sideエルステラ 眠れない王様
「ユーティオティアス! いらっしゃいますか!」
深夜。
ノックもなしに乱暴に開け放たれた彼の私室。
そこに立っていたのは、ユーティオティアスがこの革命軍の中で最も苦手とする相手、アンシア・フェルディナントだった。
亡国から連れてこられた、魔術師としては生まれたてのかつての姫君。
本来はフェルディナントの血など害にしかならないのに、ヴェリアルが妙に気に入り拾い上げてきたのだ。
魔術的な才に恵まれているわけでも、政治的な利用価値があるわけでもない。
本来なら、平凡な駒として切り捨てられるべき対象に過ぎない。
それなのに、ユーティオティアスは彼女の存在がどうしようもなく苦手だった。
「…………なにか?」
「大変です、来てください……っ!!」
焦燥に駆られたアンシアは、その瞳に大粒の涙を浮かべていた。
有無を言わさず腕を掴まれ、廊下へと引きずり出される。
周囲の者たちが何事かと怪訝そうに振り返る視線を、ユーティオティアスは冷ややかに受け流す。
(嗚呼。……少し、似ているのか)
不意に、エルステラが失った面影が脳裏をよぎる。
顔立ちは全く違う。
彼女の瞳を埋め尽くしていた虹色の輝きも、馬鹿みたいに努力して得た美しい展開式も、ここにはない。
それなのに。
かつてこんなふうに彼女と走ったあの日の感触が、あまりにも鮮明に蘇った。
礼儀を教え込もうとしても、決して譲らなかった「ティティ」という呼び名。
血も涙もない死神の右腕と呼ばれるユーティオティアスに対し、あのような馴れ馴れしさを見せる者は他にいなかった。
(そうか。あの不躾な距離感が、似ているのか)
アンシアは髪を染めたようだった。
そのピンクブロンドが視界に入るたび、ユーティオティアスの胸には言いようのない憂鬱が広がっていく。
忙しく動き回ることで忘れようとしていた古傷が、ずきりと疼いた。
そうして暫く走って、たどり着いたのはヴェリアルの私室前だった。
「ヴェリアル様! 今、ユーティオティアス様をお連れしましたから……っ」
扉の向こうからは、獣のような獣の唸り声が響いている。
苦悶に歪む、ヴェリアルの声。
「相談事があって執務室を訪ねたら……ヴェリアル様が、酷く苦しそうに……!」
「……無理です。鍵はヴェリアル様しかお持ちでない。この部屋は、私たちには開けられません」
「ああ、ミルヒオール君がいれば無理矢理にこじ開けられるのかしら……! でも、なら窓からとか……!」
「……来なさい、アンシア・フェルディナント」
今度は立場を逆転させ、ユーティオティアスはアンシアの手を力ずくで引き剥がした。
最愛の主の苦悶する声が遠ざかっていく。アンシアは信じられないものを見る目で彼を見つめた。
「なんで……! なんで無視できるの……! あんなに苦しそうなのに……! ヴェリアル様が、死んじゃうわ……!」
すがるような叫び声が、冷え切った廊下に反響する。だが、ユーティオティアスは眉一つ動かさず、ただ視線を逸らした。
「大丈夫です。あれは……仕方がないことなので」
無機質なその回答に、アンシアの顔から血の気が引いた。
「仕方がない……!?」
「……貴方には関係のないことです」
突き放すような冷酷な言葉が、導火線に火をつけた。
パシっ、と乾いた音が響き、ユーティオティアスの顔が横に跳ねる。
頬にはじわりと熱い痛みが走った。
アンシアは涙に濡れた瞳で、獣のように彼を睨みつけている。
その震える小さな肩は、抑えきれない憤怒と悲しみで大きく上下していた。
「苦しんでいるのよ……! 貴方は何も感じないの!?」
ユーティオティアスはゆっくりと顔を戻した。その表情には感情の欠片もなく、まるで壊れた人形を見るような目がアンシアを射抜く。
「何故苦しんでいるか、教えて差し上げましょうか。貴方には関係ない事ですが、革命軍の者なら皆知っていますから、今さら隠すことではありません」
「……っ」
アンシアが言葉を詰まらせた隙に、ユーティオティアスは一歩間合いを詰めた。
彼は細い指を伸ばし、彼女の震える髪を一束、無造作に掬い上げる。
その所作には、愛着など微塵もない。ただ、答え合わせをするかのような、冷めた執着だけがあった。
「ヴェリアル様は、とある方を愛していらっしゃるんですよ。その方の為にこの世界を征服して、捧げようとしている」
「……え?」
アンシアの瞳が、零れ落ちそうなほどに見開かれる。絶望と困惑が混じり合い、彼女の呼吸が浅くなった。
「そう。ちょうど、こんな色の髪の女です」
その瞬間、アンシアの中で散らばっていたピースが音を立てて繋がった。
なぜ、時折自分を見つめる王の瞳にあれほど暗い虚無が宿っていたのか。
答えは残酷なほど明瞭だった。
