雪降る夜の一幕
「まさか、久しぶりに帰ってきたかと思えば、いきなり『女神の祝福』を浴びせられるなんてね」
頭上から降ってきたのは、聞き慣れた、けれどどこか浮世離れした優しい声。
顔を上げると、そこには漆黒の傘を差したヴェリアルが立っていた。雪の白さと、彼の纏う闇のような外套が、夜の闇の中で鮮やかなコントラストを描く。
「ベリアル……!」
「やあ、シャーロット。あまりご機嫌は麗しくなさそうだね」
彼は雪の中に佇む私を見下ろし、慈しむようでもあり、突き放すようでもある複雑な色で目を細めた。私は縋るような思いで、喉の奥に詰まっていた言葉を吐き出す。
「私……魔術が、使えないの。どうしても、何も起きないの」
「そのようだね。今君が口にした『女神の祝福』ですら、周囲の魔素ひとつ揺らしていない」
「女神の祝福……?」
「ああ。君の家名――ラヴィアンジュを冠する呪文のことだよ。本来、女神の末裔がその名を正しく口にすれば、世界は歓喜し、自然界の魔素がこぞって力を貸そうとする。限界を超えた奇跡を引き起こすための、君だけの特権だ」
「……私、本当は女神の末裔なんかじゃないのかも。だって、見ての通りよ。火種ひとつ点けられないもの」
情けない。
情けなさすぎて、視界がじわりと滲んだ。
「泣かれるのは苦手なんだ……」
困ったように眉を寄せ、ヴェリアルは私の方へ一歩踏み出すと、静かに傘を差し出した。
「いいよ、別に。最悪、君が魔術を使えなくても、僕の革命は失敗しない。君一人の有無で成否が左右されるほど、僕の計画は脆くない」
「……」
「君はただ、そこにいるだけでいい。地上で皆殺しにされたはずの『ラヴィアンジュ』の生き残り。その存在そのものが旗印となり、虐げられた魔術師たちの士気を跳ね上げるんだから」
「……そんなの嫌」
私は顔を上げ、彼を真っ向から睨みつけた。ただの象徴として、守られるだけの置物で終わるなんて耐えられない。
「足手まといになるのは、絶対に嫌なの」
「できないと弱音を吐いたり、嫌だと強がったり……困ったお姫様だな、アルカの娘は」
ヴェリアルがふっと口角を上げた。試すような、深い闇色の瞳が私を射抜く。
「……この励ましは嫌だった?それなら、どうする?」
「やるわよ。……できるようになるまで、何度だって。泥を啜ってでも、魔法を私の手に取り戻してみせる」
ぐい、と手の甲で涙を拭い、私は彼を見据えた。
俯いていた顔を上げた私の瞳――父譲りの「宝石瞳」が、雪明かりを反射して強く、鋭く輝く。
その瞬間、ヴェリアルは微かに肩を震わせた。
(――美しいな)
剥き出しの意志を宿した、その負けず嫌いな笑顔。
かつて師と仰いだ男の面影か、あるいは彼女自身の魂が光か。
彼は初めて、目の前の少女が放つ眩しさに、抗うように目を細めた。
「……なら、少し手伝おうか」
降参だ、と言わんばかりにヴェリアルが苦笑を漏らす。
「ヴェリアルは寝て! 全然帰ってこられていないんでしょ。顔色が真っ白よ」
「子供が変な気を使わない」
「子供って言ったって、そんなに変わらないじゃない。背だって、ほら、私と同じくらいよ!」
私がムキになって背伸びをし、彼に詰め寄る。雨傘の円の中で、二人の距離が急激に縮まった。
ヴェリアルは、至近距離で見つめてくる私の瞳にたじろぎ、ふいと気まずそうに視線を逸らした。
「年だって、分からないけれど本当はベリアルよりも上かもしれないでしょ?」
「……年下だよ。君は僕の二つ下、十三歳。母譲りの桃色の髪に、父譲りの宝石瞳を持つ、小さな女の子だ」
いつになく慈しむような、熱を帯びたその声。耳元で囁かれた言葉に、私の鼓動が不意に跳ね上がる。
「その特徴だけを頼りに、僕は君をずっと探していた。アルカが……君の父親が死んだあの日から、ずっと」
「……ヴェリアルは、なんでそこまでして革命がしたいの?」
私の問いに、彼は一瞬だけ、雪の向こうにある暗い空を見上げた。
「そうだね……もしかしたら、君に太陽を見せたいのかもしれない」
「私……?」
「アルカは、魔術師が平穏に生きられるよう、その人生の全てを捧げていた。それなのに帝国は彼を殺した。ただ『ラヴィアンジュの末裔』だという、彼自身にはどうしようもない理由だけでね。……だから僕は、君を本物の太陽の下へ連れ出すことで、帝国に『ざまあみろ』と言ってやりたいのかもしれない」
ヴェリアルの言葉の端々には、亡き父への、消えることのない深い敬愛と、やり場のない憤りが滲んでいた。
