天才ワンコとの出会い
庭の境界線を越えて、久しぶりに外の世界の空気に触れたあの日。
大事故の日以来、閉ざされていた私の世界が、音を立ててこじ開けられた。
「なに、これ…………」
開いた口が塞がらなかった。
肺に流れ込む空気はひどく冷たく、湿った煤と埃の臭いが混じっている。
視界に飛び込んできたのは、月日が流れてもなお、死の静寂を纏ったままの廃墟の町だった。崩れた煉瓦、焼け焦げた梁、主を失った生活の残骸。
隣に立つベルの声は平坦だったが、その言葉の端々には、彼がたった一人でこの地獄を這いずり、片付けてきた血の滲むような軌跡が透けて見えた。
「……ベル。ここを、貴方が一人で……?」
「一人ではないよ」
その言葉を証明するかのように、廃墟の影からフードを深く被った魔術師たちが次々と姿を現し、こちらへと走り寄ってきた。
一人ではない。ここには、夥しい数の魔術師たちが息を潜めて動いているのだ。
「閣下、お戻りになられましたか」
ヴェリアルは一歩退き、呆然と立ち尽くす私の背を、魔術師たちの方へ優しく、けれど拒絶を許さぬ強さで押し出した。
「紹介しよう。地獄に落とされ、光を奪われた……罪なき同胞たちだ」
魔術師たちの視線が一斉に私に突き刺さる。その瞳に宿るのは、ただの歓迎ではない。狂信に近い、どろりとした熱量だった。
「……女神、さま……?」
「生きて……本当にお姿を現してくださったのか……!」
彼らがボロ布のような服を揺らし、次々と膝をついて祈るように手を組む。その異様な光景に、私は本能的な恐怖を覚えた。
「同胞よ、よく見るといい。彼女こそが我々の『最後の希望』。最後のラヴィアンジュの末裔だ」
一人の老魔術師が、震える手で私のドレスの裾を掴もうとして、問いかける。
「宝石眼のお嬢様。……貴女のお名前を、なんとおっしゃるのですか? 私たちの救いとなる、その御名を……!」
「わ、私……?」
喉が焼け付くように乾き、声が震える。背後からヴェリアルの静かな、逃さないと言わんばかりの視線が刺さるのを感じた。
「シャーロット……。あ、……シャーロット・ラヴィアンジュです」
「シャーロット・ラヴィアンジュ様……! ああ、神よ! 生きていてくださったことに、心よりの感謝を!」
「魔術師はまだ、死に絶えてはいない! 武器を取れ! 再びあの太陽の下へ、我らの居場所を取り戻すのだ!」
沸き起こる地鳴りのような歓声。それは希望の歌というより、復讐の産声に近い響きを持っていた。熱狂する彼らを前に、私は救いを求めるように隣の男を見上げた。
「ベル、あの……これは……どういうことなの?」
ヴェリアルは私の肩に、体温を感じさせない冷たい手を置き、穏やかな声で告げた。
「ラヴィアンジュがどういうものか、わかったろう?声をかけてあげるといい、シャーロット。これがその名を持って生まれた君の――逃れられぬ責務だ」
かつて祈りの声に満ちていた大聖堂。その崩壊した跡地に拠点を構えた「革命軍」は、死に体だったこの町を、異様な熱気とともに作り変え始めていた。
その中枢で働き、ヴェリアルの傍に侍るようになって初めて、私は彼が背負っている仕事の、途方もない巨大さに気づかされた。
それは単なる復興ではない。……文字通りの、世界の塗り替え――「革命」だった。
ぬかるみのようなスラムを整理し、虐げられていた魔術師たちを拾い上げ、読み書きから教えて戦力へと変える。そしてこの閉ざされた世界を覆う「天井」を打ち破るための、より強固で苛烈な術式の研究。
それら全てを、十五歳の彼はたった一人で指揮していた。
魔術の深淵において、彼と肩を並べられる者はこの大陸に誰一人としていないだろう。老練な魔術師たちが、孫のような年の少年に神を仰ぐような敬意を込めて深く頭を下げる。その光景は、歪で、ひどく美しかった。
そうして走り続けた私たちは、あっという間に「決行の日」を目前に控えていた。
忙しさの合間をぬって私は五番街へと足を向ける。
一年にも満たない短い期間だったけれど、私を救ってくれた大切な場所。
無意識に、キキの面影を探していた。
けれど、どれだけ目を凝らしても、そこにあるのは焼け焦げた石壁と、堆く積み上げられた瓦礫の山だけだ。思い出さえも煤にまみれ、灰の中に埋もれてしまったかのように。
私は店と店の隙間、人目に付かない暗い路地裏に腰を下ろした。
冷たい壁の感触が、絹のドレス越しに伝わってくる。
「……光の国、エルステラ」
数日前のベルの言葉を反芻する。
彼が見せようとしている「光」は、あまりに眩しい。
不当に奪われてきた私たちに、ベルは地上を、太陽を与えようとしている。
けれど、そのあまりの希望の重さに、何故だか私は救いを見出すどころか正体不明の恐怖に突き動かされるように感じて、一人膝を抱え込んだ。
その時だった。
目の前を、小さな影が疾風のごとく横切った。
「わ……っ、びっくりした!」
とっさに身をすくめる。
そこに立っていたのは、ボロボロに擦り切れた服を纏った、一人の少年だった。汚れにまみれたその手には、今しがた通行人の懐から掠め取ったであろう、ずっしりと重そうな革財布が握られている。
私は、驚きよりも先に、その「手法」に知的好奇心を刺激された。
「……今の、魔術でスったの? 転移術かしら。だとしたら凄く高度な無詠唱ね。……あ、なるほど。代償をその辺の石に置き換えたのね? 一瞬でどうやってその式を組み上げたのか、詳しく話を聞かせてほしいわ」
少年の目が驚愕に見開かれる。
くるくるとした癖のある黒髪の間から覗く、血のように赤い瞳が、私を警戒するように射抜いた。野良犬のような、鋭く、飢えた目。
少年は弾かれたように踵を返し、逃げ出そうとする。
「待って!」
私はとっさに駆け出した。重いドレスを振り乱し、必死に脚を動かして、細い路地の行き止まりで彼の細い腕を掴んだ。
「あー……もー、降参! ごめんねぇ、財布は返すからさ。だから、その手を離してくれないかなぁ」
少年はヘラヘラと笑ってみせるが、腕は強張っている。
「待って、怒ってないわ。治安維持隊を呼ぶ気もない。ただ、さっきの『式』を教えてほしいの。……こういう構成で発動させたんでしょう?」
私は彼の手を離すと、地面の煤けた石畳に指で簡単な術式を描いて見せた。少年はそれを見て、ポカンと口を開ける。
「……式ィ? なぁに、その落書き」
「知らないの? じゃあ、君はどうやって今の魔術を行使しているのよ」
「んー……わかんね。なんかこう、グイッとしてパッとやるだけぇ」
センスだけで、あの精密な転移術を……?
