全てを捨てて手を取るには、知りすぎてしまったの
凍てつくような冷たい手。
肌を刺す空気までもが、鉛のように重く淀んでいる。
──────間違えてはいけない。
本能が警鐘を鳴らす。
ほんのわずかでも言葉を違えれば、二度と修復できないくらい、ミルヒオールに深く嫌われてしまうだろう。
そんな予感がした。
「ミルヒ」
絞り出すような私の声に、彼は冷え切った瞳を向けた。
「……言い訳は聞きたくないんだけどぉ?」
「……裏切るとか、そういうのじゃない。もちろん、みんなの幸せを心から祈ってる。だけど、わたしはもうシャーロット・ラヴィアンジュじゃないの。彼女の記憶を持っただけの……別の人間なの」
「なんだよぉ、それ……。俺はぁ!……俺たちは……ロティに、ずっと会いたかったのに……」
掠れた青年の声には、途方もない絶望と、すべてを拒絶するような濁った熱が滲む。
「大体、さっきの戦いの中でロティを殺しにきたのは帝国兵じゃん!何で今さらそんなやつの味方をするんだよ!」
「帝国の味方じゃないよ。私はただ、魔術師の味方をしたいだけ」
「じゃあ、エルステラの味方をしてよ!」
「それは……!」
「…………ロティさぁ、この前城下で、どこかの魔術師に広域結界の貼り方教えたでしょ?」
サッ、と血の気が引く。
彼が言っているのは、あの時の────。
(……これ以上、言わないで。ミルヒオールがあの火災に関与してるって、知りたくない)
本当は薄々感じてた。
帝国の皇太子を殺しに来た彼は、きっと皇太子の評判を落とすために他の残忍な事だって何だってするだろう。
それでも、かつて共に過ごしていたエルステラで、人間と手を取りあって協力していたミルヒオールを私は知っていた。
だから信じたくなかった。
彼が目的の為に民間人に手をかけるような事をするなんて。
「 ロティには完敗したよぉ。 相変わらず綺麗で、透き通ってて、生真面目そうな術式。魔力が使えないっていうなら、俺にも魔術を教えてよ。あとはぜぇんぶ、俺がロティの理想通りに魔術を使うから、ねぇ?」
私の切実な願いなど届くはずもなく、ミルヒオールは甘く、歌うように楽しげにそう言い切った。
かつてビー玉のように光り輝いていたその紅玉の瞳には、暗い歓喜の色が揺らめいている。
あの日の夜、すべてを焼き尽くそうとしたあの凄惨な火災はやはり、エルステラ───他ならぬミルヒオール自身が引き起こしたものだったのだと。
私はここで、逃れようのない決定的な真実を突きつけられるのだった。
かつては、同じ未来を見据えて手を取り合っていたはずなのに。
それなのに今の彼は、私の信念とは真っ向から敵対している。
かつての最高の理解者は、いまや最悪の敵として私の前に立ち塞がっていた。
「無理よ、ミルヒ。何より……この身体には、今の家族がいるの。私の勝手で、その絆を引き裂くわけにはいかないのよ」
「家族、ねぇ。そういえば今のちびちゃんの名前は何ていうの?」
「……アデライン・エセルリード」
「…………まじでぇ?」
ミルヒオールは驚いたように目を見開いた。
……その気持ちはよく分かる。
私自身、自らの運命は皮肉すぎると思っているから。
だが、次の瞬間にはミルヒオールはふっと冷ややかな笑みを深め、思いついたようにぽん、と手を叩く。
「なら心配いらないじゃん!どうせエセルリード家なんて、ヴェリアル様の国じゃ生き残れないし」
「言ったでしょう。エセルリードに心臓を撃たせたのは、私だと。恨むのはお門違いだわ」
「でもさぁ、経緯はなんであれ、殺したって事に違いはない。……許せる訳ない。そうでしょ?」
ひょい、と。
軽やかな動作で、ミルヒオールは私の身体をベッドから軽々と抱きかかえた。
昔は私の方がずっと背が高かったのに。
今や私は子どもに逆戻りしてしまい、対する彼は立派な青年になっていた。
暴れようにも、病み上がりの本調子ではない身体では到底敵わない。
「ミルヒ……っ!」
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
