地獄の扉が開きました
運命の日。それは突然訪れる。
降り続く雨が窓を叩く、薄暗い朝のことだった。
ユーティオティアスが、私の部屋を訪れた。
歩く機能を失ってからというもの、彼は避けるように、わたしの部屋へ足が遠のいていた。
ユーティオティアスが悪いわけではないのに、最近は顔を合わせると気まずそうな表情なんかを浮かべて。
コンコン、と。
心許ないほど控えめなノック。返事をすると、扉が重々しく開く。
そこに立っていた彼は、いつも完璧に整えているローブすら乱れ、その表情には隠しようのない焦りが滲み出ていた。
「……話、既に聞いてますよね?」
「話?なんの?」
私の問いに、彼の視線がふいと泳いだ。
あ、これ――悪い話だ。
心臓が嫌な跳ね方をする。本能が最悪の予感を引き当てた。
「…………今日、あれが使われます。誰かから報告は受けていますか」
さっと血の気が引く。
あれ――――言葉を出さずともわかる。
ヴェリアルと私が道を違えた原因となる、古代の遺物。
「正午に革命軍本部にエセルリード卿率いる第一騎士団が到着します。名目は、エルステラ領にいる人間の避難誘導――――。ですがヴェリアル様はそこで、孤独のダイヤモンドを使って魔術を展開する予定です」
それが何を意味するか、考えたくもなかった。
第一騎士団の殲滅。王国最強の盾を失えば、天秤は残酷なまでの速さでエルステラへと傾くだろう。
「いつ、決まったの」
「……昨日です」
「それは、ミルヒオールやヴィクトリアも賛同したの?」
「ちょうど昨日から、彼らは遠方の鉱山へ残りのカケラ探しに動員されています」
あまりの姑息さに、乾いた笑いが出そうになる。
ぐっと握りしめた拳の、爪が食い込む痛みだけが現実だった。
反対意見を口にする魔術師を物理的に遠ざけ、ヴェリアルの信奉者だけで塗り固めた会議とやらに一体何の意味があるの?
「今までの会議は、貴女の意見を聞くためだけに開かれていたようなものですから」
わたしの抱いた憤りを見透かしたように、ユーティオティアスは自嘲気味に視線を落とした。
目が合わない。
かつては痛いほど真っ直ぐに、意志の強さを宿していたその瞳が、今はただ逃げるように伏せられている。
「ティティ。貴方は賛成するの?全ての人間を使役するべきだと、本当に思う?」
「王の決定が私の決定です」
「私が聞いているのは貴方の意思よ。本当に今まで接してきた人間は、全員悪人だった?」
彼は知っているはずだ。
エルステラを豊かにするために朝も夜も関係なく飛び回った彼なら、人間と魔術師が助け合う姿も、喜びを分かち合う姿も見てきたはず。
「貴方が考えて、ティティ」
王の決定が私の決定だと、いつも機械のように彼は繰り返す。表情も変えずに。
侍従としてヴェリアルの為に生まれ、彼に付き添って罪を被り地獄に落ちる。そして、王だけを信じてただひたすらここまでやってきた。
そんな彼に自分の意見を持てというのは、随分酷なことを言っている自覚はある。
けれど信じたかった。
私の知るユーティオティアスは傲慢だし、神経質な手の焼ける男だった。
けれどそれは理想が高すぎることの裏返し。その尖った言葉の奥には、不器用なまでの優しさが隠れていることを知っているから。
彼自身の選択を、言葉を、聞かせてほしかった。
けれど、迷いに揺れる彼の唇から言葉が溢れるより先に、地獄の扉が開いてしまった。
ふわりと、場にそぐわない花の香りが鼻腔をくすぐる。
凍てつく雨の日にはあまりに不釣り合いな、春の庭園を思わせる芳香。
白薔薇の花束を抱えたヴェリアルが、ノックもなしに部屋へと踏み込んできた。
いつものように、一点の曇りもない完璧な微笑み。
