想う人が増えるということは、幸福なのだと知った
皇后 シシィ・ルードヴィッヒ・ルーファス。
彼女───皇后シシィには、シャーロットの時代に対面したことがある。
筋金入りの旧体制派であり、骨の髄まで『魔術師嫌い』を煮詰めたような人だった。エルステラの仲間達も、彼女の存在に苦しめられたことが何度もあった。
御歳七十近いはずなのに、若返りの秘術でも使っているのかと思わせる程、十六年前の記憶と寸分違わぬ妖艶な美貌。
その毒々しい美しさは、彼女の底知れなさを示しているようだった。
「皇后陛下のお目にかかれて光栄です」
「ルキウスったら、貴方に会わせてと頼んでも全く取り合ってくれなかったのよ。酷いと思わない?」
「それはきっと、私が未熟だったからかと……」
デビュタントの年頃の世間知らずな令嬢を装い、あえて適度な緊張と上擦った声を演技に乗せる。
完璧なタイミングで優雅にカーテシーを落とすと、まるで愛玩用の珍しいペットを品評するような、甘ったるい声が降ってきた。
「素敵な子。会うまでは、小さな子どもが特別秘書官なんてルキウスの悪趣味な冗談だと思っていたけれど……」
「身に余るお言葉にございます」
「ふふ、これからもあの子を、しっかりと秘書官して支えてあげてね」
チクリと刺さるトゲを含んだ称賛。
その言葉を合図にしたかのように、周囲を取り巻くご令嬢方から侮蔑と敵意が入り混じった冷ややかな視線が突き刺さる。
(……相変わらず性格が悪い。隣にいるユリウスのことなんて、虫けらを見るようにも一瞥すらしやしないわね)
いくら平民からの魔術師の印象が良くなろうとも、高位貴族の間に深く根を張る魔術師への差別意識は未だに根強い。
辟易した気持ちで皇后の冷ややかな視線から身を引くと、張り詰めた空気を切り裂くように、遠巻きの群れから明るい声が響いた。
「アデライン」
「───お姉様!」
私たちは再会を喜び合い、手を取った。
定期的に手紙のやり取りはしていたものの、こうして直接顔を合わせるのはルチアの結婚式以来だ。
ふわりと甘い花の香りをまとった姉は、相変わらず息を呑むほど美しく、そしてどこまでも優しかった。
「会いたかったわ。今日の貴方は本当に素敵。もう背も私より高くなったのね」
「えへへ、ありがとうございます……。お久しぶりです、お姉様」
「元気にしているようね。安心したわ」
彼女の慈愛のこもった瞳に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
ルチア。私の……いいえ、アデラインのお姉様。
シャーロットの頃にはいなかった、無償の愛を注いでくれる家族。
離れて暮らすようになってからも、姉はいつだってアデラインを気にかけてくれていた。
そして私もいつの間にか、彼女を本当の姉のように大切に思うようになっていた。
彼女の妹への手紙の一言一言からも、それが伝わってくる。
こうして直接顔を合わせれば、その優しさがなおさら身近に感じられた。
そんなルチアが、ふと私の隣へ視線を移す。
ユリウスへ向けられたその眼差しは、先ほどまで私に向けていたものと同じくらい穏やかだった。
周囲の貴族たちが彼を見るときの、値踏みするような視線とはまるで違う。
ユリウスもそれに気づいたのだろう。
ルチアが静かに一礼すると、少し驚いたように目を瞬かせ、それから慌てて礼を返した。
「ティリス団長、ご機嫌よう。今日は妹のエスコートをありがとう」
「……光栄でございます」
……自分の大切な人たちが仲良くいる、ということは、結構気分の良いものかもしれない。
ルチアは最初こそ余所行きの笑顔を浮かべていたものの、ユリウスの実直さにすぐにその警戒を解いたようだった。
「貴方がエスコートをしてくださる、と聞いて驚いたわ。帝国魔術師団長はお忙しいのではなくて?」
「いえ……アデライン様の為ならば、いつ如何なる時でも馳せ参じます。……私のような者では、お役に立てないことの方が多いかと思いますが」
「むしろ逆でしょう?今日だって、私がユリウスに釣り合っていないくらいよ」
「何をおっしゃいます……!」
途端に、ユリウスの顔が赤くなる。
そんな彼を見て、ルチアがくすりと笑った。
帝国魔術師団長。
今や帝国の中枢を担う立場にあり、その多忙さは私自身が一番よく知っている。
何故なら、彼を忙しくしている張本人は、他でもない私なのだから。
それでもユリウスは、いつまでたっても驕ることがない。
……むしろ、自分のことを過小評価しすぎているくらいだ。
そんな彼を見ていると、どうにも庇いたくなってしまう。
私たちのやり取りを微笑ましそうに眺めていたルチアは、やがて満足げに頷いた。
「なるほど。よく分かったわ」
「わかったって、何が?」
「いいえ。何でもないの」
そう言って、ルチアは私へ柔らかく微笑みかける。
そして、今度はユリウスへと向き直った。
「妹を頼むわね」
「は。命に代えてもお守りします」
「……命に代える必要はないです……」
即答だった。
……返答の責任が重すぎて、思わず苦笑してしまう。
けれど、そんなユリウスを見ていたルチアの表情は、どこか安心したように緩んでいた。
彼女なりに、妹のことを心配してくれていたのだろう。