「や、ちょっとまっ……!」
「待つわけないじゃん。十年だよ?」
足元から、禍々しく空間が歪み始める。
彼は冷え切った手で私の柔らかな頬を包み込むと、心底嬉しそうな笑みを浮かべた。
「ロティが遺していったものをちゃあんと見届けるまで、お家には帰れないと思ってねぇ。アデライン……エセルリードちゃん?」
その瞬間、耳障りな乾いた破裂音とともに、ぱき、と空気がひび割れた。
いつの間に張り巡らせていたのか、部屋を覆っていた防壁の結界がガラス細工のように砕け散る。
張り詰めた静寂を切り裂いて、崩壊した空間の向こうから姿を現したのは────。
「待ちなさい……!魔術師ミルヒオール……っ!」
激しい戦闘を物語るように荒い息を吐き、血相を変えてそこに立っていたのは、他でもないユリウスだった。
ユリウスが静かに右手を掲げた瞬間、部屋の空気が一瞬にして凍りつき、無数の鋭い氷の刃が吹雪のようにミルヒオールへと襲いかかる。
「……あれぇ? あんた、そんなに強かったっけ?無詠唱なんて出来た……?」
ミルヒオールは一瞬だけ目を見張り、驚愕の色を浮かべた。
─────世界でたった二人。
ヴェリアル・クレミア・ルーファスに直接仲間になる事を請われた、選ばれし真の天才の魔術師達が今、此処で向き合っている。
とは言えこれまで自らの力を深く抑え込み死んだように生きてきたユリウスと、エルステラで日々研鑽と研究に勤しんできたミルヒオールでは、もはや超えてきた死戦の数が違う。
空間を凍てつかせるほどの圧倒的な冷気を前に、ミルヒオールは軽くいなすように片手をひらりと振る。
飛来した氷の刃は、彼に届く直前で嘲笑うように霧散した。
「……ユリウスくん、そんなことしてる場合じゃないよ?皇太子はね、このままだと死んじゃうよぉ」
カラン、と音を立てて落ちる氷の音。
ミルヒオールに届かなかったその攻撃は今度は姿形を変え、ユリウスに遅いかかる吹雪へと変わった。
極寒を思わせる部屋と目を開けていられない程の強い吹雪の中、余裕を崩さない口調のまま、ミルヒオールはうっそりと笑う。
「助ける方法はただ一つ……皇太子の歪んだ悪夢のなかに一緒に飛び込んで、強引に魔術で引っ張り出してあげなきゃいけない」
「……っ」
「ねっ?急いだ方がいい。これは良心からのアドバイスだよぉ。ロティのことはもう諦めてさぁ」
どんどんと自身の身体を形作る構成要素がチカチカと点滅し、現実から遠ざかっていく感覚。
足掻いても、足掻いても逃げられないミルヒオールの腕の中。
そんな絶望の中で。目を開けるのも痛いほどの吹雪の中で。
「この方は、アデライン・エセルリード様です……!」
吹雪の向こう。
ユリウスの瞳はどんなに世界が歪もうとも揺らぐことなく、まっすぐに私を見据えていた。
その強い意志の色に、凍えかけていた心にわずかな熱が灯る。
「ユリウス……っ!」
「うわっ、急に動かないでよぉ!」
「……っ、ミルヒオール。いい加減、離しなさい!……本気で怒るわよ!」
かつて、革命軍で悪さをした子供を叱りつける時と同じ。
どこか懐かしく、かつての同じ口調で。
本当に怒っている時だけしか使わない、彼のフルネームに思いを乗せて。
その瞬間余裕を纏っていたミルヒオールの美しい目が、信じられないものを見るようにまん丸に見開かれた。
彼の中にあった絶対的な余裕が、ガラス細工のように音を立てて崩れ去る。
訪れたのは、ほんの一瞬の隙。
ユリウスは私の手をしっかりと掴み取ると、逃がさないとばかりに強い力でぐっと引っ張った。
「……っ、ロティの……馬鹿っ!」
張り詰めた糸が断ち切られるような、ひゅん、と空気を切り裂く鋭い音と共に、空間そのものがぐにゃりと歪む。
次の瞬間には、私たちを縛りつけていたミルヒオールの姿は、まるで幻影だったかのように跡形もなく消え失せていた。
あとに残されたのは、凍てついた冷気と、すべてが去ったあとの静まり返った部屋。
そしてその一角には、刻一刻と刻限が迫る中、深く眠り続けたままのルキウスの無防備な姿があった。




