嵐の後の午後の一幕
次の日の朝刊はユリウス・ティリスで持ちきりだった。
─────それも、いい意味で。
発端となったとされる魔術師が捕縛された後も火の勢いが止まらなかった事から、「帝国魔術師団による計画的犯行である可能性は低い」と報じられたことも大きかった。
そしてそんな無機質な真実よりも、人間は劇的で美しい「奇跡」に弱い。
迫り来る火の手から、光り輝く恵みの水によって城下を救ったヒーロー。
手のひらを返したかのような世論に合わせ、新聞もまた、ユリウスを擁護する論調へと傾いていった。
そうなるよう裏で糸を引いていたのは、現在三徹目を迎えた皇太子、ルキウスである。
火災に遭った商店や住宅の補填、怪我人の救護活動、亡き人々の国葬の手配───。ありとあらゆる義務に追われ、彼の目の下には濃い隈が刻まれ、顔色は紙のように青白い。
しかし、その背にまとう皇太子としての威圧感は、依然として絶好調そのものだった。
「世の魔術師に対する反感が、わずかながら減った。第二騎士団による民の誘導も功を奏し、火の規模の割に死傷者も少なかった。結果だけを見れば、上々と言っていいだろう」
「……不謹慎です」
「そうか?」
「そうで……っくしゅん!」
私はルキウスと2人きりの執務室でひたすらに書類作業に追われている。具体的に言うと、ルキウスの承認した大量の書類に皇太子の玉璽の印を押していく作業だ。
皇帝が伏せている今この国の頂点である人間には決めなければいけないことがたくさんある。
それなのに、当の本人が人を選んで仕事をするせいで、選ばれた私も道連れという訳だ。
あの「奇跡」の夜の代償として、アデラインの病弱な身体は水を浴びたまま外の風に当たった事ですっかり冷えてしまい、風邪気味だ。
鼻をすすると、鼻先が熱を帯びているのが分かる。
ハンカチで鼻を拭った拍子に、指先についていた赤いインクが頬にべっとりと付いてしまった。
「……アデライン。頬にインクが付いているぞ」
「えっ」
ルキウスが自身の頬をトントンと指さすが、鏡を見る余裕もない。
私が慌てて手探りで頬を擦るものの、逆に汚れを広げてしまっているらしい。
呆れたような、けれどどこか楽しげな溜息が聞こえた。
ルキウスが椅子から立ち上がり、私のすぐ隣へと歩み寄る。
「まだ取れていない。貸せ」
彼の大きな手がハンカチごと私の頬を覆った。
手ぬぐいで拭われる感触よりも先に、彼の冷たい体温と、執務室に漂う紙とインクの匂いがふわりと香る。
まつ毛が長い。
白い瞼が、すぐ側で静かに瞬いている。
近すぎる距離に思わず呼吸が止まると、クスクスと笑う声が耳元で震えた。
「……こういう所は、まだお子様だな」
離れようとする彼の服の袖を、私はとっさに掴んでいた。
ずっと喉の奥で燻っていた、あの疑問を口にするために。
「ルキウス様」
「ん?」
「ガイウス卿は……今回の件の犯人ではないと思います」
ルキウスは意外そうに目を瞬かせただけで、すぐに「ああ、だろうな」と肩をすくめた。
魔術師の自由を強く否定するアゼル・ガイウスが、今回の件を魔術師の失策として利用したっておかしくない。
数日前の彼の態度を知るものなら、誰もが彼を最有力候補と踏むだろう。
それなのに。
ルキウスはアデラインとは違う視点から、真実を導き出していた。
「あいつはああ見えて、数少ない国思いの忠臣なんだ」
「……ご存知だったのですね」
「なにせ、仕事をしない前皇太子に食ってかかって、懲罰房に放り込まれた前科がある。……まあ、第二騎士団の連中はあいつがいなきゃ動かない。だから泣く泣く即日解放してやったらしいが」
ルキウスは懐かしむように、呆れたように、ふっと笑う。
────アゼル・ガイウス。
彼もまた、自分の信念の為に動いているだけに過ぎないのだ。
それに私は気付けなかった。
シャーロットとしての私は、自分の世界を彩る色を「味方」か「敵」かという二色だけで塗りつぶし、その裏にある複雑な背景に目を向けようともしなかったのだから。
