あの地獄を、もう一度
目が覚めると、全てが燃え盛る世界にいた。
逃げ惑う人々の叫び声。
天井から落ちてきた沢山の瓦礫。
崩れて壊れ、燃える大聖堂。
真っ暗な世界に、天井から入り込む痛いほどの光線。
ああ、これは、私が人生で一番恐れていたもの。
自分の無力さをまじまじと感じた。
自分のせいで、友達が命を落とした日。
キキを救えなかった日。
世界の全てが変わった日。
そんなあの日の再現なのだ。
「ごほっ、げほっ……」
シャーロット───いや、アンジュだった頃の私は、これでも身体がすこぶる健康だった。
だからこそ、こんなゴミだらけの街でも、隙間風が吹き抜ける五番通りの廃教会の中でも元気に過ごせていたのだと、今の衰弱した肉体になってから痛感するなんておかしな話だ。
わかっている。
これはさっきの魔術師によって見せられている、なんらかの術式。つまりは精巧な幻影なのだ、と。
あの魔術師の、凄まじい魔力。
無詠唱で、時を止めた────いや、そんな魔法は理論上存在し得ない。
それなら……時を、遅くしたのだろうか。止まったと錯覚するくらいに。
時に関与する魔術。それは魔術体系の中でもかなり高位のものであり、とてつもない魔術消費量を伴うはずだ。
そこまでして私たちを確実にこの術式の中に閉じ込める必要があるとすれば、相手は共和国か、それともエルステラ────私のかつての知り合いなのだろうか。
(もしまた出会えたら、どうやってあの術を組み立てたのか聞いてみたい……なんて、不謹慎ね)
発熱している今の身体で、動き回る元気など残っていない。
私は崩れかけた瓦礫にしゃがみこみ、崩壊ゆく街をぼうっと眺める。
(最悪の気分。それでもこれは現実ではない。だから、ここでじっとしていればいいのよ)
気分の悪さに耐えながら、ただ時が経つのをひたすら待つ。そうすれば魔術師だって魔力切れを起こして、いつか術は解けるはずだ。
そう思ってやり過ごそうとした私を、ひとつの声が引き止めた。
「アンジュ……!」
「え……?」
ミア。
特区で仲良くしていた子。
帝国の事故で特区の天井が落下したその瞬間、すぐ傍にいた子。
「アンジュ、危ないよ! 早く逃げなきゃ……!」
「ミア……」
彼女は私の手をぐいぐいと引っ張る。
その瞬間、頭上の天井から、ぱらり、と大きなガラスの破片が降り注いだ。
すぐ近くに落下したそれはガシャアンと大きな音を立て、弾けた破片が私の額を浅く切り裂く。
「……ちゃんと、痛い?」
「何言ってるのよ、アンジュ! 大丈夫……?」
落ちてきたガラスの破片に映る自分の姿を見れば、そこには紛れもない、アデライン・エセルリードの顔があった。
それなのにミアは私をアンジュと呼び、そして負った傷には確かな痛みがある。
これはもしかして、単純な夢や幻影ではないのだろうか?
此処で受けた傷が、現実世界の自分にそのまま反映されるとしたら────最悪の場合、ここで死ぬことだってあり得る?
ならここでわたしはただ時間をやり過ごすのではなくて、きちんと何かしらの方法で解呪しなければいけないの?
