夕闇と再会
「っうお、……びっくりした……」
低く、どこか掠れたその声。
記憶に刻み込まれた声色よりも、ほんの少しだけ大人びている。
驚きにぱっちりと見開かれたその瞳は、昔と変わらず猫のように鋭い。
けれど、その瞳の奥───かつて私だけに向けてくれた、あの懐かしい柔らかな温もりが、今も見知らぬ小さな子供に向けて確かに揺れていた。
細い路地を支配する冷たい雨が、ぬかるむ地面を激しく叩く。
そして夜が顔を出し、灯り始めた街路灯の明かりが水たまりに乱反射して、世界を淡い夢のように滲ませていた。
「お嬢様!」
メリーアンの焦った声が、遠くの出来事のように耳の奥を通り過ぎる。
私は呼吸の仕方も忘れて、ただ、そこにいるキキの姿を瞳の奥に焼き付けた。
「……どうしたよ? なんか困ってんのか?」
キキが、ひょいと首を傾げて眉を寄せる。
その癖。少しだけ伸びた背丈。雨に濡れたコート越しでもわかる、彼特有の空気感。
心臓が痛い。何かを返さなきゃいけないのに、喉が引き攣って言葉にならない。
視界が急速に色を失い、熱い雫で滲んでいく。
────夢見てた。ずっと、ずっと願ってた。
貴方がこうして息をして、当たり前みたいにそこに立っている。
その未来を勝ち取るために、私はどれだけの夜を越えてきたんだろう。
「泣いてちゃわかんねぇだろ?」
キキがすっと屈み込む。雨の匂いと、微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐった。
彼が私の頭を、くしゃりと撫でる。
その困ったような、それでもどこか優しい掌の温もりに、張り詰めていた糸がプツリと切れた。
「ごめ、ごめんなさい……貴方が凄く、昔の大切な人に似てて……」
キキの表情がわずかに曇る。けれど、今の私には彼の機微を汲み取る余裕なんてなかった。
(キキが生きている。きっと……ヴィクトリアとミルヒが、蘇生を成功させてくれた……)
最期に託した願いが、奇跡となって今ここに在る。
「貴方は……今、幸せ?」
衝動的に口をついて出た。
彼に太陽を取り戻したかった。
それだけが、私の旅のすべてだったのだから。
「……は?」
キキが目を丸くして固まる。
…………そうだ、私、今、初対面の子供!
慌てて、雨音に隠れるように取り繕う。
「わ……私、もしかして変な人っぽい?!」
「……、っ、はは! あはっあはは! ひーっ!」
キキは腹を抱えて笑い出した。雨粒を跳ね飛ばすような、突き抜ける笑い声。
ひとしきり笑い転げたあと、彼は濡れた前髪を無造作にかき上げ、少しだけ真剣な瞳で私を見下ろした。
「変な人っつーか……なんか、この世のものじゃなさそうだな。悩んでる時にふと現れた、天使ちゃんってとこか」
鼓動が早鐘を打つ。───天使ちゃん。
彼だけが呼んでくれた、今はもう失われたはずの愛称。
そして……悩み?
「……何か、悩んでいるの?」
「んー? うん、まぁ色々な」
キキはどこか遠くを見るような、儚い微笑みを浮かべた。
「……貴方の悩みを聞いてくれる人たちは、いる?」
「ああ……いるよ。良い人、いや、……優しい人たちだ」
「ならきっと大丈夫。考えて、考えて、その末に選んだ道なら、何も間違っていないわ」
私の言葉に、キキは驚いたように目を見開く。
「あんた、ちっちぇのにすげぇ大人みたいなこというのな」
私は小さく笑った。もう、誰の影も追う必要はない。この長い旅の終わりに、私が選び取った道もまた、正解だったのだとようやく確信できた。
「……あんた、名前は?」
私は微笑んで、首を振った。知らない方がいい。
今の私はシャーロットではないし、彼はこれから新しい人生を歩んでいくのだから。
「……お嬢様、お知り合いの方ですか?」
「……気のせいだったみたい。ごめんなさい、メリーアン。帰りましょう」
キキと視線を交わす。これが最後。
「さよなら。突然声をかけてごめんなさい」
心の中で祈る。
貴方が世界のなによりも幸せになれますように。
太陽の下で、温かい貴方が歩んでいけますように。
声に出したら、困らせちゃうから。
心からの祈りを残して踵を返す。けれど、その瞬間。私の袖がグイと引かれた。
「まっ……」
キキが、不器用な手つきで何かを押し付けてくる。
「これ、やるよ。買ったんだけど、渡す奴もいねぇし、あんたに似合いそうだから」
包みから出したのは、純白のリボンだった。
昔、彼にもらったものと、驚くほどよく似ている。
「……いいの?」
「おう。話聞いてくれた礼だ」
「ありがとう……、大事にするわ!」
私はリボンを胸元に抱きしめ、雨の路地へと走り出した。
降り止まない雨のカーテン越しに、キキがぼんやりとこちらを見送っているのが気配で分かった。
その背中に、もう二度と「アンジュ」とは呼ばれないんだと、静かな決別を告げた。
同時刻、王都の地下深く────隠れ家のサロン。
重厚な扉の向こう、立ち込める葉巻の煙と澱んだ空気が、貴族たちの醜悪な欲望を充満させていた。
「世間知らずの落ちこぼれが……っ、馬鹿らしい……!」
「早く失脚させねばならん。あの愚行がまかり通れば、我々の顔にまで泥を塗られる!」
「大体魔術師は女神を信仰しているだろう?!彼らを受け入れると言うのなら、男神様を祀っている神殿はどうなる……?!邪教を祀る皇太子など、赦される筈がない……!」
卓を叩く轟音。怒号と罵倒が飛び交う中、サロンの影が揺れた。
「────お困りですか?」
ぬらりとした気配と共に現れたのは、黒いローブに身を包み、不気味な仮面で素顔を隠した二人組だった。
「……ッ、何者だ?」
「名乗るほどのものではありません。ただ……あなた方と『目的を同じくする者』です」
仮面の主は歪んだ笑みを浮かべる。
その背後にもう一人が、まるで殺戮を司る影のように佇んでいた。
「手を組みましょう。ほんの少しだけ協力をしていただきますが……そうすれば、かの方は二度と目覚めることはありません」
貴族の一人が目をぎらつかせる。
「その声、よく聞いたら……女か? ……よく顔を見せろ」
細い腕を掴もうと、脂ぎった手が伸びたその刹那。
────彼の視界が、一瞬で凍りついた。
背後に控えていた『片割れ』が、音もなく貴族の手首を掴んでいた。
「汚ぇ手で、この人に触れんなぁ」
冷徹で、ゾクリとするほど甘い声。
「殺すよぉ?」
貴族は絶叫に近い悲鳴を上げ、蜘蛛の子を散らすように手を引いた。
仮面の奥の瞳には、一切の慈悲などない。ただ、冷え切った殺意が渦巻いている。
サロン全体が死の恐怖に支配され、誰もが息を呑んだ。
「……な、何が必要だ?」
恐怖で引き攣った貴族の声に、仮面の二人は満足げに頷く。
「必要なのは、宮殿への手引きだけ」
「……確かだな? 後戻りはできんぞ」
「勿論です」
二人は影に溶け込むように口角を上げた。
「確実に、邪魔者を排除いたしましょう」
暗闇に響くのは、邪悪な契約の産声だけだった。




