50話 元婚約者
エドガーがその場からいなくなった後。執事の代わりに伯爵夫人の部屋まで『僕が案内をする』と言い出したジョナサン。
気まずい空気の中、私は元婚約者にエスコートされて伯爵夫人の部屋がある二階へ向かう中央階段をゆっくりと上がった。
ジョナサンも私も無言だったから。一歩足を進めるごとにシュルッ、シュルッ、と私が着る花嫁衣裳の衣擦れの音がやけに大きく聞こえた。
「……」
(ジョナサンのことだから。……きっとエドガーと結婚した私に、何か文句を言いたいのかも知れない。良いわ、聞いてあげる。でも、今までのようにあなたの嫌味や侮辱を、黙って受け入れたりしないから!)
今までは良好な関係を築きたくて、プライドの高いジョナサンに侮辱されても、なるべく黙っているようにした。でも今の私はエドガーの妻だから、侮辱を許す気は無い。
花嫁の長いベールを外し、顔をさらした私はキリッと表情を引き締めた。
階段を上がってすぐのところで、ジョナサンが私からエスコートの手を放して口を開いた。
「お前……兄上を愛しているのか?」
私は即答した。
「ええ、愛しているわ」
(元婚約者のあなたを気づかって、私の気持ちを隠すつもりはない。妻になった今ならエドガーを愛していると堂々と言えるわ)
「白々しい嘘はやめろ! 兄上が結婚すると伯爵邸に連絡をよこした時。僕はお前が男爵家から逃げ出したくて、兄上を利用しようと求婚を受け入れたとすぐに分かったぞ!」
「何を言っているの? むしろあなたとの婚約こそ、エドガーへの気持ちを殺して家のために受け入れたのよ」
「嘘だ! お前が愛しているのは、裕福な伯爵家の領地と伯爵夫人の立場だろう? お前はまともに人間を愛せるような、可愛い女ではないと僕は昔から知っている! 兄上を利用しているだけだ!」
前日、私への暴言に腹を立てた兄のエドガーに殴られたことを、ジョナサンは少しも懲りていないらしい。醜く腫れた痣だらけの顔に、ジョナサンはグルグルと包帯を巻いている。そんな姿になった原因の過ちを再び繰り返そうとしているのだ。
(どこまでも愚鈍な人だわ。エドガーという有能で完璧な人のことを知った後では、こんな人と一生を共にするなんて。……やっぱり私には耐えられなかったでしょうね)
そんなジョナサンを、私はフッと鼻で笑った。
「自分の幸せだけを追い求めて、今まで好きなように生きて来たあなたに……私の何が分かるの? 私を理解しようとしたことなんて、一度も無いくせに。なぜ、あなたが私のことを語れるの?」
「ほら見ろ!本性を出したな。……兄上を誑かしたお前のような詐欺師は、ファゼリー伯爵夫人に相応しくない! 今なら婚姻を無効に出来るかもしれない! 兄上に結婚はやめると言え!」
カッと腹を立てたジョナサンは私の手首を乱暴に掴み、怒鳴り声をあげた。
「そういうあなたは、ファゼリー伯爵家に相応しい息子だったの? あなたが学園を卒業しても、先代伯爵が亡くなるまで伯爵領へ帰って来なかったのは……王都で未亡人に夢中になって、愛人のようなことをして遊んでいたからでしょう?」
ジョナサンは学園を卒業後。王都で二年もの間、遊んで暮らしていた。未亡人との付き合いはジョナサンが学園生時代から続いていたらしい。
「なっ……!」
「田舎に住んでいても、あなたのことは知っていたのよ。地元の女学院で友達になった娘が、王都で暮らす貴族に嫁いで。あなたと同じ時期に学園生だった友人の夫から、あなたの悪い話を聞いたと。心配して手紙で知らせてくれたから!」
(私はそれまで、何も知らなかった。だから……私を心配する友人に、ジョナサンの代わりに『彼なら大丈夫』と弁解するのがどれだけ恥かしかったか)
「お……お前…っ…!」
動揺したジョナサンは、掴んでいた私の手首を放して後ずさる。
「安心して、アリアーヌには黙っていてあげる。あの子を不安にさせたくないから……でも、お父様は全部知っているわ!」
(時々、王都へ行っていたお父様も、お母様もジョナサンの愚行を知っていたわ)
それほどジョナサンが遊びまわっていたことは、王都の社交界で有名になっていたのだ。
『独身の男性は、経験を積むためによくあることよ? 結婚すれば落ち着くはずだから……見守ってあげなさい』
――と私はお母様に何度もなだめられ、慰められた。
「……だからお前はずっと僕をバカにしていたのか⁉」
「何を言っているの、あなたは」
「お前が僕をバカにしていたのは、それが理由なんだろう?」
王都で浮気相手の未亡人に、先に捨てられたのはジョナサンの方だった。それが余程悔しかったのだろう。だから私に見当違いな八つ当たりをしているのだ。
――だが、この時の私は知らなかったけど。後になってエドガーから聞いた話はもっと衝撃的だった。
ジョナサンはまだ気づいていないが。当時エドガーがジョナサンと愛人関係にあった未亡人と裏で交渉して、良い結婚相手を紹介することを条件に縁を切らせていた。
つまりエドガーがジョナサンの尻拭いをしていたのだ。
エドガーがそうしなければ、恐らくジョナサンは遊び惚けて、十年経っても地元に戻って来なかっただろうと。




