パパの手帳を開きました
その瞬間は、残酷なほどにあっけなかった。
これまで身体中隅々まで潤していた魔力の気配が、波を引くように消えていく。
そしてどんどん重くなっていく瞼の裏に、最後まで残ったのは大切な人たちの顔。
ああ、本当に終わるのね─――─。
生きた時間は短かった。
お世辞にも大往生とは言えないかもしれないわ。
けれど、一瞬も止まらずに、泥を啜ってでも走り抜け続けた。私はこの不器用で、誇り高い人生を愛している。
願わくば。
もし次があるのなら、もう少し平穏な人生を歩みたいな。
────今とはそう、真逆の。
鉄の匂いも、血に濡れた剣の重みも知らない世界。愛してくれる家族に囲まれて、年相応の恋なんかをする。
そんな、ありふれた幸福な人生を。
──――─いいえ、でもね。決してこの人生に悔いはないの。
戦いの日々の中で、私はかけがえのない仲間たちに出会えたのだから。
気づけば、私は土の上を歩いていた。
足の裏に伝わるのは、確かな土の冷たさと湿り気。
見上げると、そこは境界の曖昧な、どこまでも真っ白な世界だった。
かつて特区で過ごした大神殿を彷彿とさせる、荘厳で、けれど音のしない静かな場所。
その中央、花畑の中で、巨大な大理石のテーブルを囲んで、二人の影が腰を下ろしているのが見える。
「シャーロット!こっちだよ!」
親しげに手を振るのは、そばかすが散る頬を林檎のように赤くした、三つ編みの女性だ。
「よく頑張ったね!君の生涯、ずっと見ていたよ」
「あ……」
不意に、膝のあたりに柔らかな重みを感じた。見下ろすと、金髪を輝かせた五歳ほどの双子が、私の服の裾をぎゅっと握りしめている。
「ドラマチックなお話だった!」
「最高だよ。久しぶりに、退屈しなかった!」
「誰……? ここは……一体」
「言わずとも、瞳の色で気がつくだろう」
奥に座っていた男が静かに口を開く。その双眸には、私と同じ色――――ラヴィアンジュにしか現れない、角度によって万華鏡のように色を変える「宝石瞳」が宿っていた。
「貴方たちは、私の先祖……?」
「そうだ。ここはアルカの遺した手帳の、最深部」
アルカ………パパの手帳。
私がヴェリアルからかつて受け取ったそれは、何度開けようとしても開くことはなかった。
最初は針金で物理的にこじ開けようとした。
次は、ありったけの魔力を込めて破壊を試みた。
けれど天災と呼ばれ、魔術を極めたその後もまだ開くことのなかったのだ。
「あの手帳……。肌身離さず持っていたけれど、一度も開かなかったわ」
「あれは中身を読むものではない。魂をこの空間へ繋ぎ止めるための、鍵なのだから」
「じゃあ、パパも……! パパもここにいるのね!?」
会いたい。
最初は、ママを一人遺していったパパに対する怒りから。そして徐々に、ヴェリアルやユーティオティアスの尊敬する師匠として、ずっとその後ろ姿を追いかけ続けていた。
けれど必死の形相の私に、男は慈しむような、けれどどこか寂しげな笑みを浮かべて首を振った。
「アルカはいない。ここへ来ることが出来るのは、ラヴィアンジュの一族の中でも、真に女神の魂を継承した者のみだ」
「女神の魂……?どういう意味?」
「簡単に言うとね、君が女神の生まれ変わりってことだよ!」
三つ編みの女性が、祝福を贈るように、歌うような声色で言った。
「ここは創造主がルウェルのために作った、永遠の安らぎの地なんだ!長い一族の歴史でも、私たち五人だけがここを住処に出来るんだよ」
「さあ、ゆっくり休もう、シャーロット」
女神の生まれ変わり……?私が?
情報を処理できずに呆然としていると、奥に座っていた黒髪の男が立ち上がり、私の肩へ優しく手を置いた。
その掌からは、生身の人間とは違う、澄み切った静かな温もりが伝わってくる。
「ここではもう、争いも憎しみも存在しない。君を縛り、苦しめた呪縛はすべて消え失せた。見てごらん、動かなかった脚も元通りだ。祝杯のワルツでも踊ろうか」
言われて視線を落とすと、麻痺していたはずの脚が、今は確かな感覚を伴って土を捉えていた。
「全てが、終わってしまったのね……」
覚悟の末に選んだ、死という名の正解。
重荷を下ろした安堵はある。けれど胸の奥深く、ずしりと感じるおもりのようなこの寂しさは、一体何なのだろう?
何かに気が付きかけたけれど、ぶんぶんと頭を振って考えないことにした。
私の舞台はもうおしまい。
あとは平穏で幸せな日々を、この静かな場所で過ごしていこう。
双子たちは花畑で、見たこともない光り輝く花を編んで花冠を作っている。
あれは、なんという花なんだろう?
そう思って一歩踏み出したその時。
「おっと、シャーロット。残念だが、どうやら余計な邪魔が入ったみたいだ」
男が不意に眉を寄せ、天を仰いだ。
「邪魔……?」
「我々としては、君をこの安穏な世界へ迎え入れる準備は万端だったのだがね。……どうやら君の心臓にある『魔石』が、ようやく目覚めた真の主の魂に歓喜して、君を強引に元の世界へ引き戻そうとしているようだ」
「え、え……!? 引き戻すって、私はもう死んだんじゃ……」
足元から、凄まじい拍動が響いてくる。それは私の心臓が、私の意志を無視して「生」を叫んでいる音だった。
「ふむ、この強情な魔力と争うのは、我々でも骨が折れそうだ」
「ということで、シャーロット。延長戦に入ろうか! ここは娯楽が少なくて、みんな飽き飽きしていたところなんだ」
三つ編みの女性が、悪戯っぽくウィンクする。
視界が急激に白く染まり、先祖たちの姿が淡い光の中に溶けていく。
「えええっ! 待って、そんな勝手な――!」
最後に、男の穏やかな声が鼓膜を揺らした。
「行っておいで、シャーロット。……君の物語に、祝福を」
――――――世界が、急速に白く塗りつぶされていく。
目を覚ますと、感じるのは身体の怠さと熱さ。
確かに生きている、という感覚。
熱を出した私を心配してくれているのか、その額にはさっき変えたばかりの冷たいタオルが置かれていた。
静かに起き上がり、部屋に置かれた大きな姿見を見る。
梳かしてもすぐ撥ねる頑固なピンクブロンドはどこへやら。指の間をさらさらと滑り落ちる、真夜中の闇を溶かしたような漆黒のロングヘア。
そして、鏡の中にいたのは「私」であって「私」ではない少女だった。
世界中でただ一人、どこにいてもシャーロットだと知らしめていた宝石の瞳は、穏やかで甘い蜂蜜色に。
何より、硬いタコと傷跡だらけだった十八歳の戦士の身体が、もちもちとした真っ白な、十歳そこらの幼い少女の姿になっている。
「戻ってきちゃった……」
喉から出たのは、鈴を転がすような、あまりに可愛らしい声。
けれど、その背負った運命を理解した瞬間、私の血の気が引いた。
「よりによって……エセルリード卿の娘として、なの……?」
ああ、女神様。なんて悪趣味すぎる冗談。
「は、はは……あは……っ」
あまりの喜劇に、私は顔を覆って笑うしかなかった。
シャーロット編、おしまいになります。
次回からアデライン編、よろしくお願いします。
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