そんなルチアの優しさに胸が温かくなった、そのときだった。
背後から、低く落ち着いた声が響いた。
「ルチア。何処へ行ったかと思った」
「まあ、旦那さま」
ルチアの声に振り返る。
そこに立っていたのは、短く切り揃えられた銀髪がどこか野性的な印象を与える、背の高い筋肉質な男性だった。
「フィレンツェ辺境伯……」
「アデライン嬢。デビュタント、おめでとう」
彼こそが、ロア・フィレンツェ。
共和国との国境に接する北方を治める、フィレンツェ辺境伯だ。
その名を知らない者は、この国にはほとんどいない。
北のフィレンツェ。
共和国からの侵攻を防ぐ、帝国の国防の要。
その地を代々守り続けてきたのが、フィレンツェ家だった。
けれど、そんな重責を担う人物でありながら、ロアは気さくで飾らない男でもある。
「魔術師団長もいらっしゃったのだな」
「ご機嫌麗しゅうございます、辺境伯」
ユリウスが礼をすると、ロアも軽く頷いた。
魔術師たちと共に戦場を駆ける機会の多い彼は、魔術師というだけで人を蔑むような人物ではない。
むしろ、その力と危険性を誰よりも理解しているからこそ、魔術師たちを正当に評価している。
そういう意味でも、彼はルキウスの掲げる帝国の革命にとって、これ以上ないほど頼もしい寵臣だった。
……そして。
そんな彼とルチアは、本当に仲が良い夫婦だ。
それは以前から風の噂で知っていたけれど。
こうして二人が並んで楽しそうにしている姿を見ると、改めてそのことを実感する。
(ルチアの相手がこの人で良かった)
「お姉様。ちゃんと辺境伯に声を掛けてからでないと、困らせてしまいますよ」
「だって、妹を見つけたのに、放っておけるわけがないでしょう?」
「それはそうだな」
ロアはそう言って、私へ視線を向けた。
「アデライン嬢。改めて、デビュタントおめでとう。大人の仲間入りだな」
「ありがとうございます、辺境伯」
私が礼をすると、彼は満足そうに頷いた。
こうして見るとロアもまた、私をルチアの妹として親しく扱ってくれているのが分かる。
ルチアが大切にしている人たちが、私のことも大切にしてくれる。たとえ私が、シャーロットと知られれば……彼女の本当の妹じゃないとわかれば、終わってしまう関係だったとしても。
それも、なんだか嬉しかった。
「国境に変わりはありませんか?」
ふと、ユリウスが尋ねる。
その問いに、ロアの表情から僅かに笑みが消えた。
「平穏とは言い難いな」
低い声だった。
「……最近は、あちら側からこちらへ逃れてくる人間がかなり増えた。国境を越えてくる難民を、受け入れざるを得ない状況になっている」
「難民、ですか」
私が思わず呟く。
あちら───それが表すのは、かつての共和国で間違いなかった。
共和国は既にエルステラと名前を変え、魔術師ではない者を非術師と呼ぶヴェリアルが支配している。
(人間への扱いが、悪くなるのは目に見えている……)
けれど、ロアはそれ以上のことをすぐには語らなかった。
ほんの一瞬、何かを思案するように目を伏せてから、静かに口を開く。
「内情は、実際に足を運んでみなければ分からん。だが、こちらへ逃げてきた者たちに話を聞くと、どうにも奇妙なことを言う者がいる」
「……奇妙なこと?」
「ああ」
ロアの声が、一段低くなる。
「『首輪を付けられる前に逃げてきた』とな」
「……首輪?」
その言葉に、胸の奥がざわついた。
「それ以上の事は魔術がかかっているのか、どんなに聞いても一切口を割らなかった。それがただの比喩なのか。それとも、本当に首輪を付けられているのか……」
ロアは僅かに眉を寄せる。
「妄想なのか現実なのか、私にも判別がつかん。何しろ、証拠がないからな」
「……」
「ただ、逃げてきた者たちが何人か、同じようなことを口にしていたというだけだ」
淡々と告げられる言葉とは裏腹に、その声音には隠しきれない警戒が滲んでいた。
首輪。
その言葉だけが、頭の中に妙に鮮明に残る。
華やかな音楽。
煌びやかなドレス。
楽しげに談笑する貴族たち。
そんな夜会には、あまりにも似つかわしくない言葉だった。
けれど────。
不穏な単語が、この場に落とされた瞬間。
まるでそれを合図にしたかのように、ふいに会場のざわめきが、大きくなった。
先ほどまで優雅に流れていたワルツの調べさえ、遠くに聞こえるほどに。
何事かと顔を上げれば、会場の入口へと無数の視線が集中している。
その異様な空気に、皇后陛下もまた目を細めた。
浮かんでいた微笑みが消え、あからさまな不快感がその美しい顔に滲む。
「……ルキウス」
皇后陛下が、低く名を呼んだ。
「貴方の誕生日だというのに、随分な格好ね」
その言葉に、私も入口へ視線を向ける。
────そして、息を呑んだ。
かつ、かつ、と。
硬い靴音が、静まり返った会場に響いてくる。
現れた男の姿に、誰もが言葉を失っていた。
ルキウス・アリュール・ルーファス。
帝国の皇太子であり、今日、この王宮で誕生日を祝われるはずの男。
その姿は、とてもではないが祝宴へ現れた人間のものには見えなかった。
頬には、赤い血が一筋。
漆黒の礼装には泥がべったりと付着し、ところどころには乾きかけた血痕まで残っていた。




