たとえお前が何者であろうとも
降り立ったのは、酷い雨の日のどこかのお屋敷だった。
白亜の噴水や大理石の壁が、恐らく此処が有力者の邸宅であることを証明していた。
私は誰もいない、薄暗い廊下を一人で歩く。
昼間なのに厚い雨雲がかかっているせいで、世界全体が鉛色に沈んでいた。
遠くの方で轟く雷鳴を横目に、窓の外の庭園へと視線を向けた。
完璧に手入れが行き届いているはずなのにどこか活気のないその景色には、陰鬱な気配だけが立ち込めていた。
聞こえるのは、絶え間ない雨音と、冷たい床を叩く自らの足音だけ。
────ここは、ルキウスの心の中。
意識が戻ったとき、私は既にこの拒絶的な空間に入り込んでいた。
ユリウスの術は、どうやら無事に成功したらしい。
私はこの歪んだ心の深淵からルキウスを探し出し、そしてユリウスに彼ごと外へ引き出してもらわなければならない。
残されたタイムリミットは、きっとそう長くはない。
ルキウスがこの夢の中で死ねば、この空間は跡形もなく消え去るだろう。
それに……こういう異空間はイレギュラーに弱いのだ。
私が入り込んだことで急激に変異し始めてもおかしくない。
私は静まり返った回廊を走り抜けた。
初めて足を踏み入れる屋敷の構造など、当然分かるはずもない。
それでも、ルキウスの居場所を探し当てるのはそう難しくなかった。
何故なら────。
「……これ、血?」
磨き上げられた床に点々と残る、生々しい血痕。
それを辿るように廊下を進むと、やがて1つの開いた扉に行き着いた。
扉の向こうからは、淀んだ冷気が漂っている。
私は息を潜め、静かにその部屋へと足を踏み入れた。
瞬間。
「……っ」
ついさっきまで気配すら感じさせなかった圧倒的な殺気が、背筋を凍らせる。
喉元に突きつけられた鋭利な剣先が、呼吸すら許さない。
薄皮一枚。
首筋に走った細い痛みが、ここが生死の境目であることを教えていた。
凍りついた空気の中、剣の持ち主が、獣のように鋭い眼光で私を射抜く。
────だが。
わずかに震えた私の瞳をとらえた瞬間、その殺気は嘘のように消えさった。
静寂の底で聞こえたのは、あまりにも聞き覚えのある声。
けれどそれは彼にしては珍しく、ひどく動揺の色を帯びた声だった。
「アデライン?」
「……ルキウス、さま」
壁の死角、刃を構えて息を潜めていたのは、紛れもなく私が探し求めていたルキウス・アリュール・ルーファス、その人だった。
「……そうだな。お前はこの場にいるはずもない……本物か」
ルキウスは低く呟くと、音もなく剣を鞘に納めた。
そして、私の存在を確かめるように、冷えた指先でそっと頬に触れる。
窓にはカーテンが引かれ、陽の光の差し込まない部屋の中は薄闇に包まれていた。
まだ暗さに慣れない私の視界では彼の表情がよく見えなかった。
けれど肌に触れた手のひらから伝わるぬるりとした感触と、鼻腔を突く生臭い鉄錆の香りで、それが何であるかは嫌でも理解できた。
「怪我をされたのですか……っ!」
「いや、違う。……私のものではない、返り血だ」
「っ……」
たとえ視界が利かなくとも、感覚のすべてが雄弁に物語っていた。
ルキウスの背後、暗がりの奥に広がるのは、おびただしい数の死体の山だ。
喉が焼けるような噎せ返るほどの死臭と血の気に耐えかねて、私は思わず一歩、足を引き下がらせた。
「……で、何故お前がここにいる?」
「あなたを、助けにきました」
「……ふ……っ、 はは……っ!」
「ど……どうされました?」
「こんな子供が助けにくるなんて、どこの御伽噺よりも冗談めいているというのに……不思議だな。お前が言うと、妙に現実味を帯びて聞こえる」
ルキウスはふっと乾いた笑いをこぼすと、力なくその場に中腰になり、上目遣いに私を見上げて自嘲気味に言った。
「さて、どうやって助けてくれるつもりだ?」
「今すぐ、ここから現実へ連れ帰ります。と言っても、ここからの脱出は外にいるユリウスの術頼みですが」
「そうか」
その時だった。
ぴしり、と。
ガラスの亀裂のように張り詰めた殺気が、再び忍び寄るのを感じた。
濃密な血の匂いと泥の湿気が混ざり合う闇の中から、また新たな刺客が牙を剥いて現れたのだ。
「アデライン、後ろへ下がれ」
「……っ、はい!」
ルキウスの声に迷いはなかった。
彼は一歩踏み出し、瞬く間に侵入した3人の刺客を絶命させる。
返り血を浴びたその身のこなしは、もはや戦闘というよりも、処刑劇に近かった。
静寂が戻った空間で、ルキウスは冷笑を浮かべる。
「馬鹿馬鹿しい。……かつて十三の私を殺し損ねた連中が、今の私を殺せるはずがないだろう。なぁ?」
足元に転がる亡骸と、圧倒的な殺意に満ちた血塗られた空間。
その底知れぬ恐怖と狂気に飲まれそうになりながらも、私は必死に動揺を押し殺し、問う。
「ルキウス様。ここは、どこですか……?どうして貴方が命を狙われているのですか?」
「ここは、今は亡きエルフィン侯爵家の別荘だ。そしてこの日、私は殺される予定だった。私の婚約者の実家でな」
