業火の上で踊れよ、淑女
乱れた黒い髪。
険しい眼差し。
まるで、今の今まで戦場にいたかのような気迫。
華やかだった会場の空気が、一気に凍りついた。
誰もが息を潜め、ルキウスの一挙手一投足を見守っていた。
ついさっきまで響いていた笑い声も、楽器の音さえも、遠いものに感じられた。
「……私に相応しいでしょう?皇后陛下」
ルキウスは、そんな周囲の視線など意に介さないように答えた。
その声色は、驚くほど無感情で。
そして────。
ぱちりと。
私は人混みにいる彼と目が合った。
こんなにも大勢の人がいるというのに。
まるで、何かの魔術に導かれたかのように、彼の視線は真っ直ぐ私だけを捉えている。
彼は一切躊躇わずまっすぐ、こちらへ歩いてくる。
かつ、かつ、と。
規則正しい足音が、一歩ずつ大きく響いて聞こえる。
その間、視線は一瞬も離れない。
足音に比例して、私の心臓は嫌なほど大きく鳴っていた。
何故血まみれなのか。
襲撃されたのか?返り血なの?それとも……。
いつ。どこで?
聞きたいことはいくらでもあった。
けれど、考えが纏まらない。
言葉が出ずに呆然と見つめていると、彼は私の前で足を止める。
そして、何の迷いもなく手を差し出した。
その手を見て、私は一瞬、息を止める。
─────以前。
この手は、ルチアに差し出されていた。
目の前で王子様が、綺麗なお姫様の手を取っているその姿はまるで絵画のようで。
そして今。その手は迷うことなく、私へ差し出されている。
「ダンスの相手を」
あまりにも自然に。散歩にでも誘うように。
何事もなかったかのように。
─────まるで、今この瞬間まで血に濡れた戦場にいたことなど、最初から存在しなかったかのように。
「……はい」
気がつけば、そう答えていた。
そっと手を重ねると、触れた指先から伝わってくる体温はいつもと変わらなかった。
けれど。
近くで見れば見るほど、彼の異様な姿がはっきりとわかる。
頬に付着した赤。
泥に汚れた衣服。
そして、ほんの僅かに漂う鉄錆のような匂い。
やがて、半ば脅迫されたかのようにワルツの音楽が始まった。
張り詰めた空気を切り裂くように、旋律が会場へと流れ込んでくる。
私たちが踊り出すと、まるでそれが合図だったかのように、周囲の貴族たちも互いに顔を見合わせながら、恐る恐る手を取り合い始めた。
誰もが笑顔を作っている。
けれど、その瞳には隠しきれない動揺が浮かんでいた。
そんな中、私はルキウスの腕に導かれながら、ただ一つのことだけを考えていた。
「シャワーを浴びる時間が惜しかった」
私の視線に気づいたのか、ルキウスが淡々と言った。
「……怪我をされたのでは?」
「まさか」
「……なら、誰の返り血ですか」
思わず、声を潜める。
彼はほんの少しだけ目を細めた。
「さあ……。それは、この後の尋問次第だな」
そして、口元に薄い笑みを浮かべる彼に、ぞくりと背筋が冷えた。
次の瞬間、音楽が変調する。
ルキウスが私の腰へ手を添えると、身体は簡単に引き寄せられる。私は反射的に彼の肩へ手を置いた。
そして、くるりと身体が回り、ドレスの裾がふわりと広がる。
視界が一瞬だけ流れ、次の瞬間には再び彼の姿が目の前へ戻ってきた。
会場には、美しいワルツの旋律が満ちている。
しかしこの場で交わされている会話だけは、到底舞踏会に相応しいものではなかった。
「……ところでお前、いつワルツの練習をした?」
ステップを踏みながら、ルキウスが何気なく尋ねる。
「……いつか王子様と踊る日を夢見て、自主練に励んでいました」
「自主練?そんな報告は受けていない。私はお前に今日何度足を踏まれるのか、楽しみに来たのだが」
「……特別秘書官が踊れませんでは、示しがつかないでしょう?」
「やけに踊り慣れている」
苦し紛れの言い訳だった。
ルキウスはどうにも納得していないらしく、じっと私を見つめてくる。
けれど言えるはずがなかった。
────シャーロットだった頃。
綺麗にターンができるようになるまで食事抜き。
足運びを間違えれば、最初からやり直し。
またあの地獄のようなヴェリアルの隣にいる為の淑女教育が役に立った、だなんて。
私はにっこりと微笑んだ。
「……秘書官たるもの、必要な教養は身につけておくものです」
半ば強引な理論で押し切る。
ルキウスはまだ納得していないようだったが、追及することはなかった。
その代わり、次の瞬間。
耳元へ落とされた声が、先ほどまでとは打って変わって低くなる。
