だってもう、16歳
1年で10日しか咲かない百合の香油によって、肌は絹のように磨き上げられて宝石のようにキラキラと輝く。
丹念に梳かれ真っ直ぐに垂れる深い黒髪は、淑女の気品に溢れたサテンの黒いリボンで丁寧に結い上げられていた。
ドレスは瞳の色をそのまま映し出したような、淡く澄んだブルー。
十六歳というあどけなさを残す年齢にふさわしい可愛らしさと、大人の仲間入りを果たした者だけが纏うことのできる、息を呑むほどに上品な美しさが同居していた。
このドレスは、父・エセルリード公爵がマダム・デュボワに特注で作らせた自慢の一着だ。
(さすが、あのルチアの妹。日に日に綺麗になっていく)
ドレスを身にまとい、ほんの少しだけ化粧を施した姿を、私は鏡台超しにまじまじと見つめる。
シャーロットだった頃、どんなに願っても真っ直ぐにならなかった癖毛はさらさらだし、
あまり伸びずに悩んだ身長も、今や元の高さを超えているだろう。
まつ毛は影を作るほど長いし、瞳も何もかもを見通せそうな程、澄んでいる。
(なるほど、これが遺伝の力。お遊びで作ってもらった綺麗になれる魔法薬の効果を遥かに超える、可愛らしさ。残念なのは……中身は結局私ってところだけ)
大人の魅力で微笑みひとつで言葉を奪うルチアの真似をして、微笑んでみた。
────へらっ。
(……やめよう)
自分でやっておいてなんだが、我ながら台無しだ。
早々に真似をするのは諦めよう。
そう心に誓った瞬間だった。
ぐっ、と。
なぜか傍らに控えていたメリーアンだけが、突然胸を押さえてその場にうずくまっていた。
「アデラインお嬢様!首飾りはこれはどうですか?」
その後もつつがなく準備は進み、全ての仕上げとしてメリーアンが恭しく差し出したのは、無数のダイヤモンドが眩いほどの輝きを放つ、恐らく国宝級の値段のつく首飾りだった。
それはかつてルキウスから誕生日プレゼント、だなんてふざけた名目で贈られた物である。
「……やめておくわ」
「こんなにもお似合いなのにですか?!」
「だって、あまりにも目立ちすぎない?」
この首飾りに限った話ではない。
私の視線の先には、首飾りを優に凌駕するほどの圧倒的な存在感を放つドレスがあった。
髪の色と揃いの極上の黒絹に、まるで真夜中の星空をそのまま縫い付けたかのように贅沢な宝石が散りばめられた一着。
それもまた、ある日ルキウスから褒美だと与えられたものだった。
……あまりに豪華すぎて、着るには少し躊躇われる代物だけれども…。
「いいではありませんか、いくら目立ったって! だって今日はお嬢さまが主役の一日なんですから!」
正確に言えば、今夜はデビュタントを迎えるすべての令嬢令息たちのお披露目の日、だけど。
「…………お嬢様ぁ」
メリーアンをはじめとする周囲のメイドたちの熱心な視線に押され、私はきらびやかな首飾りをそっと自分の首に当ててみた。
体の虚弱さ故に血色のない肌が、今は逆にダイヤモンドの輝きを受けて発光するように光り輝いている。
アデラインの為に作られたネックレス、というだけあり、とてもよく似合っているように見えた。
「確かに、凄く綺麗」
「でしょう!」
「これは着けさせていただきましょう。その代わり引き算で、髪留めをもう少し地味なものに……ね?」
「もうこれ以上引き算は出来ません!」
この絢爛たる宝石を、もう二度とつける機会なんて訪れないだろうし。
これだけの職人技が注がれた素敵な首飾りを、ただの飾り物として置いておくのはあまりに勿体ない、そう思った。
ただそれだけ。
舞踏会。
それは多感な令嬢たちにとって、運命的な出会いや甘いロマンスを夢見る特別な場所。
けれど、私の心にそんな幸せの片鱗は微塵もなかった。
共和国は落ちた。
エルステラが帝国に牙を剥くのは、もはや時間の問題だと誰もが囁いている。
かつてエルステラの魔術師だった者として、背負わなければならない十字架がある。
その責任を果たすべき立場が、自分にはあった。
……だけど、今日だけは特別。
今日はかつてのシャーロット・ラヴィアンジュではない。
エセルリード公爵令嬢アデラインとしての義務を、完璧に果たさなければならない一日。
素敵な同年代の貴公子にエスコートされ、極上のドレスを身にまとい、愛情深い父に心からの幸せな笑顔を見せてあげなければならないのだから。
(……仇を娘にする事になってしまった、エセルリード公爵へのせめてもの罪滅ぼし、ね)
鏡のなかの少女は、いつの間にか子どもっぽさを抜け出し、着実に成長を遂げている。
これほどまでに豪華な宝石の重みに負けず、むしろ我が物として纏いこなせる年齢になったのだ。
十六歳。
それはつまり────。
私が死んでから、すでに十六年が経ったということ。
人間の倍近くの時間を生きる魔術師は、肉体の老化速度も緩やかだ。
