようやく頭に浮かんだ。
どうするべきか。
ここで揉め事を起こすのは得策ではない。
わかっている。それでも……。
黙って見過ごすには、あまりにも侮辱的な行動だ。
理性的に、くだらない諍いに相手をすべきではないと思う気持ち。
けれど理性をかき消すように瞬間的に燃え広がる憎悪。
(許せない……)
その瞬間だった。
「っ……え?」
少女たちから、別の声が上がった。
続いて────。
「きゃあっ!」
先ほどまで、くすくすと笑っていた取り巻きのご令嬢の一人が、目を見開いた。
彼女は驚きと共にグラスを落とす。
赤い雫が、カトレア嬢のドレスを伝っていった。
「な、何をなさるの?!」
皇后の親族にワインをかけてしまったというあまりにも重い罪に、少女の顔からみるみる血の気が引いていく。
「なっ、なんで……どうして私……!?」
震える声。
「もっ、申し訳ありませんっ、カトレア様……!申し訳ありません!」
「……貴方……!」
カトレア嬢の顔から、笑みが消えた。
次の瞬間。
ぱしん、と乾いた音が響いた。
頬を打たれた少女が、よろめく。
「申し訳ありません……!」
それでも少女は謝り続ける。
その光景を、私はただ呆然と見つめていた。
おかしい。
何かがおかしい。
私は、何もしていない。
それなのに。
まるで私の代わりに、誰かが怒りをぶつけたかのように────。
ルキウスは、こんな些細な揉め事には干渉しない。
なぜなら、こんな程度の揉め事すら自分で解決できない秘書官など、彼には必要ないからだ。
ユリウスも。
メリーアンも。
魔術師団の皆も。
今、この場にはいない。
ならば。
(……私が……?怒りのあまり、古代魔術を発動させた?……まさか)
違う。
どう考えても、今の出来事は私がしたことではない。
……では、誰が?
私はゆっくりと周囲を見渡した。
ざわめき始めた会場。
何事かと、遠巻きにこちらを見る貴族たち。
カトレア嬢と取り巻きのやり取りはヒートアップしていくその横で、楽団の音楽は何事もなかったかのように続いている。
そして、その人混みの向こう。
一瞬だけ。
誰かと、目が合った気がした。
けれど、確かめるより先に、その姿は人の波へと溶けて消えた。
(……誰?)
ほんの一瞬のことだ。
顔すら、よく見えなかった。
それなのに、なぜか目を逸らしてはいけないような気がして。
私は騒ぎに紛れて、その人物の消えた方向へ歩き出した。
人の波をかき分ける。
一人。
二人。
三人。
見つからない。
それでも、まるで何かに惹かれているように。何故か足が止まらなかった。
やがて、ホールの喧騒が少しずつ遠ざかっていく。
気配を追っていくうちに、滅多に人が通らない古い回廊にまで来てしまって私は足を止めた。
こんなところまで来るつもりはなかったのに。
「……。」
静かだった。
先ほどまで聞こえていた楽団の音も、もうほとんど届かない。
不気味なほど静かな空間で、代わりに聞こえるのは自分の足音だけ。
(……戻ろう)
そして────踵を返した時だった。
「ロティ」
「……!」
すぐ耳元で、声がした。
80話です!いつもありがとうございます!




