常冬のセカイへのトビラ
「お嬢様……本当にこのような場所まで、足をお運びになるのですか?」
王宮の正門から堂々と馬車に乗り込み、車輪が石畳を叩く単調なリズムに揺られること十五分。
私たちは高級ブティック街の一角で馬車を降りると、さも優雅な買い物を楽しむかのような足取りで、不慣れな御者の目を欺いた。
行先をルキウスに悟らないための、細心の策だ。
どうせ全て報告されているから。
そこから────慣れないヒールで歩くこと、さらに二十分。
賑わっていた街の灯りは遠のき、人通りは急速にその熱を失っていく。
活気ある商業区から、浮浪者の溜まり場と化した冷たい裏通りへ。
やがて私たちの目の前に異様な存在感を放つ、朽ちた門が現れた。
かつては残酷なまでにまばゆい白亜で塗られていただろうその門は時の経過により、今はただ、よどんだ灰色に染まっている。
ここが、この国で唯一「特区」へと繋がる門。
数多の無実の魔術師たちが、太陽と別れる覚悟を決めさせられた、地獄の入口。
私たち革命軍が、かつて天井ごと特区をぶっ飛ばしたあの日から、この門は役目を終えたはずだった。
かつては呪詛と絶望が渦巻いていた場所にも、無慈悲な月日は流れ、今では脆い壁の隙間に名もなき草花が咲き乱れている。
死は、今は静かな廃墟として呼吸をしていた。
「……一度、この目で見てみたかったの。随分寂れているのね」
かつて、母やヴェリアルはここを通り、暗い奈落へと堕ちていった。
彼らは一体、どのような瞳でこの光景を見つめ、何を想いながら重い扉を潜ったのか。
その輪郭に少しでも触れることができれば、私の中にくすぶる混乱を解き明かせるかもしれない。
激しい雨が視界を白く染める中、私は門をくぐった。
何もない虚無の広がりの中で、土にめり込むようにして佇む鉄の扉。
「使われなくなって、もう十年以上になりますから……」
地獄と称された場所は、年月の濾過を経て、今はただ重苦しいほどの静けさと穏やかな時間が横たわっている。
メリーアンの不安げな声が、廃墟の空気に吸い込まれていく。
私はその錆びた扉の冷たい感触を確かめるように、指先を伸ばした。
かつての殺気は消え、ただひんやりとした感触だけが、そこが確かに存在したという記憶を伝えてくる。
「……ねえ。ここを通れば、まだ特区へ繋がっているのかしら」
「だめ、だめです、絶対!」
背後で悲鳴のような制止が入る。私は少しだけ振り返り、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「大丈夫よ。流石にそんな無茶はしないから」
ただ、少しだけ確認したかった。
彼らが残した、消えないはずの足跡を。
かつてのシャーロットならまだしも、この身体には彼女を愛する家族がいる。
何かの間違いで帰ってこれなくなったら心配をかけてしまうし、メリーアンも責任を追求されてしまうのは目に見えている。
──────傘を打つ雨の音。
重苦しい沈黙を打ち破ったのはメリーアンだった。
「……お嬢様は、エセルリード公爵令嬢で、お綺麗で、皇太子殿下にも頼られていて、優しい家族もいらっしゃる。それなのにどうして魔術師を気にかけてくださるんですか?」
振り向くと、そこには雨に打たれ、ずぶ濡れになったメリーアンが立ち尽くしていた。
いつのまにか手から滑り落ちた傘が、泥混じりの水溜まりに無惨に打ち捨てられている。
彼女は拾い上げようともせず、ただ雨にその身をさらしたまま、すがりつくような眼差しで私を見ていた。
降りしきる雨が、彼女の顔を伝い、涙のように頬を濡らしていく。
その問いかけには、隠しようのない困惑と、ほんの少しの切望が混じっていた。
「魔術師に……幸せになってほしいからよ」
「どうして、ですか?」
「え?」
「みんな、魔術師のことが……人間は、魔術師なんて嫌いです」
彼女の言葉は、冷たい雨よりも肌を刺した。
彼女は俯き、痛みを隠すように唇を結ぶ。
「私、魔術師として生まれたから捨てられたんです。狼が徘徊する、極寒の冬の森に。たまたま通りかかったお師様が拾ってくださらなければ、私はとっくに消えていた。……それが、魔術師なんです」
「……そう」
胸が締め付けられる。
けれどそれは、決して珍しい話ではない。
エルステラには、同じような傷を抱えた子どもたちが溢れていた。
彼らを救い出すために、私たちは各地を奔走した。
自分には仲間がいるのだと、独りではないのだと伝えるために。
そうして何人もの命を、私の腕の中へと連れ帰ったのだ。
「分からないのです。お嬢様は私のような魔術師にも、こんなに優しいけれど……どうして? って。私はお嬢様のことが大好きです。けれど、いつか……いつか他の人間と同じように、お嬢様も魔術師のことを忌み嫌う日が来るのではないかと、怖くて……」
彼女の瞳が揺れる。
その瞳に映る私の姿が、まるで裏切り者のように見えているのではないかという恐怖。
「メリーアン……」
「お願いです、教えてください。どうして優しくしてくれるのかを。そうしたら私、お嬢様に嫌われないように、ずっとずっと頑張りますから……!」
必死な願いだった。
私は傘を差し出し、彼女の肩をそっと抱き寄せる。雨音を遮るように、まっすぐに彼女の瞳を見つめた。
「メリーアン。私は貴女が大好きよ。頑張り屋さんで、誰かを思いやれる、気高く素敵な女の子。それは貴女が魔術師だろうと人間だろうと、何ひとつ変わらないわ。私が好きなのは、貴女という存在そのものなのだから……」
私は一度言葉を切り、自らの胸に手を当てる。
私が魔術師を大切にする理由はなんだろう?