「え……?」
「文字通り、殺されかけた。だから、皆殺しにした。それだけの話だ」
(これが年頃の皇太子に婚約者がいない理由……だったのね)
吐き捨てるようなその言葉には、怒りすら通り越した圧倒的な空虚さが漂っていた。
愛するはずの者に裏切られた少年の絶望が、この残酷な景色を形作っている。
「……その手、拭きましょう」
血まみれになった手を取り、私はドレスのスカートでルキウスの手を拭いた。
彼は相変わらず、何を考えてるか分からないような空虚な瞳を浮かべていた。
「……大丈夫ですか?」
「この通り、かすり傷ひとつ負っていない」
「……そうじゃなくて、心も、です」
私が心配そうに彼の顔を覗き込むと、ルキウスはふっと長く息を吐き、静かに目を伏せた。
血の赤に染まった冷たい空間の中で、その長い睫毛がかすかな影を落とし、彼の横顔をより一層孤高なものに仕立て上げる。
「この術は、対象の最も精神的に過酷だった『記憶』の深層へと連れていくんです」
「……趣味の悪い魔法だな」
「ええ、まったくもって、その通りだと思います」
「心配はいらない。折り合いならとっくにつけている」
噎せ返るような血の匂いと凍てつく闇に包まれながら、彼はどこか遠くを見るような、波風ひとつ立たない凪いだ目をしていた。
まるで自分以外の誰かの物語を語るかのように、その声音はどこまでも静かで、触れれば壊れてしまいそうなほど儚い。
けれど、たとえ彼の中で過去の精算がついていようとも。
終わったこととして深く蓋をされていたとしても。
「……折り合いがついていようと、こんな記憶をもう一度見せつけられるなんて……嫌に決まっています」
胸を締め付けられるような痛みに耐えかねて、私は思わずそう零した。
ルキウスはわずかに目を丸くし、それから自嘲するように、けれどどこか楽しげに唇の端を持ち上げる。
「俺は現皇帝の長男と、侍女の間に生まれた。正妻には子供が出来ず、常に疎まれていた。そうして正妻の手の者と婚約して、信じきったところで殺してやろうと思われた。ただそれだけのよくあるゴシップだ」
淡々と紡がれる残酷な真実は、あまりにも痛ましかった。
温もりを知らずに育った少年の記憶の底に、孤独なまま取り残されている彼を思うと、私の胸の奥が熱く疼く。
「……アデライン。そう言えばお前、体調は?」
「こんな状況にあるせいで無理やり動けてしまうんです。戻ったら確実に倒れるので、暫く休暇をください。こんなに頑張ったのですから」
不意を突かれたような静けさの後、ルキウスの喉から低く柔らかな笑い声が零れた。
血にまみれた残酷な記憶の底にいるとは思えないほど、それは穏やかで、優しさを帯びた響きだった。
「良いだろう。別荘をやる。海の見える一等地だ」
「そこまではいりません」
「そうか」
ルキウスはくっくっと笑う。
その瞳から冷徹な仮面がわずかに剥がれ落ち、月の光のように優しい光が灯っていた。
「……静かですね」
張り詰めた空気の果てに訪れた静寂を味わうように、私はそっと呟いた。
「この家の者は皆、死んだのだ」
「現実でも?」
「現実では、婚約者の胸を突き刺した段階で侯爵夫人が発狂して終わった。その後、関係者はみな殺した。皇太子になる前だったから中々殺すのも一苦労だったが」
彼は血塗られた過去を、まるで遠い日の戯言のように淡々と語る。
その孤独の深さに胸が締め付けられる思いがしながらも、私は静かに言葉を返した。
「そうですか」
「それだけか?他には?残酷だと罵るとか、あるいは不憫と泣くとか」
彼の問いには、試すような冷たさの裏側に、どこか怯えるような幼さが隠されていた。
拒絶されることに慣れきったその心に、私がどう映るのかを確かめているかのように。
「大変な思いをされたと、思います」
「……」
「生きててくださって、ありがとうございます」
飾らない、けれど偽りのない本心を込めて告げる。
暗い運命を生き抜いて、今日こうして私の目の前にいてくれること。
その奇跡のような事実に対して、あふれ出る感謝を伝えるように。
ルキウスは息を呑んだまま動かなくなり、やがて穏やかな月明かりの下で、ゆっくりと目を伏せたのだった。
「アデライン。お前、氷菓子は好きか?」
不意に落とされた問いに、私は目を丸くする。
修羅場のような血の匂いが立ち込めるこの空間で、あまりにも場違いな話題だったからだ。
「え?いえ……その、それ程好んでは食べませんが」
戸惑いながらも素直に答えると、ルキウスはふっと満足げに口角を上げた。
「そうか」
「どうしてですか?」
首を傾げる私を横目に、彼は静かに視線を逸らす。
その横顔には、先ほどまでの冷徹な皇太子の面影はない。
「いや、いい」
そして彼は、冷え切った石畳の上に落ちる月明かりを背負いながら、独りごとのように優しく呟いた。
「お前の好みは覚えておこう」
凍てついた過去の記憶の底で、その言葉だけがあまりにも甘く、鮮やかに私の胸の奥へと染み込んでいった。




