sideルキウス 氷菓子を食べた姿など、見た事がないのに
苛立ちを募らせながら鳳凰の間から執務室へと戻る帰路。
ルキウスは、決して会いたくない人間と、あろうことかこの最悪のタイミングで鉢合わせてしまった。
「ご機嫌よう、ルキウス」
甘ったるい香水の匂いと共に、優雅な溜息を吐き出すような声が響く。
皇后シシィ・ルートヴィッヒ・ルーファス。
御歳六十を超えるというのに、鏡の中に閉じ込められたかのような若々しさを保つ、狡猾な女。
その背後には、格式ばった足取りの侍女が二人、無表情で控えている。
「……皇后陛下。……何の御用でしょうか」
ルキウスが喉の奥で舌打ちを堪え、忌々しげに眉をひそめると、彼女は真珠の装飾が施された扇子で口元を隠し、妖艶な微笑を浮かべた。
「まあ、そんなに固くならないでちょうだい。少しこちらへ顔を出して下さいな。若さというのは、それだけで帝国に必要な活力なのだから」
ルキウスは一瞬、拒絶の言葉を探した。
だが現皇帝が病床に伏している今、彼女はルキウスを牽制しうる唯一の権力者でもある。
ここで無為に拒絶を重ね、公衆の面前で敵対関係を見せつけるのは、あまりにも得策ではなかった。
ルキウスは仮面のような冷静さを取り繕い、無言で促されるままシシィの後を追う。
暫く歩いてたどり着いたそこは、手入れの行き届いたバラの庭園。
しかし、そこに放たれた甘い香りは、どこか死の気配を孕んでいるようだった。
そして園内では帝国中の名家から集められただろう年頃の令嬢たちが、ルキウスの到着を小さな歓声をあげて喜んだ。
(……嵌められたか。)
明らかなお見合い会場に、ますます憂鬱な気分が募る。
「皇后陛下。……これは一体、何の真似でしょう」
「ふふ、貴方ったら仕事ばかり。たまには息抜きをしないとね……ねえルキウス、私の姪を紹介いたしましょうか。ルートヴィッヒ公爵家きっての、自慢の淑女よ」
シシィの合図で、金色の髪を揺らす少女が優雅に歩み寄る。
その勝ち気な瞳には、皇太子の隣という座への執着が隠しきれないほど宿っていた。
「お初にお目にかかります、ルキウス皇太子殿下。カトレア・ルートヴィッヒと申します」
完璧な所作で膝を折る少女。だが、ルキウスの目にはそれが薄汚れた道化芝居にしか映らない。
─────くだらない。
ただでさえ頭の硬い古株の貴族達に苛立ちが募っているというのに、加えてこのような茶番まで強いられるとは。
ルキウスは内心の冷笑を仮面の下に隠し、少女に向けて定型的な微笑みを浮かべた。
「……カトレア嬢。随分聡明そうな眼差しをしている。さぞ公爵家の教育が行き届いているのだろうな」
「恐れ多いお言葉です、殿下。私など、叔母様のお傍で日々、帝国の在り方を学んでいるに過ぎません」
少女は扇子でわずかに頬を隠しながら、上目遣いにルキウスを誘う。
その瞳には、皇太子の妃という座がもたらす栄華への欲望が、透き通るほどに映り込んでいた。
「帝国の在り方、 か。……では、この冬の食糧難を乗り切るため、カトレア嬢はどのような知見をお持ちだ?」
あえて冷酷な問いを投げる。少女の顔から一瞬、完璧な微笑みが凍りついた。
「…………それは、神殿への祈りと、民の勤勉さに頼るのが……一番かと」
「そうか。祈り、と」
ルキウスはそれ以上、何も言わなかった。
無知、あるいは盲目。
どちらにせよ、この国の未来を背負うにはあまりにも軽すぎる。
「祈りだけで空腹が満たせるなら、我が国の兵は苦労はしない」
その冷徹な拒絶に、カトレアは羞恥と動揺で頬を紅潮させ、たじろぐように一歩後ずさった。
獲物が弱った瞬間を、他の令嬢たちが見逃すはずがない。
彼女が退場する隙を狙い、次なる令嬢たちが競うようにルキウスのもとへ押し寄せてくる。
「殿下、わたくしは先日の音楽祭にて……」
「殿下、あちらの庭園の薔薇が、殿下の瞳の色によく似ておりますわ」
途切れることのない甘ったるい声の洪水。
ルキウスは、まるで獲物を囲む鳥たちの群れの中にいるような錯覚を覚えた。
彼らは帝国の危機など何一つ理解していない。
理解しようとも思っていない。
ただ、己の地位を盤石にするための椅子取りゲームに必死なだけだ。
(……やはり地獄だな、ここは。)
ルキウスは仮面のような微笑みを貼り付けたまま、心の中で毒づく。
空虚な言葉が交わされるたび、帝国の存続に不可欠なはずの貴重な時間だけが着実に削り取られていった。
─────その時だった。
背筋を這い上がるような冷ややかな、しかし獲物を狙うかのように探る一対の視線が、ルキウスを射抜く。
「皇太子殿下、お久しぶりでございます」
「……ああ」
「すっかりお忘れのようですね。エセルリードの家名は、貴方にとってアデライン一人いれば十分、ということですか?」
「……アデラインの姉君だな。たしか、ルチア嬢か」
「覚えていただけて光栄ですわ、殿下」
その声の主は、客観的に見ても非の打ち所がない整った容姿の女性だった。
ルチア・エセルリード。
月のように静謐さを纏うアデラインとは対照的に、ルチアはまるで太陽のような華やかさと、貴族令嬢特有の鋭い棘を隠し持っていた。
(ああ……そうだ。あの夜会では、将来の布石として彼女をファーストダンスに誘ったんだったな)