彼は自分を見ていたのではない。背後に重なる、届かない影を追っていただけなのだ。
「その人、誰なの……? この、エルステラにいるの……?」
アンシアの問いかけは、ひどく頼りなく宙を彷徨った。
「死にました」
「え……?」
「シャーロット・ラヴィアンジュ。貴女でも聞いたことがあるでしょう」
「シャーロット……天災の、魔女……!」
アンシアの息が止まる。
歴史書に名を残すような伝説の名、そしてこの世を揺るがした大災厄の象徴。
そして、このエルステラのいたるところに爪痕を残している人。
あまりの事実に、彼女は呆然と立ち尽くす。
「でも……彼女が亡くなったのはもう何年も前でしょう? どうして、どうしてこんな……」
「それは、ヴェリアル様に聞くといいですよ。……もっとも、その問いに対する答えが、貴女の命を奪うことになっても構わないなら」
ユーティオティアスは窓の縁に触れ、月明かりさえも届かない夜の闇をじっと見つめた。
その横顔は、まるで彫刻のように冷酷で、同時にひどく孤独だった。
「……ヴェリアル様は、眠ることが出来ないのです。眠ると、夢にシャーロットが出てくるから……」
それは呪いのような事実だった。
眠りという安息に身を委ねた途端、彼は引きずり込まれるのだ。
シャーロットが命を落とした、あの最悪の瞬間へ。
逃げ場のない惨劇を、幾度となくその身で追体験する。
だからこそヴェリアルは、意識が途切れるまで働き続け、神経を摩耗させることで無理やり意識を閉ざそうとしていた。
「……でも、何もしないのは間違っているわ」
アンシアの純粋な感情が、張り詰めた空気を揺らす。
ユーティオティアスの肩が微かに震えた。
それは嘲笑だったのか、あるいは怒りだったのか。
ユーティオティアスががアンシアを見るその瞳には、凍てついた殺意が宿っていた。
「何もしない、だと?」
低く、重苦しい声が廊下に落ちる。威圧感に気圧され、アンシアは思わず一歩後ずさった。
「何もかも、試しましたよ。呪術、禁忌の儀式すら……!すべてが徒労に終わった。それでも無理だから、今こうしてあの方は死んだように生きているのです……!」
ユーティオティアスの怒声が、壁を伝って響き渡る。
彼は荒い息を吐きながら、突き放すように言葉を継いだ。
「……やってみてください。もし貴方が、その慈悲とやらであの方を助けられるというのなら……救ってくださいよ。出来るものなら、ね」
突き刺すような言葉の数々に、アンシアの顔から色が消える。
彼女は何かを言い返そうとして、しかしユーティオティアスの瞳の奥にある果てしない絶望を見て、言葉を呑み込んだ。
この男がどれほどの時間をかけて、その「解決できない問題」と対峙し続けてきたのか。
その深淵に触れた恐怖に駆られ、アンシアは逃げるように走り去っていった。
ユーティオティアスは踵を返し、闇に溶けるように地下へと続く回廊へ足を踏み入れる。
辿り着いた先は、革命軍の喧騒から隔絶された、地下霊廟。
一部の者以外入れぬよう厳重に秘匿されたこの場所は、ヴェリアルにとっても、そして彼にとっても、まぎれもない聖域だった。
指先を滑らせ、複雑怪奇な魔術式を編み上げる。空気が軋み、封印が解けると同時に、重厚な扉が音もなく滑り開いた。
「……こんばんは」
無機質な暗闇の中に、ユーティオティアスの声だけが独りごとのように溶けていく。
応答はない。
ただ、肌を刺すような冷気と、死の静寂だけがそこを満たしていた。
彼はゆっくりと、中央に安置されたガラスの棺へと歩み寄る。
「……いつまで寝ているのですか。早く、起きなさい」
かつて口にしていた、軽やかな軽口。
『はぁい』と眠そうに目を擦って、能天気に微笑んでいたくせに。
彼女のそんな温かな面影が、今この冷たい棺の中には微塵も残っていないことに、あらためて胸が抉られる。
「早く起きなさい……! シャーロット・ラヴィアンジュ……!」
張り詰めていた糸が、プツリと切れた。
ユーティオティアスはその膝を床に突き、ガラスの棺に力なく崩れ落ちる。
額が冷たい天板に触れ、彼の熱が少しずつ奪われていく。
(嗚呼。女神よ─────)
ユーティオティアスは、これまで神に祈ったことなど一度もない。
魔術師という呪われた血を産み落とし、彼を家族から切り離した元凶。厄介者の女神ルウェル。
けれど今、彼はその忌々しくも崇高な存在の名を、喉の奥から絞り出す。
奇跡などという甘美で残虐な嘘が、もしこの世にわずかでも残されているのなら。
彼はその汚れた膝を折り、壊れた人形のように震える手で棺を抱きしめた。
(どうか、彼女を────ヴェリアル様に返してください)
祈りは誰にも届かない。
ただ地下の暗闇だけが、彼の慟哭を静かに飲み込んでいった。




