月光夜
その日の夜。
結局きっかり1時間で目覚めたルキウスに解放された私は、メリーアンに頼んで魔術師団の詰所へ向かった。
相変わらず来る人を拒絶するような古めかしく厳かな石造りの詰所。
日が暮れているのにも関わらずそこには大勢の魔術師たちがおり、すれ違うたびに彼らは私に微笑み、恭しくお辞儀をする。
暫く用意された控えの部屋で待っていたが、ユリウスは現れなかった。
曰く、皇太子の命で新聞社が来ているらしい。
────忙しいのだ。
諦めて帰ろうとしたとき。
ドタバタッ、と慌ただしい足音が廊下に響いた。
「シャー……アデライン様っ!」
「ユリウス……」
開け放たれた扉の向こうには、息を切らし、ローブをただ適当に羽織っただけの彼が立っていた。
いつもの冷静な面影はなく、髪は少し乱れ、その瞳だけが私を捉えて揺れている。
「少し、お時間……っ、よろしいですか……っ?」
「……それはこちらの台詞よ」
圧倒的に忙しいのはユリウスの方であるはずだ。
私は溜め息をつき、彼を見上げた。
忙しさで憔悴しきっている顔色。
けれど何となく、その瞳の奥には疲れとは別の感情が浮かんでいるように見えた。
「貴方も大変そうね」
「いえ、私など心配には及びません」
ユリウスはメリーアンに、自分が私を送るから自室へ戻るようにと伝え、それから私に向かって柔らかな微笑みを浮かべた。
冷たい手のひらが、私の手を優しく引く。
彼の手は少しだけ震えていた。
迷路のような道のりの先。
質素な赤い扉。
開けると、懐かしさを感じさせる薬草の香りが鼻をくすぐった。
図書館ほどではないが、所狭しと並ぶ大量の本。
今まさに実験中かのような、薬品の入ったフラスコ。
簡素なベッドと、少しシワの寄ったシーツ。
「……ここは?」
「前帝国魔術師団長、アルカ・ラビアンジュ様の研究室です」
「……っ」
ここが、パパの部屋。
帝国領内にあったがゆえに、シャーロットだった時は決して近寄ることを許されなかった聖域。
一歩踏み入れる。古い紙の匂い。
窓から差し込む冷たい月光だけが、静寂に包まれた部屋を青白く照らしている。
ようやく父の面影として、一番近くに来られた。
「随分と本が残っているのね」
「……魔術師たちが保護魔法で隠していました。決して中身を王家に見られぬよう、焼かれぬよう……」
ラヴィアンジュを絶やそうと、帝国は動いていた。
魔術師を減らし、徹底管理しようとしていた時代。
魔術師の希望となりうる女神の末裔は、存在するだけで「害」だった。
そのせいでパパは死に、ママは私を産む前に特区へ送られた。だから私は、こうしてひっそりと生まれることができたのだ。
この場所は────そんな暗い時代の名残を感じさせない。
魔術師たちは、必死に守り抜いてきたのだろう。
ラヴィアンジュを。魔術師の希望を。
「これは、貴方のものです」
ユリウスが差し出したのは、一枚の古い写真だった。そこに写るのは、見知った顔の男女。
「……っ、ママ……!」
アンジュちゃん。
もう誰も呼んでくれない私の最初の名前を、胸の奥で思い出す。
涙が止めどなく溢れた。
ママの顔を見るのは、彼女が亡くなってから初めてのことだ。
声の高さも、温もりも、朧気にしか思い出せない。
けれど今こうして写真に写るママの穏やかな微笑みを目にすると、記憶の海の深いところに沈んでいた欠片が次々と繋がり、胸の奥を激しく揺さぶる。
消えてしまいそうな優しい思い出を、この写真が懸命に繋ぎ止めてくれている気がした。
ぽろぽろと零れ落ちる雫を、私はどうにか両手で拭おうとする。
けれど視界は涙で歪み、涙の温度で視界が滲むばかりだった。
そんな私を見かねたのか、ユリウスがそっと歩み寄り、自身のハンカチで私の目元を優しく拭った。
彼の指先が頬に触れる。
その動きがあまりにも丁寧で、まるで壊れやすい宝物を扱うような繊細さに、私は息を呑んだ。
「ごめんなさい、取り乱して」
「……いえ」
彼は少し困ったように微笑んだ。
「貴方がシャーロットだと知って一番最初に思ったことは……この景色を、貴方にお返ししなければ、ということでした」
青い、澄んだ瞳が、私という存在をまっすぐに捉える。
その真っ直ぐな視線に、私は少しだけ息が詰まった。
「ずっと、悔いていたのです。魔術師団長としてこの場所を引き継いでから……私は、シャーロット・ラヴィアンジュもまた、一人の少女だったのだと気が付きました」
「知らなかったの?」
「ふふ、知りませんでした。貴女はあまりに偉大な存在でしたから。この場所でアルカ殿を身近で感じて……貴方が誰かの大切な娘だったのだと、ようやく実感したのです」
彼は一冊の本を棚から取り出し、手渡してくれた。
古びた、シンプルなノートブック。
「触りだけ読んでしまいました。すみません」
「愛しい貴方へ────これ、パパの………日記?」
本物の。
ヴェリアルに渡された「女神の鍵」とは違う、本物のパパの日記。
「差し上げます。……いえ、貴方が持つべきものです」
「私、パパと話したこともないし、文字も見たことがないの。だからこれが初めて」
「……渡すことができて、良かった」
日記の表紙をなぞる指先が震える。
彼の手を通じて、父の温もりがようやく私のもとへ届いたような気がした。
日記を見つめていると、彼の気配がすっと近づいた。
「シャーロット。もう一度、この世界に現れてくれたことに感謝を」
ふわ、と風が吹く。
彼の手が、私の髪を一束優しく撫でた。なかなか笑わない彼の、心からの笑顔。
「この帝国をエルステラから守っていく……そこに貴方がいてくれると、これほど力強いことはありません」
その瞬間、ガン──と頭を殴られたような衝撃が走った。
「……っ」
不思議そうに私を見つめる彼から、私は反射的に一歩距離を取った。
窓から差し込む冷たい月の光から、逃げるように影の中へ身を引く。
彼が語った「帝国を守る」という言葉が、エルステラに生きる仲間たちの息の根を止める宣告のように響いたからだ。
「あ……ごめんなさい。少し一人で考え事をしても?」
必死に平穏を装う声が、我ながらひどく遠く聞こえる。
「……ええ、もちろん。帰りたい時はこの鈴を鳴らしてください。どこにいても聞こえるよう魔術を掛けていますから」
「ありがとう」
帰り際、彼は何かに縋るように、少しだけ躊躇いながら言葉を紡いだ。
「今度お時間があるとき、あの結界の編み方について質問させていただいても構いませんか?」
「ええ、もちろんよ」
「……約束ですよ」
彼の穏やかな声が、今は残酷なまでに重くのしかかる。
誰もいなくなったパパの部屋。
たくさんの魔術書。
古い世界地図。
そこにはまだエルステラは存在しない。
かつての歴史だけが、まるで何も変わっていないかのようにそこに眠っている。
私は静寂の中で、日記を抱きしめた。
「わたし……エルステラと……皆と、戦うの?」
馬鹿な私。
ようやく実感したのだ。
私がここで魔術師のために力を尽くせば尽くすほど、それは彼らの首を絞めることになる。
もし私がかつての知識を───力を振るえば。
そうしたら、エルステラの仲間たちはどうなる?
「本当に、それでいいの……?」
誰にも届かない問いかけが、部屋の静寂の中に溶けて消えた。