「……勉強になりました。物事を一面だけで見てはいけない、と。私、ずっとガイウス卿を誤解していましたから……」
「まあ、もう少し頭を使って動けばよいものを、とは思うがな。損な性格だ」
呆れ混じりの溜息の向こう側に、ルキウスがガイウスという男に対して抱いている、根深い信頼が透けて見えた。
言葉とは裏腹に、その眼差しはどこか慈しむような色を帯びていた。
そしてその穏やかな時間は、唐突に断ち切られた。
ふと、ルキウスの表情から微かな情緒が消え失せる。
世界を静かに、そして冷徹に見通す灰色の瞳が、私を真っ直ぐに射抜いた。
その瞳の奥には、確信に満ちた熱が静かに渦巻いている。
「なら、あんな大それた事をしでかした犯人は誰なんだろうな?」
ふいに投げかけられた問いに、室内の空気が一瞬にして凍りついた。
窓の外から聞こえるはずの街のざわめきすら、魔法で遮断されたかのように遠ざかる。
心臓が不規則に跳ねた。
脳裏を、エルステラの仲間たちの横顔がよぎる。
彼らだという証拠はない。
けれど私の中では霧のような疑念が、日に日に色濃く支配力を増していた。
「……私には、見当もつきません」
咄嗟に口をついたのは、そんな無難な否定だった。
────誤魔化してしまった。
ルキウスは鋭い。
私が誰を疑い、あるいは誰を庇おうとして言葉を濁したのか、その瞳にはすべて映し出されているはずだ。
けれど彼は追及の代わりに、ふっと視線を窓の外へ逸らした。
「兎にも角にも、よくやったアデライン。お前がいなければ、またすべてが後戻りするところだった」
「……アディには難しいことはよく分かりませんが、皆様が無事で何よりです」
「……ははっ! あはは! お前のその下手くそな演技も、今となっては愛おしく思えてきた」
ルキウスは肩を揺らして笑う。
少しだけ張り詰めていた糸が緩んだ隙に、彼はふと思い出したように付け加えた。
「褒美をやる。何か欲しいものはあるか?」
「……褒美、ですか?」
「金か、地位か。……望むものを言え」
窓から差し込む陽の光が、彼の横顔の輪郭を白く縁取っている。
その孤独な背中を見て、私は静かに口を開いた。
「……城下街へ行ってもいいですか?」
「……そんなものが褒美になるのか?」
ルキウスは怪訝そうに眉を寄せた。
「駄目ですか?」
「いや、構わない。護衛さえ連れていけば、好きな時に好きなだけ見にいくといい」
彼は呆れたように肩をすくめ、面白がるように細めた瞳で私を見つめた。
私は精一杯の愛嬌を込めて、柔らかな笑みを返した。
「もうすぐ時間だな。下がっていい」
ルキウスが机上の砂時計へ視線だけやった。
それは3時間を正確に刻み、アデラインの労働時間が終わろうとしていることを知らせていた。
私は、それを見て……そして、ルキウスの顔を見て。
背の高い椅子からぴょん飛び降りると、ルキウスの机の上にあった豪華な装飾の砂時計を悪戯っぽくくるりとひっくり返した。
砂が落ちる微かな音が、二人だけの空間を満たす。
「まだ時間はありますね」
「お前の虚弱な体質のことは、大分わかってきているつもりだ。あまり無茶はするな」
「ここに座って、ポンッポンッと書類に印を押していくだけですから。私にとっての負担なんて、たかが知れています」
にこりと笑って見せると、私は真剣な眼差しで彼を促した。
「ですからルキウス様は、少し休んでください」
「……今そんな時間は……」
「指示を出す貴方が倒れてしまえば、すべてが総崩れになります。簡単な書類であれば、私が代わりますから」
「……ああ」
私の静かなお説教に、彼は一瞬驚いたように目を見開き、やがて小さく息を吐き出した。
彼は無言で立ち上がると、私を軽々と抱き上げ、そのまま部屋の奥にあるソファへと向かった。
抵抗する暇もない手際の良さと、彼から伝わる微かな体温の移ろいに、私は息を呑む。
そのまま彼は私の肩に、ぽすんと頭を預けた。
「殿下……重いですわ。第一、これでは仕事が出来ません」
「子どもの体温は温かいんだ」
言い返そうと口を開きかけた時、頭上から名前を呼ばれた。