死神のような美しさを纏って一歩ずつ近づいてくる彼を見て、私は息を止める。
「やあ、ユーティオティアス。君がシャーロットの部屋にいるなんて珍しいね」
ユーティオティアスは即座に表情を消し、深く頭を垂れた。
「ティティ……待って、まだ話が……」
「……失礼します」
逃げるように去っていく彼の背中と、入れ替わるように視界を塞ぐ純白の花束。
甘い香りが、部屋の空気を塗り潰していった。
「怒ってるね。けれど、これは僕だけの判断ではないんだよ」
ヴェリアルは花束をサイドテーブルに置くと、当然のように私のベッドの傍らへ腰を下ろした。
「貴方に反対するものたちを全て退けた話し合いに意味はあるの?」
「ミルヒオールやヴィクトリアには、事前に個別で話を通したよ。最終的には、彼らも理解してくれた」
「わかってくれた……ね。脅した、の間違いではないの」
私の刺すような言葉を、彼は柔らかい沈黙で受け流した。そして、一筋の髪を指先に絡める。
「君は生まれた時から地獄にいたね。――――ある者は隔離されて育てられ、家族と会話をしたこともない。ある者は魔力装置を動かすための材料として鎖に繋がれて育てられた。そうやって非術師は、いつも僕たちを迫害してきた」
「だからと言って、それをやり返すつもり?同じ存在に成り果てるというの」
「非術師は僕たちの同盟を受け入れることはない。何故なら、魔術師の事を物だと思っているから。物の言い分など聞かない。戦争は続くだろう。そうなると、君の愛する民も苦しむ」
ヴェリアルの指先が、流れるように私の頬をなぞる。
「触らないで」
烈火の如き拒絶でその手を振り払う。けれど彼は動じない。
「触らないで」
「貴方が怖くて誰も反対出来ないと言うのなら、私が反対する。この命に換えても」
「厄介だな。僕が君だけは傷つけられないことをわかって、そんな残酷な事を言うんだろう?」
「その馬鹿げた理想を掲げるのなら、私が死んでからにして」
「死ぬなんて、冗談でも絶対に許さない」
ヴェリアルの笑顔から光が消え、凍てつくような沈黙が部屋を支配した。
「……なら私は……このままあなたのお人形みたいに側にいて、この殺戮に加わって、いつかあなたの事を恨みながら死ねばあなたはそれで満足?」
「馬鹿なことを言うね……シャーロット。君がいなくなったら僕は、どうやって息をすればいいかも分からないのに」
その顔には、いつもの完璧な笑顔は存在しなかった。
あるのは、ただ縋るような、剥き出しの執着。
その瞬間、世界には私たち二人だけが取り残されたようだった。
部屋に立ち込める薔薇の香りが噎せ返るほどに濃くなり、沈黙の中、逃げ場のない雨音だけが部屋を支配した。
ヴェリアルが顔を寄せ、柔らかい唇が静かに触れた。
祈りにも似た、儀式めいたその口付け。
至近距離で見つめる彼の瞳は、光を反射しない底なし沼のように暗い。
嗚呼、もう、この人は止まらない。止めることはできない。
幸せを映すことを拒んだその硝子玉に、今の私はどんな絶望を浮かべて映っているのだろうか。
「……幸せにするよ」
「そんな幸せ要らない。貴方を止めてみせる。それから、貴方から逃げおおせてみせるわ」
ヴェリアルの冷ややかな視線が、私の動かない足へとゆっくり落とされた。
「逃げる?その脚で?」
嘲笑うような言葉。けれど、私の心までは折れはしない。
「このザマでも、できることはあるのよ」
「お願いだ、シャーロット。ずっと傍にいて……僕の運命。幸せにしてあげる。この世界のすべてを君に捧げるから――自由だけは、どうか諦めて」
彼はそう言って、壊れ物を扱うような手つきで、私の冷えた指先を強く握りしめた。




