5番通りの野良猫
ジリリリリッ――――
耳をつんざくような警報が鳴り響く。
これは誰かが革命軍本部内で非常事態を合図する時の、召集命令だった。
「ネズミが入り込んだかな……」
ネズミ。
このタイミングで訪れるネズミは、黒い軍服を纏った帝国の騎士たちに違いない。
ギシ、とベッドのスプリングが鳴る。ヴェリアルが扉の先を見つめ、目を細めた。
肌に触れていた体温が遠のき、決定的な距離が生まれていく。
――――だめ。行かせちゃいけない。
次に彼が剣を取れば、その時はもう誰も止められないだろう。
地獄の王は、いま、わずか目と鼻の先にいる。
「ベル」
他の人には聞こえないような小さな吐息も、わたしに執着している貴方なら、見つけ出す事ができるのでしょう?
うつむく私の頭を、まるで我儘を言う駄々っ子を諌めるようにそっと撫でる冷たい手。
「話の続きは後にしようか」
「ベル」
「シャーロッ……っ」
呼びかけを、唇で塞いだ。
初めて、自ら。
指先が、彼の喉元で厳格に閉じられたシャツのボタンに触れる。
布越しに伝わる体温と、わずかな動揺。
捕らえた獲物を逃がすまいと緻密な罠を張る狩人。その懐に、獲物の側から飛び込んだのだ。
視界が激しく揺れ、次の瞬間、天井が目の前に広がっていた。
押し倒された衝撃。
これまで交わしてきた幾つもの口付けが、まるでおままごとに思えてしまう。そんな決定的な分岐点が、今、ここに存在している。
「シャーロット」
背中がシーツに沈み、覆いかぶさる彼の重みと、狂おしいほど甘い執着が肌を焼く。
けれど、私の指先は恋人の愛撫を求めてなどいなかった。焦燥に突き動かされ、軍服の隙間、熱を帯びた身体の輪郭を、貪るようにまさぐり続ける。
――――これだ。
指先に触れたのは、冷たく硬い石の感触。
「ねえ、ベル?」
掌の中に、その切り札をしっかりと閉じ込める。
私は、世界を震え上がらせる地獄の王を、まつ毛が触れ合うほどの至近距離で見つめ返した。
「貴方は5番通りの野良猫を甘くみすぎよ」
震える唇で、呪詛にも似た古の言葉を紡ぐ。
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ・ル・ヴェルディ・ラヴィアンジュ!」
その一節が完成した瞬間、ベルの身体から力が抜け、私の上に崩れ落ちた。
あれほど私を支配し、逃がさないと誓った強靭な腕が、今は頼りなくシーツを掴んでいる。
「っ、かハッ……あ、……」
肺から無理やり空気を引き抜かれたような、掠れた悲鳴。
見上げる彼の瞳から、支配者の光が急速に失われていく。
「行かない……で……」
縋るようなその声は、あまりにも無防備。
「……そんな声を出されたら、まるで本当に私のことが好きみたいじゃない」
自嘲気味に呟きながら私は彼の手を振り切り、部屋の外へ飛行魔法で飛び出した。
急がなくちゃ。
わたしがベルを足止め出来るのは、そんなに長い時間では無い。
全身全力で、魔術師たちが向かっているのと同じ方向へ飛び続ける。
そして右手に隠し持っていた光り輝く結晶体を見つめる。
触った瞬間から、掌を焼くように熱いそれは、呪いのように美しく光り輝く。
そしてそれをわたしは、躊躇うことなく自らの口の中へと押し込み――――そして、飲み込んだ。
「――っ!!」
喉を通り、ごくりと飲み込んだ瞬間、内臓を直接炙られるような熱が心臓を突き上げた。
ドクン、ドクンと、私の心臓は早鐘を打つ。
視界が激しく揺れる。世界が、歪んでいく。
それでも飛び続ける。これしか、方法はないのだ。
(……これで、いい)
石のままでは物体が安定してしまって、壊せない。なら石でなくしてしまえばいい。
これは所詮、魔力の塊。
魔力は、いずれ魔術師の心臓に収束する。
そして、心臓を壊せば…………。
