sideルキウス 灰色の世界
戦場の空は、まるで汚濁した絵具をぶちまけたかのように淀んでいた。
鋼と血、そして焦げた肉の臭いが鼻を突き刺す。
ここは帝国と共和国の国境。
「灰の平原」と呼ばれ、数十年もの間、数えきれないほどの兵士の命を吸い込んできた呪われた大地だ。
前線に展開していた帝国軍の陣形は、共和国軍による砲撃の嵐を受け、もはや原型を留めていなかった。
ぬかるみに足を取られながら、一騎の馬が狂ったように駆けてくる。
乗り手の鎧は半ば砕け、その顔は自身のものか、あるいは味方のものか判然としない鮮血で染まりきっていた。
「ルキウス様……っ!」
耳をつんざくような悲鳴に近い叫び。
ルキウスは、手に握った長剣にこびりつく泥を拭い去ることなく、ゆっくりと振り返った。
「お戻りを……! 前皇太子殿下が……崩御されました。神殿は貴方様を、次期皇太子に命ずると……!」
伝令の少年は、ルキウスの足元に崩れ落ちるようにして告げた。
周囲の兵士たちが息を呑むのがわかった。
皇位継承権という、この国で最も呪われた毒杯。
誰もが喉から手が出るほど欲しがりながら、最後には必ず持ち主を死へ追い込む、あの忌々しい荷物。
(……笑わせるな)
ルキウスは冷え切った瞳で、鉛色の空を仰いだ。
帝国と共和国の間に横たわる、数百年にも及ぶ泥沼の小競り合い。
さらには、エルステラで胎動し始めた、魔術師革命。
その荒波を鎮めるための楔として、ルキウスは常に最前線へ放り込まれていた。
そもそも、彼が軍部に身を置いた理由は単純だ。
王宮という名の、甘い香水を纏った毒蛇たちが蠢く巣窟が、吐き気がするほど嫌いだったからだ。
───だが、それが裏目に出た。
戦果を挙げれば挙げるほど、彼は軍の指導権を掌握せざるを得なくなり、皮肉にもその武力が帝国内での発言力を増幅させ、気づけば皇位継承権の最上位にまで押し上げられていた。
ルキウスの世界は、幾重にも重なった裏切りで構成されている。
彼を産み落とした母は、元は一介の侍女に過ぎなかった。
愛などという幻想とは無縁の女で、己の保身と上昇志向の果てにルキウスを産んだに過ぎない。
その瞳に、息子への慈愛が宿ったことは一度としてなかった。
そして、かつての婚約者。
政治的な密約と愛憎が入り乱れる中で、彼女はルキウスの背中に刃を突き立てた。
鮮血に染まるドレスを纏い、冷たい亡骸と化した彼女を、ルキウスは自らの手で葬った。
あの凍てつくような夜から、彼の内側で何かが決定的に壊れ、そして静かに冷え固まった。
(……死ぬものか)
神が定めた運命など、所詮は権力者たちが民を縛り付けるための戯言に過ぎない。
ならば、その運命の糸など、この血にまみれた手で一本残らず握り潰してやる。
もし、この厭わしいほどの権力という名の泥を全身に浴びて、世界の頂に立ったのなら。
その冷たい玉座の先で、私はかつて失った「何か」の欠片に、辿り着けるのだろうか。
ルキウスは泥濘に溜まった血の海を蹴り、戦場の中心へと歩みを進めた。
その瞳には、玉座への渇望も、勝利への悦びもない。
ただ、神への挑戦という名の、昏い情熱だけが揺らめいていた。
「皇太子殿下、ご説明を!」
鳳凰の間。
歴代の帝国の行く末が、その円卓での決断に委ねられてきた場所。
重苦しい沈黙が支配する空間で、ルートヴィッヒ公爵の怒声が空気を切り裂いた。
机を叩く乾いた音が、静まり返った会議室に冷たくこだまする。
現皇后の兄にして、帝国筆頭公爵たる男の瞳には、老獪さの裏に隠しきれない焦燥と、剥き出しの敵意が渦巻いていた。
