永遠に縛られる、君という存在に
完全に二つに割れた意見。
その中でも地上の生まれのものは、ヴェリアルに従おうとするのものが多かった。
手にした宝石を「力」として使うか、あるいは呪われた遺物として「破棄」するか。
単純に見えるその二択は、実際には多くの人間の人生と、この国の行く末を無情に左右する。
重苦しい沈黙と焦りが、霧のように革命軍全体を侵食していた。
ぽつ、ぽつ、と雨が窓を叩き始める。
あれをどうすべきか。それをぼうっと考えていると、雨音が聞こえる。
どこか遠くで子供たちの無邪気なはしゃぎ声が聞こえた。
世界の危機など預かり知らぬその響きが、かえって胸を締め付ける。
――――窓を閉めなくちゃ。
その時私は窓越しに、一人で温室へと消えていくヴェリアルの背中を見つけた。
あの日以来、彼は私と二人きりになるのを巧妙に避けている。拒絶というよりは、触れれば壊れてしまうものを遠ざけるような、痛々しいまでの慎重さで。
私の部屋のすぐ近くに小さな温室がある。
そこはミルヒオールが研究のために作った、雑多な薬草がひしめく実験場だ。私はその一角を借りて花を育てていたから、そこが今は誰の目にも触れない、秘密の場所だと知っていた。
話し合う機会は、今しかない。
私は飛行魔法を使い、窓から温室の前へと音もなく降り立った。
湿った土の香りと、濃密な緑の気配。
そこには、私が育てた薔薇を静かに見つめるヴェリアルの姿があった。
「……ベル」
呼びかけると、彼はわずかに肩を揺らして足を止めた。
彼の前には丹精込めて育て上げた真っ赤な薔薇が、燃えるような色彩で咲き誇っている。ヴェリアルはその花弁に細く白い指先で触れ、慈しむように、あるいは何かを諦めたように目を細めた。
「随分綺麗に育てたね、シャーロット。君に薔薇を愛でる才能があるなんて、今まで知らなかったよ」
「……特区では花は育たなかったでしょう。だから自分の手で育ててみたかったの。実際に咲いた姿は、思ったよりもずっと……」
私は言葉を切り、彼の横顔を見つめた。
「ずっと、綺麗だった……」
「そう。君が、綺麗だと心から思えるものに出会えて、本当によかった」
ヴェリアルの声は、雨音に溶けてしまいそうなほど穏やかだった。
けれど、薔薇を撫でていた彼の指先に、鋭い棘が深く突き刺さる。
白磁のような肌から、ぷつりと赤い血が滲んだ。彼はそれを痛がる様子もなく、ただ自分の指先に溢れた赤を、現実感のない眼差しで見つめていた。
「ベル、血が」
「……どうしてだろう。僕はただ、僕にとっての大切なものを守ろうとしているだけなのに。守ろうと手を伸ばすたびに、砂のように指の間から零れ落ちていくんだ」
血を拭おうと彼の手を取る。
独り言のような彼の空虚な言葉に私は胸を締め付けられながらも、意を決して告げた。
「ベル。貴方が支配による平和を選ぶなら、私は貴方を止める。それが叶わないのなら、私は革命軍を離れるわ」
「革命軍を離れる……?」
ふっと、彼の喉が小さく鳴った。
「そういう質の悪い冗談は、あまり好きじゃないな」
薔薇に視線を落としていたベルが、ゆっくりとこちらを向く。その微笑みは以前と変わらず穏やかで、春の陽だまりのように温かい。だからこそ、その裏に潜む本心が恐ろしかった。
「冗談じゃない。私は私なりに、魔術師が真に幸せになれる道を探すわ。その過程で、もし貴方と対立しなければならないのなら……それは避けては通れないことだと思う」
私は彼の瞳を真っ直ぐに見据え、最後通牒を突きつけた。
かつてのように、ただ背中を追いかけるだけの少女ではないのだ。
刹那、ベルの視線が微かに揺れた。完璧だった笑顔の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていく。
「ベル。選んで」