その可能性に一瞬絶望しかけたが、私は目の前で音を立てて焼け落ちる大聖堂の激しい熱さを肌で感じ、腹を括って大きく深呼吸をした。
「……ミア、落ち着いて私の話を聞いて」
「落ち着いてって、そんな場合じゃ……!」
「いいから聞いて。中央広場には絶対に近づいちゃだめよ」
「じゃあ、どこへ逃げればいいの……っ!?」
「ずっと真っ直ぐ走って、区画の端へ逃げて。この天井の穴から、とにかく距離を取れるところに向かうの」
(ミア、ごめんね。あなたが死んでしまったのは、あのとき私が中央広場に逃げてと言ってしまったからだよね)
シャーロット・ラヴィアンジュの短い人生の中で、私はたくさんの後悔を重ねてきた。
その中でも、あなたを失ったことだけは一度だって忘れたことはない。
ミアはあのとき既に死んでしまっていて、これは現実ではないまやかしだ。
わかっている。それでも、少なくとも今だけは───。
夢の中でだけでも贖罪させてほしいのだ。
私の真剣な形相に気圧されたのか、ミアはこくこくと頷いた。
「わ、わかった。アンジュも一緒に行こう」
そして私は、一緒に逃げようとするミアの手をそっと振り解く。
「どこに行くの、アンジュ!」
「……さあ、どうしようかな。でも、行かなきゃいけないの」
私は残されたわずかな体力を振り絞って走り出す。
背後から、私を呼び止めるミアの声が遠ざかっていった。
大聖堂を中心として、燃え盛る火は刻一刻と火力を増していく。
今まで真っ暗だった常闇の国に刺す、暴力的な赤と白の光。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ。ル・ヴェルディ・ラヴィアンジュ…。海への祈り。神の息吹を……」
シャーロットとして日々魔術を研鑽していたあの頃なら、この火災を収めることも出来ただろう。
けれど今は。
ふらふらと揺らぐ視界。
それに伴う、底の抜けたような倦怠感。
魔力の気配すら感じられない、人間の身体。
──────まさに絶体絶命の窮地。
今の私に残されたものといえば、かつての記憶とかいう名の経験則だけだ。
「女神ルウェルの生まれ変わりのあの人たちは、ドラマチックだなんて言って、今も高みの見物をしているのかしら」
くすくすと。
かつてアルカの手帳を通じて出会った双子の、楽しげな笑い声が耳の奥で反響するような気がした。
アデラインとして蘇ってからの日々を振り返れば、見事なまでのハードモードである。
シャーロットを殺す役割を果たしてくれたエセルリードの娘としての転生。
そして得た身体は、超虚弱体質。
おまけに皇太子には目をつけられ、魔力すら持たないまま破滅の戦争を止めようとしている、だなんて。
(だんだんと、絶望を通り越してムカついてきたわね……!)
「魔術が使えない?上等よ。こっちは元天災なんだから、しぶとく生き残ってやるわ」
魔術が使えないんだったら、魔術を使える人を見つければいいのだ。
知識だけは山ほどある。
私がかつて身につけたすべての奇跡は、決して私を裏切ったりはしないのだから。
走って、走って、彼の元へ向かう。
必死に走っているつもりだ。
けれどこの身体では、どんなに足をもがいてもゴールはずっとずっと果てしない先に逃げていく。
肺の奥が焼けるように熱くなり、鉄錆のような血の味が広がる。
足元を瓦礫に取られないよう神経を尖らせながら、この埃まみれの街並みにはあまりにも不釣り合いな、シルクで出来た白のネグリジェの裾を翻して全力で走り続けた。
しばらくすると、遠くで耳をつざむような銃声が響き渡った。
ドドドド、と中央広場目掛けて容赦なく発砲される音が重なる。
ついに降りてくる。
帝国の慈悲の心を持たない者たちが、この地獄に存在すべてを一掃するために。
─────急がなきゃ。
周囲の状況も目に入らぬまま、ただ前だけを見て駆け抜けていた私の手を、パシッ、と何者かの強烈な掌が掴んだ。
「おい、おい……!アンジュ! なにしてんだよ!」
振り返った視界に飛び込んできたのは、懐かしい顔───否、先日顔を合わせたばかりの青年の、あどけなさが残る少年の姿だった。
「キキ……!」
「ばっ、馬鹿かお前! なんでわざわざ銃声のする方に向かってんだよ!」
「ちょうどいいところで出会えたわ! 私を抱えて、三番街……いや、あそこはどこだったかしら……? とにかく、あっち!あっちの方向に向かって!」