「……何を考えておいでなのですか。この非常時に、こともあろうに魔術師共を陣営に引き入れるなどと!」
ルートヴィッヒ公爵は震える指でルキウスを指し示し、喉の奥から絞り出すように続ける。
「皇帝陛下が病床に伏し、エルステラの共和国侵攻が日に日に活性化している……今はそちらに向いている矛先が、いつ帝国に向くか分からないというのに…… 一歩間違えれば国家を揺るがしかねないその決断、一体どなたの進言によるものか、問い質さねばなりませんな」
ルキウスは表情一つ変えず、感情を殺した瞳でその老臣を見つめ返す。
その静けさが、かえって公爵の怒りを煽る火種となっていた。
「ルートヴィッヒ公。古びた服を変えさせる事の何がいけないと?」
「……市井で今、奴らがどう思われているのかご存知ないとは申されまい」
数日前に実施されたアデラインのイメージ戦略は、ルキウスが想像しているよりも成功した。
第2騎士団の街の巡回に同行し、子供が飛ばした風船を拾い、転んだ老人を助ける魔術師たち。
彼らは今や、民衆にとって「恐ろしい異端」ではなく「身近な隣人」へと変貌を遂げつつある。
今まで魔術師という存在は全て管理されており、宮廷魔術師は宮廷外で許可なく魔術を使う事は出来なかった。
そうなると市井の民はどうやって魔術の恩恵を受けるのか。
方法は1つ。
神殿に行くのである。
それぞれの地区に置かれた神殿は数人魔術師を所有しており、高額な布施を貰ってから必要な魔術をかける。
その範囲内に宮廷魔術師が無償で立ち入るとなると───。
ルキウスとアデラインの改革は、すなわち神殿の独占する収益源を根底から破壊することを意味していた。
「私は魔術師にその行動に見合った報酬を与えるつもりだ」
ルキウスが吐き捨てた言葉に、鳳凰の間がどよめく。
彼の冷徹な視線が、震える貴族たちを掃討するように横切った。
「殿下は反魔術師思想だったではありませんか……!」
「一度もそのように明言した覚えはない。私は、私に有益な者であれば、それがスラムの盗人であろうと重用する。ただそれだけのことだ」
どこからともなく飛んできた非難の声。ルキウスは鼻で笑った。
馬鹿らしい。呆れて笑いすらこみ上げる。
「……神殿に完全に楯突くおつもりか。神殿が貴殿を次の皇太子と認めたのは、神の末裔としての秩序を守るためだぞ!」
「神殿が帝国に、何をした?」
冷笑が、ルキウスの唇に浮かぶ。
「男神の末裔を皇族と定義し、貴族に神の子供という傲慢な身分主義を生み出した。そうして神殿は金と権力を吸い上げ、貴族は血筋という空虚なプライドにすがる。……何も生み出さぬ連中が、よくもまあここまでこの国を腐らせたものだ」
「不敬ですぞ! 貴殿は神を冒涜する気か!」
「神に縋ってこの国が栄えるのなら、縋り続ければいい。だが魔術師を排斥するというのなら、まずはエルステラと共和国の前線へ行ってみろ。エルステラの蹂躙をその目で見てくるといい。貴殿らが頼りにする魔力抑制装置など、彼らの力の前では一瞬でゴミと化すのだから」
彼らは知らないのだ。
エルステラがどれほど凄惨で、圧倒的な「力」を秘めているのかを。
一度見れば、理解できるはずだ。
発展した魔術の深淵には、人の浅知恵など届かないことを。魔術に対抗しうるのは魔術のみ。戦争が始まれば共和国は確実にエルステラに飲み込まれ、次はその矛先が帝国へ向くというのに。
会議は、決定的な決裂を孕んだまま、虚しい平行線で幕を閉じた。