彼もまた、父の魔法に救われ、その光を失った痛みを抱えて生きる一人なのだと、初めて知った気がした。
「ヴェリアルもティティも、本当にパパが大好きなのね」
ふふ、と私が笑うと、ヴェリアルは虚を突かれたように一瞬だけ言葉を詰まらせた。
「ティティ……? ああ、ユーティオティアスのことか。あの石像みたいに無愛想な男が、よくそんな締まりのない愛称を許したね。君とはよほど仲良くなったらしい」
「無理やり呼んでるの。そうだ、ベリアルにも新しい名前をつけましょう!もっと仲良くなりたいもの。ええと……ヴェリアル、ヴェアル……ベル! ベルはどう?」
「ふふ、ベル、か。反逆者がそんな可愛らしい名で呼ばれるなんて、帝国が聞いたら腰を抜かすだろうけれど」
彼は可笑しそうに肩を揺らした。その横顔は、冷徹な指導者の仮面が剥がれ、年相応の少年のように見えた。
「ベル。私、今はまだ何もできないけど……絶対にキキを助けたい。それに、ベルにも、ティティにも、笑顔になってほしいの」
「僕も、笑えと言うのかい?」
意外そうな問いかけに、私は強く頷いた。
「ええ、笑ってほしい。心から楽しくて、幸せで……。今はまだ、この地下の牢獄みたいな場所じゃ難しいかもしれない。でも、いつか必ず、本物の太陽の下で」
私の真っ直ぐな言葉と視線に、ベルは完全に虚を突かれたような顔をした。やがて、彼は降参したようにふっと目を伏せ、静かに、けれど確かな温もりを込めて微笑んだ。
「君には敵わないな。‥‥‥少々、荒療治にはなるけれど。シャーロット、呪文を」
「?……ええ。ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ!」
私がいつものように、縋るような思いで呪文を唱えた瞬間だった。
視界が、爆発的な紅蓮に染まった。あろうことか、ベルの身体が激しい炎に包まれたのだ。
「な……っ!?」
あまりの光景に、思考が真っ白に塗り潰される。
ベルが、燃えている。私の放った未熟な魔力が、彼を焼き尽くそうとしている。
「だめ! 止まって! ジュ・アテ・フィン・フィンドラーレ……っ!」
焦燥で心臓が握り潰されそうだった。喉がちぎれるほどに、必死で叫ぶ。けれど炎は勢いを増し、夜の闇を赤々と照らし出す。
「ル・ヴェルディ・ラヴィアンジュ! 女神様、お願い、ベルを助けて……!」
無我夢中で、家名を冠したあの「祝福」を叫んだ。
その瞬間、猛り狂っていた炎が、嘘のように霧散した。雪の舞う静寂が戻り、パチパチと爆ぜる音だけが耳に残る。
「……上手くいったね。死の恐怖をトリガーにして、君が眠らせていた魔力回路を無理やりこじ開けた。上出来だ」
ベルは煤ひとつついていない、涼しい顔でそこに立っていた。
「ば……馬鹿! 馬鹿、馬鹿! なんてことするのよ……っ!!」
緊張の糸が切れ、私はその場にへたり込んだ。腰が抜けて立ち上がれない。止めていた涙が、堰を切ったように溢れ出した。
「泣かれるのは苦手だと言ったのに……」
「死ぬかと思った……! お願い、ベルまでいなくならないで。絶対、絶対、百歳になっても千歳になっても生きててよ!」
「はは、千歳か。魔術師の寿命的には、せいぜい二百歳といったところかな。……君はアルカに似てお人好しだからね。僕の命が危ないと思えば、火事場の馬鹿力で魔術回路を繋ぐんじゃないかと思ったんだ。驚かせたのは悪かったよ」
「驚かせたどころじゃないわよ! 自分をもっと大事にしてって言ってるの!」
私がわんわんと泣きじゃくると、ベルは不思議そうな、それでいてどこか嬉しそうな顔をした。
「君は……僕が傷ついたら、そんなに悲しいの?」
「当たり前でしょ! だから泣いてるんでしょ、ベルの馬鹿! なんで笑ってるのよ!」
「いや……そうか。君は、僕のために泣いてくれるのか。ふふ、そうか……」
ベルは今度こそ、仮面を脱ぎ捨てた少年のような、満足げな微笑みを浮かべた。その笑顔は、雪明かりの中でどんな魔法よりも眩しく見えた。
「さあ、部屋に戻ろう。もうここに用はないだろう?」
「ベルは……ちゃんと休める?」
「ああ、休めるよ。君が見事、僕の命を救ってくれたおかげでね」
「もう、本当にびっくりしたんだから……二度としないで」
「約束しよう」
雪の降る夜。私は彼の差し出す傘の下、自分の手のひらに宿る微かな熱――かつてママが教えてくれた、あの温かな魔法の感触を、再び感じていた。
――その夜から、私は走り続けた。
魔術師として力を蓄え、そして気がつけば2年の月日が流れていた。