「アデライン」
「……はい?」
「……アデライン・エセルリード」
「はい」
返事をしても、それ以上の言葉は返ってこない。
ふと視線を落とすと、彼は既に長い睫毛を閉じ、微かな寝息を立て始めていた。
「……寝た?」
何だったんだ、今のやり取りは。
脱力したその寝顔は、帝国を背負う冷徹な統治者ではなく、十八歳の────年相応の少年そのものだ。
肩に乗せられた重みは、彼が背負っている重責の重さそのもののように感じられた。
私は動くこともままならぬまま、ただ窓の外から差し込む午後の光の中で、静かに彼の眠りを見守るしかなかった。
そしてそれから数十分後。
─────ガチャリ。
重厚な扉が音を立てて開かれた。
「……今ようやく寝たところなので、可能であれば少し後にしていただけますか?」
私は努めて冷静に声を潜め、扉の前に立つ人物を制した。
「……最悪だ。何が楽しくて、主君が幼女と睦み合っているところをわざわざ見せつけられなきゃならんのだ」
「……変な言い方はやめてください。そんな関係ではありません」
ため息と共に姿を現したのは、アゼル・ガイウスだった。
彼は疲れ切った様子で、手にした書類を丁寧に机へと置いた。
その頬や首筋には、生々しい火傷や擦り傷がいくつも走っている。
「ガイウス卿。……酷い怪我ですね」
「あそこにいた連中は、皆多かれ少なかれこうなる」
「ちゃんと魔術師に診てもらってください。火傷は洒落になりません。処置が遅れるほど、跡が深く残ってしまいます」
魔法は万能な奇跡ではない。
人体を修復するには、相応の魔力と時間が必要なのだ。
私の言葉に、アゼルは動きを止め、じっとこちらを見つめてきた。
眉間に深い皺を寄せた、いつものしかめっ面。
けれど、さきほどルキウスから聞いた言葉の余韻のせいか、あるいは張り詰めていた緊張が溶けたのか、彼の表情は以前よりもどこか人間味を帯びて感じられた。
「……私は、お前をエルステラの手の者だと疑っていた」
心臓が音を立てて逆流した。背中に冷や汗が伝う。
見破られていたという事実に、口の中が瞬時に乾き、喉が引きつった。
「……それはまた、何故でしょう」
声を震わせまいと、努めて淡々と問い返す。
アゼルは冷徹な眼差しで私を射抜いた。
「当たり前だ。得体の知れない新しい皇太子が、どこからか連れてきた幼子の秘書。その分際で、魔術師の地位向上を訴えてみろ。誰もが怪しむはずだ」
「た、確かに、怪しすぎる……」
冷静に考えれば、至極真っ当な反応だ。
私は少しだけ肩の力を抜いた。
「この国はこのままだと、間違いなく沈む」
アゼルは視線を私から外し、窓の彼方、雲ひとつない青空を見つめた。
その声には、怒りよりも深い諦念と、わずかな願いが混じっている。
「無能な皇太子に、自らの利権にしか興味のない貴族たち。帝国を影から操ろうとする神殿。……魔術師云々の話をする以前に、この国は己の身から出た錆によって死に絶える運命にあった」
彼は拳を強く握りしめた。
「ずっと、指を咥えて見ているしかなかった。何かをしようにも、何も……何もかもが手遅れに思えていた。けれど、もし本当に足掻けるというのなら、それ以上に嬉しい事はない」
「……そう、ですか」
彼が背負っていた絶望の重さを知り、胸の奥が痛んだ。
アゼルはふっと自嘲気味に笑い、私に向き直る。
「エセルリード公爵令嬢。……皇太子を、腐らせるなよ。使えるものは何でも使え。それがこの国のためになるのなら」
「……忠告、感謝します」
「我が主君が選んだのが幼子なら、仕方あるまい。せいぜい、殿下の盾となって支えてやれ」
「違いますから! 私はただの秘書ですし、睦み合っているわけでもありません!」
「声を荒らげるな。起きるぞ」
私の必死の抗議にアゼルはふ、と鼻を鳴らし、呆れたように踵を返した。
その背中は、以前よりもほんの少しだけ頼もしく見えた。
ep33 罠に引っかかったネズミ が投稿出来ていなかった為、再投稿させていただきました!
いつも評価やブクマありがとうございます!




