ある美しき未亡人の誕生
重厚な静寂が、執務室へと続く長い廊下を支配していた。
2人とも一言も発さず、ただ足音だけが冷たい石床に反響する。重々しい扉が開かれた先、逆光の中にその男はいた。
地獄の解放者にして、帝国の呪われた皇子——ヴェリアル・クレミア・ルーファス。
彼は机に肘をつき、ただ一人で座っていた。
「共和国のお嬢さん、会うのは初めてだね」
低く、心地よい毒のように響く声だった。
ヴィクトリアは息を呑み、反射的にその場に跪こうとした。共和国で徹底的に叩き込まれた、高貴な者への礼法が体に染み付いている。
「ご機嫌麗しゅう……皇子殿下」
だが、彼女の膝が床に着く前に、ヴェリアルは優雅な仕草でそれを制した。
「もう殿下ではないよ。畏まらなくていい」
ヴェリアルは立ち上がり、ヴィクトリアの瞳を真っ直ぐに見据えた。その眼差しは、慈愛に満ちているようでいて、同時に抗えぬ運命を宣告する死神の鋭さを孕んでいた。
「単刀直入に言おう。リットン辺境伯を廃し、君が『ヴィクトリア・リットン』として、このエルステラの自治権を握ってほしい」
ヴェリアルから告げられたそれは、ヴィクトリアにとってはあまりに唐突で、あまりに過酷な要求だっただろう。彼女は目を見開き、震える唇で静かに声を発した。
「ヴェリアル様……それを、私の婚約者が許すとは思えません。彼は、彼の後ろにはて、帝国が……ついています。魔術師の皆様を、管理しようと……帝国が、共和国が……」
「彼らに許しを乞う必要はない」
ヴェリアルは一歩、彼女との距離を詰めた。部屋の温度がわずかに下がったかのような錯覚を覚える。
「邪魔な障害を排除する『手段』が既にあると言えば、君はどうする?」
「私は……ただの、無力な人間です。皆様のように、奇跡を起こす力を持たない。そのような地位、私にはあまりに過分ですわ」
ヴィクトリアは自身の震える手をごまかすように、ドレスの裾を強く、指先が白くなるまで握りしめた。
「排除」という言葉に込められた血の匂いを、彼女の聡明さが察知している。私はその横顔を見て、たまらず口を開いた。
「ヴィクトリア」
私の声に、彼女がびくりと肩を揺らす。ただでさえ白い顔が、もはや血の気が失せて真っ白になっている。
可哀想なヴィクトリア。
けれど、けれど――――貴女しかいないのだ。
「私は、貴女がいいと思った。貴女しか、いないって」
「わ、私が……? 私なんて、誰かの指示がなければ何も出来ない……」
「いいえ。貴女は、誰かのために涙を流せる人。見返りもなく、誰かに愛情を分ける事が出来る人……」
昨日の彼女の振る舞いを思い出す。
泥だらけの子供を、なんの躊躇いもなく抱きしめる。
この腐った世界で、彼女はほんの一握りの善人だ。
「私はそんな貴女と一緒に、この国を豊かにしたい」
沈黙が部屋を埋め尽くす。
ヴィクトリアは俯き、自分の内側にある葛藤と向き合っていた。裏切り、策略、そして責任。それらすべてが、彼女の華奢な背中にのしかかろうとしている。
やがて、ゆっくりと顔を上げた彼女の表情は、どこか神々しく、悲壮なまでに美しかった。
「やっぱり、私には過分な地位です……」
ヴィクトリアの瞳に微かな、しかし消えない火が灯る。
「けれど……もし、こんな私でも誰かの力になれるというのであれば。この短い命、そのすべてを捧げたいと思います」
ヴェリアルは満足げに、そして慈しむように、深い笑みを湛えた。
「ヴィクトリア。君は、自分が思っているよりずっと強い」
彼は騎士のごとく恭しく手を差し伸べた。
「歓迎しよう。まもなく産声を上げる、新生エルステラへ」
――――――数日後の夜。エルステラの革命軍本部は、不気味なほど静まり返っていた。
ヴィクトリアの婚約者、リットン辺境伯は寝室で荒い息をついていた。数日前まで強健を誇っていた男の体は、原因不明の衰弱によって、見る影もなく細り果てていた。
「ヴィ、ヴィクトリア……医者はなんと……?」
「旅のお疲れとのことですわ」
リットンが掠れた声で助けを求める。
ヴィクトリアの声は、深海のように凪いでいた。彼女は毎晩、献身的に看病を続け、そして今も枕元に静かに座っている。その手には、自ら用意した婚姻証明書を携えて。
「こんな……汚い土地になど……来たのが……間違いだった……」
リットンが悪態をつく。ヴィクトリアは表情を変えず、冷たい指先で彼の頬を撫でた。
「リチャード様。お願いがありますの……。今、此処で私を貴方の妻にして、名前を授けていただけませんか。尊いリットン家の名を‥……」
「……なぜ、それほど、急ぐ?」
「貴方の妻になり、本当の意味で力になりたいのです。貴方の名があれば、私はもっと自由に動けますから」
「………ふ、献身的だな。貴様のような女を連れてきたことだけが、唯一の正解だったか」
死の淵にある男は、それが自分の墓標に刻む名前になるとも知らず、震える手で書類にサインを記した。
「これで貴方の妻になれましたね。……ヴィクトリア・リットンとして」
「ああ……ヴィクトリア、やけに喉が、乾く……水を……」
彼女が差し出した杯の水を、リットンは貪るように飲み干した。その直後、彼の目が異様に大きく見開かれる。
「……が、はっ……な、何を……入れた……!」
喉を掻きむしり、リットンが悶絶する。その手から杯が転がり落ち、厚い絨毯の上に鈍い音を立てて転がった。ヴィクトリアはそれを、冷めた瞳で見つめていた。
「毒ではありません。これはヴェリアル様が仰る『手段』……ねえリチャード様。私達人間の嫌う魔力というものは、皮肉にも私達の身体の中にも存在しているそうですよ。ただ、気がつけないだけで……」
「ま……さか、そんなはずは……ぐあぁっ!」
「貴方が今飲んだのはただの魔力増幅剤です。……先日から少しずつ、お食事に混ぜてましたの。魔力を体内で暴走させ、己の生命力を糧に焼き尽くす……可哀想に。魔術師にとってのただの栄養剤が、毒になってしまうなんて」
「お、のれ……裏切り、おったな……この、魔術師まがいの人形、風情が……!」
リットンの顔が土気色に変色し、血管が浮き出る。彼は最後の力を振り絞ってヴィクトリアの首に手を伸ばそうとしたが、その指先が彼女に触れる前に、すべての力が失われた。
「私は、もう人形ではありませんわ。……うふふ、シャーロットが、私を仲間にしてくれたんです……!私に、戦う理由をくれたんです……」
恋をした少女のように、愛らしい微笑み。
ヴィクトリアは立ち上がり、事切れた男の瞼を、指先で優しく閉じてやった。その動作はあまりに慈愛に満ちており、同時に、もはや取り返しのつかない無機質さを帯びていた。
「ありがとう、リチャード様。私をこの地に連れてきてくれて…………」
革命軍は、この夜を境に「リットン辺境伯夫人」の継承を大義名分として掲げ、正式に自治領エルステラの建国を宣言した。
数日後、帝国の新聞に踊る「悲劇の未亡人」という見出しの裏で、血塗られた女神が誕生したことを知るのは、私と、玉座に座る男だけだった。