エルステラとの全面戦争を視野に入れ、軍の士気を高めるための象徴として、第一騎士団長・エセルリード公爵家の後ろ盾は喉から手が出るほど欲しかった。
そしてその手っ取り早い手段が、長女であるルチアとの婚姻だと確信していたはずだった。
─────だが、帝国の運命を揺るがす計算外の「異物」が、その計画の隙間に滑り込んでいた。
アデライン・エセルリード。
まだデビュタントすら済ませていない、十歳の子供。
それなのに大人顔負けの冷徹な賢さと、何事にも物怖じしない胆力、そして何よりどういう訳か、この国の誰もが到達できなかった魔術の深淵を知るかのような知識の持ち主。
彼女を陣営に引き入れたことで、ルキウスの中での優先順位は塗り替えられた。
もはやルチアとの婚姻は必要無くなったのである。
「妹は、健やかに過ごしておりますか?」
「……すまないが、アデラインは現在、熱を出して倒れている。公務も休養中だ」
「あら、まあ……」
ルチアの完璧な淑女の仮面が、ほんのわずかに揺らいだ。
だがその反応はどこか驚きよりも、納得の色が強いように見えた。
「ひどい高熱だ。雨の中、城下で侍女とずぶ濡れになって遊んでいたらしい……。妹君は本当に、お転婆だな。一体どのような育ち方をしたのやら」
天才的な洞察力で、出会って間もない短期間のうちにルキウスの世界を塗り替えたアデライン。
それでありながら、普通の少女のように時折子供らしく振る舞うその姿を思い出し、ルキウスはわずかに機嫌をよくした。
「アデラインが城下に?外へ、行ったのですか?」
ルキウスが何気なく問いかけると、今度こそルチアは目を丸くして、完全にきょとんとした顔を晒した。
「……ああ、そうだが」
「……殿下。我が妹は酷く体が弱く、外に行ったことなど数えるほどしかありません。アデラインの人生は、圧倒的にベッドの上の時間の方が長いのです」
その瞬間、ルキウスの思考の時間が止まった。
────彼女はそれほどまでに虚弱だったのか?
「あの……あの子が……お転婆、だと殿下はお考えですか?」
「何か、おかしなことでも?」
「あの子は……お転婆というより、凄く引っ込み思案でしょう?人とあまり関わりを持った経験がないから、いつも私の背中に隠れているのです。家庭教師の授業だって、体調を崩してばかりでほとんど受けておりません。アデラインはただ、生きているだけで精一杯なのですから……」
その言葉は、ルキウスの脳内に構築されていた「アデライン」という人物像を、根本から粉々に打ち砕いた。
(なんだ、それは……。いや、待て。家庭教師の授業すらまともに受けていないというなら、あいつはいったいどこで、あんな途方もない知識と帝王学を身につけた?)
「そんな子が、宮廷で公務など……心配でしかありませんわ。本当に、アデラインは宮廷に必要ですか?」
背筋を冷たいものが走り抜ける。
(ならば───あの火災で、帝国一の魔術師であるユリウスですら思いつかなかった策をあれだけ堂々と立案したのは、いったい誰だ?)
ルチアはルキウスの微かな動揺を逃さなかった。彼女は静かに一歩踏み出し、ひどく冷静な声色で耳元に囁く。
「……私と、アデラインを交換していただけませんか」
「交換……だと?」
「はい。殿下に必要なのは愛などではなくエセルリードでしょう。私も、愛などいう見えないものは求めません」
「では何を求める?」
ルチアは静かに微笑んだ。
それは、アデラインが時々浮かべる表情によく似ていた。
「貴方が私の夫となる代わりに――エセルリード公爵家の繁栄を」
「……悪くない条件だな」
ルチアを正妻に迎える。
そうすれば、現在頭を悩ませている皇太子妃選びの茶番にも終止符が打てる。
エセルリードの血を確実に取り込みつつ、何よりこのルチアという女は利害の計算が正確だ。
「……もう少し時間をくれ。近いうちに、正式に宮廷へ呼ぼう」
「お待ちしておりますわ、殿下」
ルチアは優雅に、しかしどこか機械的なまでの美しさで恭しく礼をした。
張り詰めた空気を残したまま、ルキウスは踵を返す。
(そろそろこの無意味な茶番劇から抜け出そう)
そう思い振り返った背中に、涼やかな声が投げかけられた。
「殿下」
「なんだ」
「アデラインに、よろしくお伝えくださいませ。それと……あの子は、冷たい氷菓子が好きでしたわ」
妹思いの、優しい姉の言葉だった。
帰りがてら翡翠の間にでも寄って、目が覚めた秘書官のために氷菓子でも用意させておくか。
(─────いや、待て)
ふと、以前の執務室でのやり取りが脳裏をよぎる。
あの時、差し入れとして大量の菓子を押し付けた際、あいつはなんて言ったか。
『先に氷菓から食え。溶けるぞ』
『これは……殿下が召し上がってください』
『何故?』
『氷菓子は冷たすぎて、頭が痛くなるので……?』
『……つまり、押し付けると?』
『はっ! 違います! そういう意味じゃなくて……!』
思い返せば返すほど、ルチアの語る病弱な妹の姿と、ルキウスの知るアデラインが、あまりにも乖離しすぎていた。
姉の目に映る妹と、目の前の本人がこれほど違うものか?
一体これは、どういう事なのか。
静かな違和感が、ルキウスの胸の内にじわりと広がっていった。




