今、助けに向かいますから
「アデライン様、ご無事ですか……っ!?」
歪んだ魔力から引き戻された私を、ユリウスがしっかりと抱き止める。
張り詰めた冷気にさらされていた背中に、腕の中から伝わる彼の確かな体温がじんわりと染み入った。
「私は大丈夫。ありがとう、ユリウス」
「その、正体が───」
「……ええ。記憶を覗かれれば、そうなるわよね」
「…………そうですか」
すでに私はシャーロット・ラヴィアンジュの人生を降りている。
革命のために奮闘し、最終的に歩く力を奪われ、ヴェリアルという名の檻に入れられた、シャーロットとしてのかつての日々。
そしてそれはもう、全ての者にとって10年も昔の思い出話に過ぎないのだ。
エルステラの仲間たちは私がいない歳月を、自分たちの足で歩んできた。
そんな彼らの前に今更ひょっこり現れて、混乱させて。
どうするというの?
それだけではない。
アデライン・エセルリードとして出会ってきた今の家族や仲間たちを裏切ることも簡単ではなかった。
だからこそ、すべてを隠し通すつもりだった。
───少なくとも、自分自身の身の振り方が決まるまでは。
けれど。
(……起きてしまったことは仕方がない)
私は胸の内で荒ぶる感傷を断ち切るように小さく息をつき、すぐさま気合いを入れ直し、表情を引き締めた。
「今はなによりもまず、ルキウス様をあの悪夢から助けに行かなきゃね」
「……ですが、下手に無理をして精神世界に飛び込めば、かえって皇太子殿下に危険が……」
「……ユリウス。まず、ルキウス様にかかっている魔術の構成を可視化出来る?」
「はい…!ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ……魔に纏うものよ、その姿を見せよ……!」
ユリウスが呪文とともに素早く掌をかざすと、張り詰めた冷たい空気を切り裂くように、淡く暖かい魔力の光が現れた。
闇夜に浮かぶ星座のように、幾重にも重なる複雑な術式が空中に青白く浮かび上がる。
私はその美しい幾何学模様を、見逃すまいと穴が開くほどじっと見つめた。
「相変わらずミルヒの術式には無駄がないわね」
「彼は大陸一の天才魔術師ですから」
「それでもほんの少しくらいほころびや欠けがあることを祈りましょう。ユリウスはそっちの端から探していってくれる?」
味方でいてくれれば、百人力。
そして敵にすれば、あまりにも厄介なミルヒオールの芸術作品のような術式の中からほんの少しの綻びを探して。
私たちはレース編みように繊細な奇跡の輝きをじっと目を凝らして見つめていた。
先になにかを見つけたのは、ユリウスだった。
「アデライン様、ここを見てください」
「少しだけ綻んでる。……きっと、本当ならばルキウス様1人にかけるつもりの魔術だったのに、直前で私も巻き込まれたせいね。……ここからなら、侵入できるかも」
「……侵入。やはり精神干渉魔術を使って殿下を深層世界から無理やり探し出すしかありませんか?」
「……それは……少し乱暴なやり方ね」
他者の精神の深奥に無理やり踏み込む精神干渉魔術は、一歩間違えれば相手の自我を容易に崩壊させかねない禁術に近い。
ルキウスが深層世界の何処にいるか正確にわからない今、彼の心に無理矢理侵入し手当たり次第に魂の場所を探るのは、あまりにも無謀で、ぐちゃぐちゃにその尊厳を蹂躙するのと同義だった。
ただでさえ悪夢に囚われ魂の限界を迎えているルキウスに、これ以上の致命的な負荷をかけるなんてあまりにも現実的ではない。
部屋を満たす沈黙が、その選択の重さを嫌というほど私たちに突きつけてくる。
「帝国で、こうした精神に干渉したことのある魔術師はいる?」
「いいえ。禁術指定されて久しい分野です。 今の帝国では完全に失われた魔術ですから」
「……そう。魔術師をルキウス様の深層世界に送り込んで、見つけ出す。そして送り込んだ魔術師の魔力の気配を座標として貴方に辿ってもらって、魔術師ごとルキウス様を引っ張り出す。……これが一番負担がかからないやり方だと思うの」
「確かにそれであれば深層世界を余計に荒らさずに救出することが可能……!いやしかし、……精神なんていう少しの亀裂で崩れる脆い所に、本当に侵入出来るはずが……。入った瞬間、術式ごと壊れて、2人とも二度と戻って来れない可能性だっていくらでもあります」
