奇跡はいつも傍に
あれから暫く私たちは背中を寄せ合い、息を潜めていた。
背筋を這う冷たい汗と、どこか遠くでざわめく気配──いつ暗殺者たちが踏み込んでくるとも知れない緊張が、室内の空気を重く張り詰めている。
その逃げ場のない沈黙を切り裂くように。
「っ……!」
ふいに肌が粟立ち、現実の輪郭が揺らぐような微かな魔力の波紋が走った。
それは遥か遠く、途方もない隔たりの向こう側から、私という存在を必死に手繰り寄せようとする切実な魔力だった。
「ユリウスの……気配……!」
「本当か?」
隣にいたルキウスが怪訝そうに呟く。
それも当然だ。私たちが閉じ込められているこの深層世界は、現実のユリウスがいる場所からあまりにも遠い。
だから、その呼び水も届きかけた端から細り、消えかけてしまう。
─────これじゃ、届かない……!
私は衝動に突き動かされるまま、窓のカーテンを引き剥がした。
屋敷のなかに閉じこもるより、少しでも外の空気に触れたほうが魔力のアンテナが広がるはず。
そう思ったからだ。
だが、窓の外を見た瞬間、私は別の絶望で息を呑んだ。
「……嘘……」
遥か視界の端。
世界のふちが、まるで砂時計のように音もなく崩れ、霧散していく。
すべてを呑み込む漆黒の虚無へ向かって、この世界が猛烈な勢いで削り取られていくのが見えた。
(世界の寿命が、もう持たない……!)
私が今、ルキウスと共にここに存在しているという事実を、今すぐ外のユリウスに知らせなければならない。
このまま世界の崩壊に飲み込まれれば、私たちは永遠にこの記憶の深層から抜け出せず、現実の肉体ごと消滅するだろう。
迷っている暇なんて、一秒もなかった。
「ルキウス皇太子殿下」
「……急に改まって、どうした?」
「褒賞の前借りをお願い出来ますか?」
戸惑う彼を真っ直ぐに見据え、私は冷や汗の滲む拳を握りしめた。
いつか訪れる未来の清算など知ったことか。
いまを生き延びるために、私は彼の圧倒的な権力に許しを乞う。
「……いいだろう。言ってみろ」
「ありがとうございます。……それではルキウス様。今から私が見せること、聞くこと、その全てを……なかったことにしてください」
覚悟に満ちた私の声音に、彼の瞳に鋭い光が宿る。
「……いったい、何をするつもりだ?」
ルキウスが怪訝に眉を寄せる間にも、世界の崩壊の足音は確実に迫っていた。
もはや一刻の猶予もない。
私は迷うことなく膝をつき、足元に転がる亡骸の冷たい血にそっと指先を浸した。
生々しい赤が、ひんやりと皮膚を伝う。
濡れた指をためらいなく床へと這わせ、冷え切った板の上に、急速に陣を描き出していく。
「……女神ルウェルよ。貴方達がこれからも私の人生を楽しみたいのならば、力をお貸しください」
誰にも聞き取れないほどの、祈るような、けれど決して折れない強い意志を込めた小さな声で、私は遠い昔に忘れ去られた祈りの言葉を紡いだ。
「……ジュア・アーテ・フィニス・フィンドラーリア」
これはシャーロットの記憶を受け継ぐ、この世界で私にしかできない事。
古代語。それはすでに歴史の闇に埋もれた失われた言語。
今日において、これを完璧に使いこなせる者など誰もいない。
多くの者にとっては、分厚い古文書の隅の隅、埃をかぶった教本の片隅に「そんなものもあったな」と記されている程度の、ただの童話のワンフレーズに等しいものだ。
(一言一句、どんな些細な事も忘れない私のこの悪趣味な記憶力が……生まれて初めて、ちゃんと生きた気がする)
かつての特区では、新聞の文字を丸ごと暗唱して道行く客を呼び込み、わずかな日銭を稼ぐため。
そして、ユーティオティアスに無理やり叩き込まれた膨大な淑女教育や、血を吐くような魔術の基礎教養。
振り返れば、あの過酷な日々に拾い集めた知識が役に立ったことは多い。
だがその代償として、余計なものまで鮮明に刻まれてしまった。
忘れたいと願う記憶さえ、脳裏からこびりついて離れない。
大勢の帝国兵をその手で惨殺した時の生々しい感触。
冷たくなっていく途中で、必死に伸ばされたまま助けられなかった小さな手。
……死にゆく私を止める、ヴェリアルの悲痛な声。
胸を締め付ける後悔と痛みが脳裏をよぎる。
けれど私がこの呪いを抱え、すべてを記憶する力を得たのは。
────きっと、今日のこの瞬間のためにあったのだ。
勝算などない。これは完全な賭けだった。
本物の古代魔術を使ったことがある魔術師は、いくら人間より長寿な存在であろうとも、今の時代に生き残っているはずがない。
教科書通りの理論だけで成功する保証などどこにもなかった。
それでも、私の胸の奥には確信があった。絶対に、私なら使えるという奇妙な自信が。
私をかつて死の淵から引き戻した、あの孤独のダイヤモンド。