私は戦慄した。体系的な教育も受けず、膨大な魔力量と純粋なイメージだけで世界を歪めている。
彼は天才だ。ベルとはまた違う、野生の規格外。
「君……スラムの子ね。何番街?」
「七。……ゴミ捨て場の横」
「近いわね。ねえ、私がいる大聖堂で、身寄りのない子供たちに魔術の基礎を教えているの。良かったら、皆で来て。三食昼寝付き、雨風を凌げる丈夫な屋根もあるわ。悪くないでしょう?」
少年の赤い瞳が、侮蔑を込めて細められた。
「……あんた。綺麗な格好してるけどぉ、俺たちを拾ってペットにでもしたいわけ? 善人気取りってホント悪趣味〜」
「友達になりたいの。待ってるわね、少年。気が向いたら、いつでも」
「気が向いたらねぇ。ま、絶対向かないと思うけど!」
少年は毒づいて走り去っていった。その背中を見送りながら、私は自分の胸の高鳴りを感じていた。
それから数日後。特区でも歴史的な寒波が街を襲った次の日。
大聖堂の、ひび割れた石柱の陰に、あの黒髪の少年が立っているのを見つけた。
「やあ、元気? 本当に来てくれたのね」
「…………」
少年は相変わらず無気力な瞳で、私を見つめてくる。
私は彼に近づき、大聖堂の現状を憂うように肩をすくめた。
「まだまだスラムは無くならないわね。圧倒的に、子供たちのケアが間に合ってないわ」
「……別に、俺たちが野垂れ死んでも困るやつなんていないし。ケアなんて必要ないでしょ〜、お姫様」
少年は笑顔のまま吐き捨てた。その声には、大人たちに利用され、裏切られてきた深い信用の欠如が滲んでいる。
「私は五番街のスラム出身の、ただの魔術師よ。お姫様じゃないわ。……ほら、足元を見て」
わたしは冷たい石段に彼の隣に座り、地面を指でなぞった。
「魔術っていうのはね、『意志』と『魔力』、そして正確な『計算式』を組み合わせて発動させるものなの。計算は得意?」
「……やったことないなぁ。せっかく書いてくれたけど、俺、文字も読めないし」
「なら、君はやっぱり天才ね!独学で、計算式無しに、魔力量だけで術を成立させているんだもの。もし君が正しく魔術を学んで、式を自在に操れるようになったら、世界をひっくり返す王様にだってなれちゃうかも」
少年の瞳に、微かな、けれど確かな光が宿った。それは飢えとは違う、知的好奇心という名の光。
「そっち側になったら、ホントに飯が食えんの……?」
「ええ、もちろん。ちゃんとお給料も出すわ。お腹いっぱい食べて、好きな服を着て、誰にも怯えずに暮らせる。私がそれを保証する」
「寒くて死ぬような思いもしないですむ?ダチが死んでも黙ってみているしか出来ないような、そんな思いも……」
「……そうならないように、私は全力を尽くす」
私は少年の真っ直ぐな瞳を見つめ、静かに、けれど強く告げた。この歪な世界を変えるための、私の、ベルとは違う本心を。
「私ね、最初は自分のためだけに魔術を使ってきたの。生き残るために。でも、この特区で苦しむ仲間たちを見ていると……皆が笑顔でいられる『居場所』を作りたいって、そう思ったの。だから、その苦しさを知っていて、誰よりも強い才能を持っている君に、手伝ってほしい。一緒にやろうよ、少年」
少年はしばらく黙り込んでいた。赤い瞳が揺れ、葛藤しているのがわかる。やがて、彼は蚊の鳴くような声で口を開いた。
「……ミルヒオール」
「え?」
「名前だよぉ。ミルヒオール。……ミルヒでいいよ」
彼は照れくさそうに、顔を背けながら呟いた。
「いい名前ね。よろしく、ミルヒ。私はシャーロット」
「……ロティ」
血塗られた革命への道。
けれどその歴史の裏側で、新しい光が小さく、けれど力強く灯ったような気がした。




