雨音センチメンタル
「で……何をした? ユリウス」
いつも通りの昼下がり。
定例報告に来た魔術師団長ユリウス・ティリスは、主であるルキウスの唐突な問いに、一瞬言葉を失って目を白黒させた。
「……何、と言われても……私はただ、この一週間の定例報告を……」
ルキウスは組んだ指に顎を乗せ、深々と溜息をついた。
その視線がユリウスを通り越し、背後の机で書類を整理する私へと向けられていることは明白だった。
ルキウスが問うているのは、ユリウスの行動ではなく、私の隠し事なのだ。
「1週間前にアデラインが朝帰りした、という報告を受けているが」
「……?! 女神に誓ってありえません……! そのような事実は断じて……!」
「だが、その次の日からこの調子だ。疑われても仕方あるまい」
ユリウスの必死の弁明も、私の耳にはどこか遠い場所の出来事のように響いた。
────あの日、パパの日記を読んだ。
ところどころ古く剥げた表紙。
どんな字を書くの?
どんな言葉を紡ぐの?
パパがもし生きていたら、今の私を見てどう思う────?
そのヒントが欲しくて開いたのに。
そこに記されていた名前を目にした瞬間、胸の奥が氷水に浸かったように凍りついた。
ヴェリアルが座敷牢で過ごしていたということ。
パパがヴェリアルを助けて、共に過ごしたということ。
彼が誰にも言えず、誰にも理解されなかった孤独。
その深淵を盗み見てしまったという事実に、息が詰まる。
日記に綴られた言葉は、彼が如何に人間という存在を憎んでいるのか、その理由を痛いほど鮮明に突きつけていた。
納得せざるを得ないほどの絶望が、そこにはあった。
私は震える手で日記を閉じ、パパの研究室、本棚の最も奥深い闇へと隠した。
まだ、彼の悲しみに触れて────それを理解してあげられるような、そんな心の準備は出来ていないのだと、改めて実感した。
今はまだ、自分の事ですら救えないのに。
思考は堂々巡りを繰り返している。
今、こうしてルキウスの視線の下で平静を装っていることさえ、かつての仲間たちを裏切っているのではないか。
私がやっていることは、間違っているの?
事務作業で埋まるはずの頭の中を鈍く痛ませる。
張り詰めた沈黙の中、私の世界は静かに、けれど確実に音を立てて崩れ始めていた。
「……ン。アデライン・エセルリード」
「……ルキウス様?」
何度目かの呼びかけに、ようやく私は意識を現実に引き戻された。
向かい合う机の向こう側、ルキウスが射抜くような鋭い視線で私を見つめている。
「その書類、判子の向きが全部逆だ」
「えっ……」
「あとさっきからその万年筆はインクが漏れているぞ。……指も、机も真っ黒だ」
「えっ……!」
「ついでにその頭のリボンも前後が逆だ」
最悪だ。
今の私は、見ての通り「上の空です」と全身で告白しているようなものだった。
羞恥心で顔が熱く染まっていくのを感じる。
隠さなければならない秘密がある時ほど、人はこれほどまでに無防備になってしまうものなのだろうか。
「……何があった? 熱でもあるのか」
「い、いえ!」
私は反射的に目を逸らした。
ユリウスの鋭い灰色の瞳が、わたしの全てを丸裸にしてしまいそうで怖かったのだ。
「今日はここまでとしよう」
「でも、まだ仕事が ……!」
「お前も私に言っただろう? 『休め』と。……今がその時だな」
彼は深く溜息をつき、静かに万年筆を置いた。
拒絶を許さない温かな強制力に、私は言葉を失う。
「……ご配慮、痛み入ります」
私はふらつく足取りで席を立ち、退室の準備を整えた。
帰り際、背後から心配そうにユリウスが声を掛けてくれる。
「アデライン様。……部屋まで送りましょうか?」
「大丈夫よ、魔術師団長。……迷惑をかけてしまって、ごめんなさい」
私は彼に背を向け、逃げるように執務室を後にした。
バタン、と扉が閉まる音がやけに大きく響き、陽の当たらない廊下に吸い込まれていく。
その振動が、私の心臓の鼓動と重なって、不快なほどに耳の奥に残り続けた。
────部屋に戻り、窓の外を眺める。
空はどんよりと重い鉛色に染まり、激しい雨が容赦なく石畳を打っていた。
その無機質な音を聴いていると、先ほどまでルキウスの執務室で感じていた焦燥が、なぜか少しだけ遠のいていくような気がした。
背後では、メリーアンが慣れたような手つきでティーポットを傾けている。
立ち上る湯気と、淹れたての紅茶の芳醇な香り。
彼女の穏やかな横顔を見ていると、張り詰めていた神経がふっと緩み、胸の奥に灯がともるような安らぎを覚えた。
(この日常は、まだ壊れていないのね)
「メリーアン」
「はい、お嬢様!」
彼女はすぐさま紅茶を差し出し、いつものように元気に微笑む。
その健気さに、私は少しだけ罪悪感を抱きながらも、決意を口にした。
「……ちょっと付き合ってほしいの。城下まで」
「はい! ……ってえ、城下……ですか?!」
メリーアンは驚きに目を丸くし、トレイを持つ手がわずかに震えた。
外の土砂降りの音が、窓を隔てていても一段と大きく響き渡る。
「許可はちゃんとルキウス様に取ってるから」
「でも、お嬢様! こんな土砂降りですよ?風邪をひいちゃいます!」
「お願い、ね?」
私が少しだけ伏せ目になって懇願すると、メリーアンは折れたように小さく息を吐いた。
彼女に心配をかけていることは分かっている。
けれど、今の私にはこの小さな「無茶」が必要なのだ。
数分後。
クローゼットの奥から取り出したのは、貴族らしい装飾を無くした、地味で実用的なワンピースだった。
華美なドレスを脱ぎ捨て、目立たない濃紺のケープを羽織る。
顔を覆うフードを深く下ろせば、鏡に映る姿はどこにでもいる娘のようだった。
雨が叩きつける窓の外の世界。
私の世界は、静かに、けれど確実に崩れ始めている。
その破片を拾い集めるために、私はこの雨の中へ飛び出すのだ。
「行きましょう、メリーアン。」
彼女の戸惑う足音を背後に感じながら、私は覚悟を決めて扉を開いた。
だって五番通りの野良猫には、下を向いていることなんて似合わないのだから。