そして、古代を生きた女神ルウェルの魂。
もしこの奇跡を発動するための条件があるとすれば、きっとそれらはすべて完璧に揃っている。
呪文の最後の音を落とした瞬間、視界を焼き尽くすほどの強烈な閃光が陣から走った。
空間の裂け目から濁流のように溢れ出た光が、容赦なく私たちの身体を包み込んでいく。
そしてもう目の前まで来てしまっていた世界の崩壊は、眩い白へと塗り替えられていった。
「ルキウス様っ……!」
突然の圧倒的な事態に呆然とする彼に向かって、私は叫ぶように手を伸ばした。
その直後、視界が白濁する中、パシッと力強く私の手が誰かに握りしめられる。
それは錯覚ではない、確かに私の体温を受け止める確かな温もりだった。
「っ……!」
咆哮する光の奔流に飲まれ、重力と平衡感覚が完全にひっくり返るような浮遊感。
世界が激しく反転するめまいの直後、私たちは冷たい闇から引き剥がされるように、あの見慣れた現実の部屋の天井へと放り戻されていたのだった。
「ご無事ですか……ッ!」
意識が浮上した瞬間、視界に飛び込んできたのは、必死の形相で私を覗き込むユリウスの姿だった。
その双眸には、すべてを失う恐怖に歪んだ切実な焦燥が張り付いている。
「あ……」
声にならない吐息を漏らす私の中で、まだジンジンと熱を帯びた魔力が、血管を愛おしく駆け巡るような心地よい余韻を残して脈打っていた。
────使えた。
あんな絶望的な極限の状況で、私の中に眠る古代の魔力が、しっかりと私の意志に応えてくれた。
それは、シャーロットとして……いや、アンジュという別の名を与えられて生まれた時から、ずっと当たり前のようにそばにあったもの。
寒さに凍える夜も、孤独に押しつぶされそうな暗闇も、その温もりだけが私を内側から照らし続けてくれた。
一度すべてを失い、その絆を断たれて初めて気づいたのだ。
(あぁ、私は魔力を、愛しているんだ)
自分のなかに再び魔力が満ち満ちていくことが、愛おしくてたまらない。
震える両手をそっと持ち上げ、自分の目でまじまじと見つめる。
その手のひらに、ぽとりと熱い雫が落ちた。
涙だった。
流そうとしたわけでもないのに、あふれ出した感情が勝手にこぼれ落ちていく。
「アデライン様、どこか痛みますか……?」
ユリウスの切なげな声が、優しく上から降ってくる。
私はそっと首を横に振った。
ふと視線をずらせば、すぐ隣でルキウスが静かに、深い色をたたえた瞳で私の顔を見つめていた。
その無事な姿を確認して、私は安堵の息を長く吐き出す。
(よかった、ルキウス様もちゃんと、現実へ戻ってきてくれた)
だが、胸を撫で下ろしたのも束の間。
(…………どうしよう)
私は今、この帝国の最高権力者の目の前で、現代には存在し得ない古代魔術を盛大にぶちまけてしまった。
それはもう、決して覆すことのできない純然たる事実だ。
「あ、あの……ルキウス様」
鼓動が早鐘を打つ。
ルキウスは仮に私が「魔術師」だと知ったところで、虐げたりはしない。
むしろ使える駒が増えたと思うだろう。
それは分かっている。
だが、問題はそこではない。
私の使った術式は、紛れもない「古代魔術」なのだ。
起動式すら今や古文書のなかにしか存在しない代物だ。
これをどうして私が使えたのかと問われれば、自分がかつてのシャーロットであると明かし、あの孤独のダイヤモンドと女神ルウェルの因果についてすべてを告白するしかない。
ルキウス・アリュール・ルーファスという男を、私は深く信頼している。
けれど、彼が帝国の皇太子という立場において、この底知れぬ「切り札」を目の当たりにしたとき、どう判断し、どう利用しようとするか────まだ私はその点において、ルキウスという人間を信じられなかった。
私の揺れる瞳の奥を覗き込むように、彼はじっと見つめ返す。
そして、先に口を開いたのはルキウスの方だった。
まるで私の不安を包み込むような、深く落ち着いた声音で。
「体力が回復したら、ユリウスとだけ口裏を合わせておけ」
思わぬ慈悲の言葉に、私は息を呑む。
「……先ほどお願いしたのは私ですが……本当に、良いのですか?」
「お前がそう望むなら」
一切の迷いなく言い切ると、ルキウスはふわりと私を優しく抱き上げ、そのまま傍らにあったふかふかのベッドへと運んでくれた。
背中を預けた瞬間、ぽすん、と柔らかいスプリングが心地よい音を立てて沈み込む。
「もう余計なことは考えるな。今はただ、休め」
そう優しく囁くように告げながら、彼は私の乱れた前髪を慈しむように払い、その額にそっと熱を帯びたキスを落とした。
「っ……!」
あまりにも甘い不意打ちの優しさに、私の心臓は先ほどとは違う意味で、激しく高鳴り続けるのだった。