彼が求めていた5つの宝石のうち一つが、永遠に失われる。
1つでも脅威なのは間違いない。これを破壊しても残り4つも残っている。
けれど、5つすべてが揃わなければ、まだやりようはあるはずだ。
ユーティオティアスが、ミルヒオールが、ヴィクトリアが。きっと、私の意思を継いでくれる。
「城内に帝国第一騎士団が帝国魔術師数人を伴って侵入しました……!」
「侵入だと?よくもそんな騙し討ちみたいな事を……!」
おそらく、帝国騎士団が自ら踏み込んだわけではない。
ヴェリアルの思惑――『ダイヤモンド』という力を振るうための大義名分が欲しい子羊たちが、彼らを陥れたに過ぎないのだろう。
魔術師たちに包囲され、出口を塞がれた騎士団は、必死の面持ちで抜刀していた。
一触即発。
張り詰めた空気の中、私は先頭で指揮を取るユーティオティアスの肩を叩いた。
「ティティ。私が話すわ」
「シャーロット?!」
彼は幽霊でも見たかのように目を見開く。
ヴェリアルに説き伏せられ、奥で大人しくしていると思っていたのだろう。私は彼を通り越し、剣の列に向かって一歩ずつ進み出た。
一個大隊ほどの帝国軍。何度も戦場で剣を交えた相手だ。
「――天災だ」
誰かが恐怖を噛み殺すように呟いた。
高まる緊張感の中で、私は静かに彼らを見渡す。
そして、幸運なことに「彼」もそこにいた。
「エセルリード卿。あなたに会いたいと思っていたの」
「……っ、天災……?何故、私の名を」
黒い髪に、蜂蜜を溶かしたような色の瞳。
生真面目が制服を着て歩いているような、潔白な青年。
――――仇にするならば、彼がいい。
「前へ。2人だけで話をしましょう」
部下たちの制止を片手で制し、彼は覚悟を決めたように歩み寄ってきた。
私は静かに呪文を唱え、保護魔法を編み上げる。ここから先のやり取りは、誰にも聞かせたくない。
「エセルリード。私は君を気に入ってるの。君は、決して民間人に手を出さない。子供の兵隊にはトドメをささないし、転んだエルステラの老人に手を差し伸べたことも知っているわ」
「何故、それを」
「知っているわ。エルステラで起きている全てのことは、私がちゃんと“視ている”の」
私の言葉に、彼は喉を鳴らした。
「私はね、全ての魔術師が笑顔で暮らせる場所を作りたいの。……でも、貴方達人間を虐げる理由にはならない。願わくば共に生きていける友になりたい。きっと君なら、その一歩を踏みだせる」
私は微笑み、彼の剣の先を自分の胸へと導いた。
「私の心臓を、止めて」
「っ、何故!貴方がやろうとしていることを道半ばで放り投げるのか」
「いいえ。たくさん考えて……これが、最善だと決めたの」
困惑に揺れる蜂蜜色の瞳を見つめ、私は最後の願いを口にする。
「お願い。私を信じて」
「っ」
数秒の沈黙ののち、覚悟を決めたような彼の深い溜息。
そして鈍い衝撃。
熱いものが胸の奥を通り抜け、私の視界が白く爆ぜた。
「っ、かはっ……」
「何を……して……!シャーロット!」
外側から保護魔法を消そうとするユーティオティアスの叫び。結界にぱりんとヒビが入り始める。
力が抜け、身体が崩れ落ちる。エセルリードの手が、反射的に私の身体を支えた。
まだ二人きりの世界。
誰にも、私たちの邪魔はさせない。
「エセル、リード卿。……いい、選択を、したわ……」
「……天災の魔女、貴方は……」
声が掠れ、意識が遠のいていく。
「心配、してるの? 敵なのに……。本当に、変なひと……」
私は消え入りそうな声で、彼の耳元で囁いた。
「お願い、が、あるの……。貴方の、子どもには……。争いのない世界を、見せて、あげてね……」
身体が、鉛のように重い。
完全に結界が破れ、外の世界の音がなだれ込んでくる。
「シャーロット……!」
遥か遠くから、ヴェリアルの声が聞こえた気がした。