長い、永い沈黙が流れた。自分の心臓の鼓動が重苦しく秒針のように響く。その後、彼は小さく息を吸った。
「君は、僕を一人にしないと約束したね」
「……ええ。約束したわ」
「なら、君はその約束を違えるというの。……僕を見捨てるの」
低く、湿り気を帯びた声。縋るようなその響きに、心が激しく揺さぶられる。
「一人になんてしたくない。でも……私は、自分の正義を曲げることはできないの」
静かに、生温い風が庭園を吹き抜ける。
陽の光のささない暗闇の中、泥ににまみれて笑い合った幼い頃の面影。何も疑わず、ただ彼の隣が世界の全てだった日々。
積み上げてきた純粋な記憶が、今、修復不可能なほどにひび割れていく。
「最後にもう一度聞くわ。ヴェリアル・クレミア・ルーファス。貴方は古代兵器を使い……人間を蹂躙するつもりなの?」
フルネームで呼ばれた瞬間、彼の肩が微かに跳ねた。
一瞬の静寂。ベルの瞳から最後の一滴の光が、砂時計の最後の一粒が落ちるように、冷淡な虚無へと消えた。
「……僕も、僕の理想を曲げることはできない。たとえ、君に拒まれようとも」
「……そう。なら、お別れね。私たちの道はここで――」
「ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ」
言葉を最後まで紡ぐことはできなかった。
突如足元から力が抜け、膝から崩れ落ちる。
「っ、え……?な、に……」
状況が掴めない。
立ちあがろうにも、力が入らない。それどころ、腰から下の感覚が霧のように消えていく。
もはや自分のものとは呼べない脚が、身体には間違いなく存在しているはずのそれが、他人のもののように転がっている感覚。
「ごめんね。……シャーロット」
「ベル……何を、したの……?」
「痛くないだろう……?」
「何をしたと聞いているの‥‥‥!」
「君の脚の感覚を奪った。‥‥‥永遠に戻ることはない」
こつん、こつんと、静かな足音が近づいてくる。彼は私の前で優雅にかがみ込んだ。
逃げようにも、逃げられない。
俯こうとした顎を、長い指先がくい、と強引に押し上げた。逃がさないとばかりに固定され、強制的に彼の視線と絡め合わされる。
何も映さない、ガラス玉のような冷めた瞳の奥に、泥のようにどろりと濁った情念が見えた。
「……革命を完遂し、復讐を成し遂げる。魔術師たちは、
そのための優秀な『駒』だ。君はクイーン、ユーティオティアスはルーク。ミルヒオールも、ヴィクトリアも……盤上に並べられた、名前の付いた駒に過ぎない」
ベルが私の頬を、壊れ物を扱うような手つきで撫でる。その指先は氷のように冷たい。
「……君だって同じだ。だから、管理しなければいけない……」
言っている言葉自体は、あまりにも冷酷。
しかしその表情は――――――。
いつものお手本のような笑顔が剥がれ落ち、そこには無防備なほどの悲しみが滲んでいた。
切れ長の瞳から、熱い一筋の涙が頬を伝い、私の頬へと零れ落ちる。
長い付き合いの中で、彼が泣くのをみたのは2回目だ。
1回目は、太陽を取り戻した時。
そして2回目は、今。
駒だと言い切りながら、私を引き寄せ抱きしめる腕の力はあまりにも熱く、強い。
「やめて、ベル……そんな顔で見るのは……卑怯だよ」
――――――責められない。
今にも壊れてしまいそうな、この人を。
どんなに酷いことをされてもわたしはこの人を憎むことなんて、出来ない。
「どこにも行かないでくれ、シャーロット。君に憎まれても構わない。けれど……僕の側を離れることだけは、絶対に許さないから……」
それは魔術師の救世主としての命令ではなく、魂を切り売りするような、あまりにも小さく切実な祈りだった。
温室に立ち込める、噎せ返るような薔薇の香り。
ああ、この感情を絶望と、人は呼ぶのだ。