だからこそ、新聞の片隅に映し出されるヴェリアルの姿は、昔と少しも変わらないままだった。
あと三年で、シャーロットが生涯を閉じた年齢に追いつく。
あの時、何も成し遂げられぬまま散っていった私は、今度こそ何かを為し遂げることができるのかな────。
鏡のなかの自分に静かに自問自答していると、突如として控えめなノックの音が部屋に響いた。
だが、返事をする間もなく扉が無遠慮に押し開けられる。
こんな無作法とも言える振る舞いを、エセルリード公爵令嬢のプライベートな空間で許される人間など、この大陸にただ一人しかいなかった。
「ルキウス様?レディの準備部屋にノックなしで入るなんて、お行儀が悪いですよ」
「お前がいつからそんな上品なレディになったのか教えてくれ」
ドアは部屋の入口からまだ遠く、その姿はまだ鏡にすら映っていない。
それでも、相手が誰かなんて振り返るまでもなく分かっていた。
案の定、空間を揺らしたその声には、どこか悪戯っぽく冷ややかな響きが混ざっている。
─────だが、次の瞬間。
「……どうして俺が贈ったあのドレスを着ていない?」
ドレッサーの磨き上げられた鏡に、ふっとルキウスの姿が映り込んだ。
彼は私が纏う淡いブルーのドレスを一瞥すると、スッと細められた瞳の奥に危険な光を宿す。
瞬間、部屋の温度が目に見えてぐっと下がり、背筋を凍らせたメイドたちが恐怖に身を震わせた。
帝国の皇太子の不機嫌など、一歩間違えればその場の全員の首が飛びかねない命に関わる事象だ。
彼女達の恐怖は簡単に理解できた。
私は静かに ため息を吐くと、メイドたちへ退室を命じた。
……もっとも、メリーアンだけは納得がいかないとばかりに、強い怒りを宿した目を頑なに向け続けていたけれど。
「アデライン」
「皇太子殿下にいただいたドレスなんて、エセルリード家の家宝ですから」
「今日、着せる為に贈ったのだが」
磨き上げられたドレッサーの鏡越しに、私は冷ややかな威圧感をまとったルキウスを見つめる。
その端正な顔立ちを映す鏡の前で、彼はふと伸びやかな指先を伸ばし、私の病的に白い首筋で眩い光を放つ宝石へと触れた。
ひんやりとした体温が、皮膚越しに微かに伝わってくる。
「……」
「綺麗でしょう?……素敵な方にいただきました」
「……これすらしまい込んでいたら、無理やりにでも着替えさせたのに」
皮肉めいたやり取りのあと、ルキウスはふと視線を柔らかく和らげ、どこか懐かしむような目を向けた。
「……大きくなったな。前は足くらいの背丈だった」
「言い過ぎです。ルキウス様に会った時はもう10でしたよ。ある程度お姉さんです」
「はっ」
ルキウスは灰色の瞳を私の瞳にしっかりと絡めたまま。
そしてその大きな手が、私の頬へとゆっくりと添えられた。
触れた指先は微かに熱を帯びていて、慣れ親しんだはずの体温なのに、今はやけに生々しく胸の底をざわめかせる。
彼の指は、頬から白い首筋の滑らかなラインをなぞるように伝い、鎖骨のあたりで静かに揺れる首飾りのきらめきへと滑り落ちていった。
─────くすぐったい。
彼は小さい頃から、こうしてスキンシップの多い人だった。
そこに特別な他意などないことくらい、頭では分かっている。
けれど、こうして成長した今の姿で鏡に映し出されると、ふたりの姿はもはや無邪気な子ども同士ではなく、紛れもない大人の男女のものに見えてしまう。
もう十六歳なのだ。
そろそろ、ちゃんとふたりの間に線引きをしなければいけない頃合だった。
高鳴る胸の音を隠すように、私はわざとらしく明るい声を紡ぎ出す。
「6年なんて、あっという間ですね。ルキウス様や王宮の方々には、大変お世話になりました」
「これでガイウスに小言を言われずに済むな」
「こごと?」
「そう、小言」
小言とは?と思い首を傾げるも、細かい内容についてルキウスは話すつもりがないようだった。
名残惜しそうに、けれど未練を残さないように、スッと彼の手が離れていく。
その手のひらの余韻が、冷えていく肌に妙な寂しさを落としていった。
「ルキウス様。25歳のお誕生日、おめでとうございます」
「アデライン。……お前も、デビュタントおめでとう。……美しいよ」
「えへへ」
「気の抜けた声だな。レディなのではなかったか?」
ルキウスは楽しそうに、ふっと柔らかく微笑んだ。
「部屋の外に客人が来ていた。今日くらい、譲ってやろう。最初にドレスは見れたしな」
「客人、ですか?」
「ああ。私が無遠慮にここに踏み込むのを、殺気立った目で睨みつけていた男が待っているぞ」
小さく笑いを含んだ足音を残し、ルキウスは颯爽と部屋を出ていく。
私はその背中を見送ったあと、深く息を吸い込んでから重厚な扉を開け放った。
そこにあったのは、冷たい廊下の空気の中で、燃えるような真紅の薔薇の花束を大切そうにかかえたエセルリード公爵の姿だった。




