sideルキウス 彼女の為のセレナーデ
かつかつ、と小気味いいヒールの音が石畳の廊下に反響する。
彼女をこの密やかな場所に呼び出したのは、ただ一つの決着をつけるためだった。
宮廷で会おうものなら、瞬く間に貴族社会の毒蛇どもの餌食になり、次の月には無理やり聖堂の祭壇の前に立たされて男神に愛を誓わされていることだろう。
そんな事態を引き起こす者がいれば関係者全員首を斬り落としてやるところだが、そもそもその後の面倒くささを想像するだけで吐き気がする。
それを未然に防ぐため、静まり返ったガイウス家のタウンハウスをわざわざ借りていた。
「皇太子殿下へ、心よりご挨拶申し上げます」
「顔を上げろ。……こんな人目につかない所に呼び出して、すまないな」
「いいえ。構いませんわ、殿下」
ルチア・エセルリード。
彼女はまるで貴族令嬢の教科書そのもののような、完璧な美しさを纏ったカーテシーを披露した。
促されて椅子に腰掛けさせると、控えの端で気配を消していたガイウス家のメイドが、銀のポットからカップに琥珀色の紅茶を注ぐ。
ふわりと甘い花の香りが、張り詰めた応接間の空気を優しく溶かしていった。
「……とても美味しいお茶ですね」
「……ルチア嬢。この前の話だが、丁重に断らせていただく」
差し出された甘い香りを拒絶するように、私は即座に結論を告げた。
しかし、ルチアは微塵も動揺せず、ただクスクスと鈴を転がすように笑った。
「何がおかしい?」
「いえ。あまりにも急いでいらっしゃるから……。早く厄介事を終わらせたかったのだな、と思いまして」
「悪いな。私は戦場育ちだ。貴族特有の、腹の探り合いのような回りくどいやり取りにはどうも慣れていない」
ルチアは微笑みを崩さない。その瞳の奥には、底知れぬ知性が静かに光っていた。
「……意外でした。貴方は、国のためならご自身の心すら機械のように差し出せる方だと思っておりましたので。いえ……もしかして、私を選ぶことは『国のため』にもなりませんでしたか?」
「いや。皇太子としての最適解を求めるなら、ルチア嬢と婚姻を結ぶのが間違いなく正解だろう。貴女は魔物の巣食う宮廷でやっていける程賢く、花のように美しく、何よりこの帝国で得難い血筋を持っている」
「……お褒めの言葉を、ありがとうございます」
私の言葉に嘘はなかった。
年頃が合い、眩しいほどの華やかさを纏い、なおかつ妹への深い情愛に満ちた女性。
そしてシャーロット・ラヴィアンジュを討ったエセルリード公爵の長女。
帝国に訪れるであろうこれからの荒波を思えば、これ以上ない伴侶であることは理解していた。
「……でしたら、何故ですか?」
「恋しく思う女がいる」
「恋、しく……」
その瞬間、ルチアは心底驚いたように、完璧だった美しい目を丸くした。
仮面を剥ぎ取られたような、彼女のそんな無防備な素の表情を見たのは初めてだった。
私は、彼女に嘘をつかないと決めていた。
いくらでも綺麗事を並べて取り繕うことなど容易かった。
だが、ここで偽りの言葉を紡げば、なぜだか確信してしまうのだ。
───単なる目の前の政略ではなく、あいつが私の手からすり抜けて遠くへ逃げていってしまうような気がして。
「意外か?」
「はい、とても……」
「私自身もそう思うよ。しかも、まったく報われそうにない片想いだ」
「未来の帝国の頂点に立つ方の愛を拒むご令嬢など、この世に存在しないでしょう」
「あいつなら平然と『嫌です、お断りします!』と背中を向けかねん」
脳裏に浮かんだのは、普段は鈍いのに、少しでも皇太子妃の事をちらつかせると眉間にシワを寄せ、本気で嫌そうような顔をする彼女の姿だった。
あいつなら間違いなく、絢爛豪華な王妃の宮殿よりも、日当たりのいい窓辺と平穏な暮らしを選ぶだろう。
カチャン、とルチアがティーカップをソーサーに置く乾いた音が響いた。
「殿下への見方が、少し変わりました」
「どういう風に?」
「想像していたよりもずっと、人間らしい方なのだと」
「不遜だな。アデラインの姉君というわけだ」
「良い意味で、申し上げております。……そのような、あたたかな目をされるのだな、と知りましたから」
「温かい……?はっ、荒野を駆ける戦場の者どもが聞けば、笑い死にするか耳を疑うだろうな」
「ふふ、失礼いたしました」
いつからだっただろうか。
あんなにも死と隣り合わせで、血の匂いしか感じなかった毎日のなかで、朝が来ることをそれほど憂鬱に思わなくなったのは。
朝が来れば、あいつはまたどんな突拍子もない策を考えて私を驚かせるだろう。
どんな菓子を頬張り、あんなふうに無防備に笑うだろう。
たとえ退屈で残酷な日常であっても、あいつがそこにいれば、いつも柔らかな陽の光の傍にいるかのように温かい。