「こればっかりは、ミルヒオールを信じるしかないわね。あの子の組んだ術式の圧倒的な正確さを信じて、薄氷の上のさらに細い糸を歩くしかないわ」
無茶なことを言っている自覚はあった。
だからこそユリウスは、これを本当に決行していいものなのか、重く冷たい沈黙の中で深く考え込んでいる。
帝国魔術師団長として、一歩間違えれば破滅を招くそんな危険な策を実行すべきかどうかを。
苦悩に激しく揺れるユリウスの美しい瞳を、私は逃げずに静かに見つめ返した。
「ときにユリウス」
「……何でしょう」
「古代魔力の気配に貴方は詳しい?」
「古代魔力……ですか?」
私は迷うことなくユリウスの手を取って、その冷たく硬い指先を自らの心臓へとしっかりと押し当てる。
「魔力解析を。恐らく、意識して見ようとしなければ決して見えない位の弱い気配だけど、…………貴方程の術者ならこの気配を感じられるはず」
「……これは……っ!」
薄手の衣服の上からであっても、その皮膚と手のひらを伝ってユリウスへと直接流れ込む、尋常ではない鼓動と圧倒的な熱量。
そして、常人のそれとは一線を画す異形の魔力の気配。
馬鹿みたいだけれど、私はすっかり忘れていたのだ。
ほんのついさっき、ミルヒオールと『孤独のダイヤモンド』の話を口にしたその瞬間まで。
己が────ただの虚弱な人間ではなく、
世界を揺るがしかねない『孤独のダイヤモンド』という最終兵器を所有しているということを。
エセルリードの娘に転生してしまったことばかりに気を取られて、それが持つ無限の可能性とリスクについてこれまで一度も深く考えて来なかったなんて。
(もしティティあたりに今の有様を見咎められたらどんなに怒られていたか……考えるだけで冷や汗が出るわ)
「……貴方は……アデライン・エセルリードは、ただの人間の筈では……!」
ユリウスは息を呑んで目を見張り、触れた手がまるで熱せられた鉄板に触れたかのように、びくりと激しく震えた。
長年鍛え上げられた魔術師としての本能が、その底知れない器のなかに眠る計り知れない危険性を全力で警告していた。
「ここにあるのは、『孤独のダイヤモンド』よ」
「……『宝石王』の、ですか?御伽噺の中の、ただの伝説の遺物のはずでは……!」
「話せば長くなるの。けれど、本物よ。これのせいで私は前世の記憶を持ったまま生まれ変わることになったのだから」
「……後ほど、たっぷりと、ご説明をしていただきますからね」
「ええ、すべてが上手く終わったら約束するわ。だから、教えてユリウス。この気配を……私の中にある古き魔術師の魔力を、あなたは辿ることはできる?」
ユリウスは私の問いかけに、虚を突かれたかのようにわずかに目を見開いた。
しかし私の祈るような視線を真正面から受け止めると、彼は穏やかにふわりと微笑んだのだった。
それはまるで宗教画のようで、息を呑む程美しかった。
「……アデライン様。辿れ、と。そうお命じ下さい」
「ありがとう……頼りにしているわ、ユリウス」
窓の外。
部屋の中の絶望とは不釣り合いな太陽がきらきらと輝いて、優しい風が吹いていた。
「…………それでは、今から術式を掛けます。貴女を、殿下の深層世界までお連れしますから……必ず、お戻りを」
「ええ、必ず……!」
ルキウスをここで失えば、帝国の未来の全てが音を立てて絶望の底へ崩れ落ちるだろう。
それが意味するのは、帝国の───いや、この大陸の破滅。
(絶対にそれは食い止めなくては……。それに……)
私は、あの男が嫌いじゃない。
何を考えているのか読めない、食えない皇太子が。
月明かりに照らされた執務室の机上で、常に疲弊の色を隠しながらも国政を動かす彼の姿が脳裏をよぎる。
私の前でばかり無茶苦茶な我儘を言ってくる厄介な策略家。
そして誰にも見せないところで、血の滲むような努力を重ねている彼のひたむきさを、私は知っているから。
(ルキウス様。どうかもう少しだけ、耐えてください)
だから私は一切の迷いを捨て去り、ユリウスの魔術をその身体に深く受け入れた。
足元から這い上がる宝石のような術式の紋様が、虚空にきしむ音を立て、空間そのものがぐにゃりと歪んでいく。
全身の血管を焼き尽くすような体調不良を抱えたまま、私は終わりなき悪夢の淵へと、自らの意識を自ら手放した。
薄れゆく視界の向こうで崩れ落ちる現実のカケラが────ユリウスの心配そうな顔が、粉雪のように冷たく舞い散っていった。