笑いの気配は、一切消えていた。
「悪いが、エセルリード公爵を借りた」
私は表情を変えない。
踊り続けながら、彼の言葉に耳を傾ける。
「公爵は今、刺客の残党狩りに出ている。ユリウスも、すぐに出動させなければならない」
「……それほどの事態です。仕方ありません」
視線だけを、ほんの僅かに動かす。
会場の端では、すでに警備に当たっていた魔術師たちが慌ただしく動き始めていた。
「エスコートがいなければ困るだろう」
ルキウスは私を引き寄せながら、何でもないことのように続ける。
「どうする? 地下からアゼルを連れてこようか」
「地下から来たガイウス卿も、血まみれなのでしょう?要りません」
即答すると、ルキウスの口元が僅かに緩んだ。
「……よく分かっている」
私は彼の肩越しに、ユリウスへ視線を向ける。
ちょうどその時、魔術師団のローブを纏った青年が、ユリウスへ駆け寄っていた。
何事かを耳打ちされた彼は一瞬だけこちらを見た。
その表情には、明らかな困惑が浮かんでいる。
私は小さく頷いた。
(─────行って。)
声には出さず視線だけで伝えると、ユリウスはそれを理解したのか、すぐに踵を返した。
ローブを翻しながら、会場の外へと走り去っていく。
「……この国に、ユリウス・ティリスに敵う魔術師はいません」
「わかっている」
ルキウスの返事は短かった。
ユリウスの魔力で、私のエルステラ時代の知識を総動員して編み上げた術式。
この城を覆うのは、今帝国で出来うる最強の結界。
それでもなお、出撃があった。
それはつまり。
────城の内部にいる人間が犯人か。
あるいは。
────ユリウスの魔力を上回る何者かが、この結界を突破したのか。
考えを巡らせている間にも、ルキウスは私を引き寄せる。
腰を支える手が僅かに強くなり、次のステップへと導かれた。
くるりと優雅に身体を翻すと、ドレスが舞い、照明を受けて煌めいた。
遠目から見ればそこにいるのは、ただ美しく踊る皇太子と公爵令嬢だ。
誰も、この二人が踊りながら国の命運を左右しかねない会話を交わしているとは思わないだろう。
美しいワルツ。
交わされる言葉は、その優雅さとは正反対だった。
「諸侯への挨拶が終われば、尋問へ向かう」
「私も行きます」
即答すると、ルキウスの眉が僅かに上がる。
「……尋問を見た事は?」
「ありません」
「ならやめておいた方がいい。待っていても、すぐ結論は出る」
「……何か出来る事があるかもしれません。そうなれば、私を連れていかないという判断は、国益の損失になります」
「国益の損失、か。随分と自分のことを買っているじゃないか」
「そう言って笑われないだけの事を、この6年間してきた自覚があります」
数秒の沈黙。
やがて、ルキウスは小さく息を吐いた。
「……この話をすれば、そう言うだろうとは思っていた」
「では……!」
「無理だと思ったら、出ろ。お前がいようがいまいが、尋問の内容に変更はない」
諦めたような言葉。
でもその裏に、ほんの僅かに彼なりの優しさが透けて見える。
「ひょっとして……伝えに来てくださったのですか?」
私は思わず尋ねた。
この騒ぎのことを。侵入者のことを。
私に教えてくれるために、わざわざ尋問を抜けてこの場へ戻ってきたのではないか。服を着替える時間すらないのに。
そう思った。
ワルツが終わる。
向き合ってお辞儀をする男女を横目に、ルキウスは私の手を離さなかった。
「惜しいな」
「え?」
「ファーストダンスをしに来た」
一瞬、何を言われたのかわからなかった。
思考が止まる。
今日が彼の誕生日で。
私は今日、六年ぶりに社交界へ戻ってきた。
そして───。
今日は私のデビュタントの夜であること。
そんな小さなことを、大切にしてくれた。
血に濡れ、泥にまみれて、命を狙われて。
おそらく、今すぐにでも尋問へ向かわなければならないような状況で。
それでも、彼は私の前に現れた。
「お前のファーストダンスを、俺以外の誰が踊るんだ?アデライン」
胸の奥が、どくん、と大きく鳴った。
先ほどまで感じていた緊張も。
皇后への警戒も。
会場中から向けられる無数の視線も。
ほんの一瞬だけ、全部どうでもよくなった。
「……ありがとうございます。素敵なデビュタントになりました」
なんだか気恥ずかしくて小さく呟いたけれど、彼は何も答えなかった。
ただ私を捕らえる指には。ほんの少しだけ強く力が込められた。