『生きててくださって、ありがとうございます』
ただ私が生きているという事実だけで、心の底から安堵し、喜んでくれる、変な女。
生きるということは、奪い奪われる修羅の道だけではないと、あいつが教えてくれた。
ルチアとの語らいを終え、私はタウンハウスの重厚な扉から外へ出る。
馬車の前では、護衛として連れてきたユリウスが静かに控えていた。
「ユリウス・ティリス」
「はっ」
「結局あれは、なんだ?」
「……何のことでしょうか」
「しらばっくれるのが相変わらず下手な男だ。すべて顔に出ているぞ」
ユリウスは、隠しきれない動揺を滲ませ、気まずそうに眉を下げた。
「齢十にして、宮廷魔術師団長のお前よりも魔術の本質に精通している。おまけに、この大陸の誰も見たことも聞いたこともない、未知の術を使う」
彼女はあの時、確かに世界を歪めるような異質な術を操った。
私自身が魔術に造詣が深いわけではない。
それでも、大陸のすべての魔術師が同じ神の名を讃え、同じ呪文を紡ぐことくらいは知っている。
ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ。
魔術師たちが崇める女神ルウェルに祈りを捧げ、その奇跡を降ろすための聖なる言葉。
だが、アデラインが紡いだのは、それとは似ても似つかない、まったく異なる響きを持つ言葉だった。
それはまるで、遥か昔に滅び去った、この世界の理の外にある「失われた文明の言語」のようで。
「言え、ユリウス」
「……それを私に問うて、どうなさるおつもりですか」
「決まっている。使うさ、適切にな」
ユリウスは目を伏せ、しかし逃げずに真っ直ぐな瞳で私を見据えた。
かつての、長い前髪に暗く影を落としていた陰鬱な気配はもうそこにはない。
それは確固たる意志を宿した、一人の誇り高き魔術師の眼差しだった。
「……殿下。どうか、私の職を辞すことをお許しください」
「なんだと?」
「私は……あの方にとって不都合になる真実を、あなた様にお伝えしたくはないのです」
あのユリウス・ティリスが。
かつて王家に、帝国に飼い殺され、それでもその魂の奥底では決して誰にも屈することのなかった孤高の天才が、一人の少女のために今まで積み上げてきた物を捨てようとしている。
「……随分と、惚れ込んだものだな」
「どうしても私から聞き出さねばならないというのなら……申し訳ありませんが、首を斬られようとも口は割りません」
「嘘だ」
「は……?」
私が三秒ほどじっとその顔を見つめた後、ふっと笑ってみせると、ユリウスは間の抜けた声を漏らした。
「試しただけだ」
「はぁっ……!?」
主君に向かってありえない不遜な絶句が飛んできた。
ユリウスは完全に気力を奪われたように、その場に崩れ落ちそうな勢いで項垂れる。
時折、こいつはこうして昔の面影を覗かせる。
かつての幼なじみとして過ごしていた日々の、懐かしい友人としての顔に戻るのだ。
「あれは、どう転んでも厄介な女だ」
「厄介、ですか」
あきれ返ったように呟くユリウスに、私は冷ややかに笑い返した。
「あんな力を隠し持ちながら、世間知らずで、自らの命を惜しまない。……もしも彼女の傍らに、何があろうとすべての敵を押し潰してでも力になってやれる奴がいなければ、瞬く間に悪意に沈められ、利用し尽くされて終わるだろう。それだけの圧倒的な価値が、あれにはある」
「……ならば、それを守るのはあなた様ではありませんか?」
「私には、出来ない」
即答だった。
なぜなら、私はやがてこの帝国のすべてを背負う「皇帝」となる男だから。
統治者として、国家と彼女を天秤にかけねばならない時が来る。
国益のために、彼女を切り捨てなければならない非情な選択を迫られる瞬間が、いつか必ず訪れるのだ。
その時、私は彼女の味方でいてやれない。
「だからこそだ。主命を下す、ユリウス・ティリス」
私は、ただ一人の信頼する臣下に命じた。
「お前は今後、何があろうとも、誰から何を命じられたとしても。……例えこの国が滅びようとも、この世の全ての不幸からアデラインを守って死ね」
「っ……は……!」
吹き抜ける冷たい風が、二人の間の沈黙を揺らしていく。
守ってくれ、ユリウス。
私の手では守りきれない光を。
どうか、あの陽だまりみたいな愛おしい女を。
────雲行きが怪しい。
ああ、雨が降りそうだ。
アデライン 10歳編 終了となります。
書きたいことを書いていたらあっという間に70話を超えてしまい、驚いております。
読者の皆様、いつも応援、ブクマ大変励みになります。
感想などもいただけると、とても嬉しいです!
いつもありがとうございます!