シャーロット・ラヴィアンジュとしての責任?
革命の旗印を掲げた罪悪感?
……いいえ、違う。そんな理屈ではない。
私は知っているのだ。
彼らが誰よりも仲間を想い、美しく、優しい存在であることを。
だから私は、彼らを守りたい。
彼らが好きなのだ。
魔術の光も、それを操る魔術師たちも、そこに生きるみんなも。
だからこそ、彼らには笑っていてほしい。
ただそれだけでいい。
心からの幸福を感じてほしくて、私はここに立っている。
「……そっか」
心の中にあった淀みが、雨とともに洗い流されていくようだった。
「お嬢様?」
メリーアンが不思議そうに首を傾げる。
私は自然と、心からの微笑みを浮かべていた。
「ありがとう、メリーアン。おかげで分かったわ。……私が何を守りたかったのか、ようやく」
見上げた空は、変わらず冷たい雨を降らせている。
だが、迷いは晴れていた。
私はただ、己が信じる正しさを貫けばいい。
「お嬢様。私、ずっとずっと、お嬢様のために頑張りますから……! いつか困ったことがあれば、頼ってもらえるような、そんな魔術師になります」
メリーアンが、花が咲くように笑う。
私もその顔を見て、胸に灯った温もりを確信した。
「ええ。私も、貴女が困ったときは必ず力になるわ」
私たちは顔を見合わせ、どちらからともなく小さく笑い声を漏らした。
張り詰めていた心が、雨音に溶けていくようだった。
「ずぶ濡れね」
「本当です。折角誤魔化したのに、御者さんに怪しまれますよ」
「傘が壊れたで貫きましょ。……貴女が風邪をひかないといいんだけど」
「それを言うならお嬢様もですよ?帰ったら温かいお風呂と、ハーブティーをご準備しますね!」
「嬉しい。メリーアンのハーブティー、好きなの」
私たちは湿った空気を纏ったまま、肩を並べて歩き出した。
「連れてきてくれてありがとう。……帰りましょうか」
「どこかで何か拭くものを……いえ、服を買いましょう」
「平気よ?」
「駄目です!これはちゃんと言うこと聞いてもらいますからねっ」
「……わかったわ」
専属侍女らしく語気を強めるメリーアンに、私は苦笑するしかなかった。
そうして私たちはメリーアンの先導で、馬車のある大通りに向けて、細い路地を抜けていく。
その時だった。
見慣れぬ黒い傘が、前方を塞ぐように佇んでいる。
(───こんな寂れた負の遺跡に、私以外に訪れる者がいたのね)
狭い道で、すれ違いざまに二人の傘が重なり、乾いた音を立てた。
私は何気なく、その傘の下に視線を寄せた。
その瞬間、心臓が跳ねた。
「……え?」
雨の灰色を塗り潰すような、燃えるような鮮烈な赤。
記憶の奥底に焼き付いた横顔よりも、少しだけ大人びたその表情。
思考よりも早く、体が動いていた。
私は思わず、その華奢な腕を強く掴みとる。
手から滑り落ちた私の傘が、泥水の中で無様に跳ねた。
土砂降りの音を遮断するように、私たちの視線が真っ直ぐに交差した。
ついに会えましたね