「はあっ?!」
「気をつけてね、後ろはちゃんと見張っているから。危ない人がいたらすぐに教えるわ!」
あまりにも懐かしいやり取りだ。
もう二度と会うことの出来ないはずの、この時代のキキ。
私のことを覚えていてくれる、この夢の中だけの都合のいいキキ。
彼の本体が今やしっかりと生きているのだと知った今、不思議と感傷に浸るようなしんみりとした余裕はなかった。
彼は元来、誰よりも足が早い。
アデラインの鈍った身体で自力で走るよりも、いっそ抱えてもらった方が効率がいいという、我ながら勝手な算段だ。
キキは猫のような金色の瞳をこれでもかと見開いて激しく動揺していたが、やがて観念したように短く息を吐き出すと、有無を言わせず私を鮮やかな手際で俵担ぎにした。
「おまっ、身体あつッ……熱あるぞ、これ!」
「……そうみたいね」
「体調悪いなら早く言えよ! ……まったく、こんな日くらい仕事なんて休めっての!」
「キキ」
「あ?」
「大好き!」
「そォかよ、お姫様!」
キキは私を抱えたまま、瓦礫の散らばる路地を地を蹴るようにして疾走した。
十数年ぶりの旧特区。
当時の詳細な地理に自信があるわけではない。
それでもかつてキキに褒められた記憶力を頼りに、複雑に入り組んだ細い路地を縫うように駆け抜ける。
「キキ、後ろよ! 帝国軍!」
「チッ……!」
キキは追っ手を牽制するため、帝国軍から奪い取った銃を振り返りざまに構え、容赦なく追撃者の足や腕を正確に撃ち抜いていく。
「ここ……!」
そうして私は、彼と出会った場所へとたどり着いた。
忘れもしない。
かつてキキが命を落とした、その場所へ。
「……どうして、いないの?」
本来であれば、漆黒のローブをすっぽりと被ったあの少年が、ひっそりと佇んでいるはずだった。
────ようやく見つけた。
そう、声を掛けられるはずなのだ。
キキが死んだこの場所こそ、ヴェリアルと出会った始まりの場所なのだから。
視界の先にあるのは、行き止まりの路地。
この先にはもう道はない。
逃げ場のない袋小路だ。
「ラヴィアンジュだ、殺せ!」
「生け捕りでもいい! 仕留めれば、一生遊んで暮らせるぞ……!」
冷酷な帝国の兵士たちが、血に飢えた獣のような足音を響かせて私へ目掛けて殺到してくる。
時間がずれた?
それとも、私の記憶違いだった……?
いくら身軽なキキとはいえ、武装した大勢の大人相手に立ち回れるはずがない。
「くそっ……! アンジュ……!」
「キキっ……!」
キキは私を庇うように、咄嗟にその身体で覆い隠そうと身構える。
けれど私も、キキを二度も死なせたくなくて、彼の前へと飛び出していた。
…………私って、本当に馬鹿ね。
この術式は現実によく似てる。でも、現実ではない。
私一人だけがしぶとく生き残れば、それで十分なのに。
たとえこれが、精巧に造られた偽物だとしても───。
大切な誰かが目の前で傷つくのなんて、もう二度と見たくはなかった。
ぎゅっと強く目を瞑る。
痛みを覚悟した、その瞬間──────。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ!」
空間を引き裂くように響き渡ったのは、女神へ捧ぐ祈りの言葉。
……そういえば私、あの日も見知らぬ魔術師に助けられたんだった。
今日とて、何ひとつ変わりはしない。
絶望の淵に沈む私を救い上げてくれるのは、いつだってその不吉で美しい黒いローブなのだ。
かつ、かつ、と静まり返った路地に響く足音。
突如として周囲を薙ぎ払う、圧倒的な爆風。
それまで牙を剥いていた帝国軍の兵士たちが、まるで紙切れのように一瞬にして昏倒していく。
「……どうしてちょこまかと座標から動くんだよぉ……っ」
ふわりと、世界を優しく包み込むような風が吹いた。
その鮮烈な赤い瞳に、吸い寄せられるように一度たりとも目が離せなくなる。
そこにいたのは。
記憶よりもずっとずっと大人びていて。
背が凄く高くなって、声もずっと低くなった。
けれど、間違えるものか。
「ミルヒ………?」
高熱でうまく回らない頭のせいだろうか。
それとも、心の底から彼に会えたことが嬉しすぎて理性が溶けてしまったからだろうか。
私は思わず、本当に無意識に、懐かしいその名前を零していた。
「っ……!」
言葉を失った彼が、次の瞬間。
キキごと私を壊してしまいそうなほど強く、痛いくらいに抱きしめた。




