第1話 開戦前に一荒れ
夏である一方で、まだ肌寒さも感じる蛍が丘の朝5時半。日曜日であり普通に部活をやっている生徒にしても、学校に来るのは少々早すぎる時間帯ではあるが、蛍が丘高校のグラウンドには既に人影が見えていた。
テニス部が壁打ちに使う、高さ3メートル程度のコンクリートの壁。そこに書かれた的へ、キャッチボール感覚でボールを投げ込む。そうして5分くらい経ったあたりだろうか。ふと別の人影が見える。視線を合わせる2人。
やってきた彼女は無言でグローブを取り出し左手に付けると、壁当てをしていた彼へと向ける。すると、その意味を察した彼は、彼女とキャッチボールを始める。
「なぁ、楓音。何かあった?」
「へ?」
共に野球人。1投は時に100の言葉にも勝ることがある。それも、ただでさえ勘の鋭い最上にしてみれば、まるで話をしているかのように分かるのではなかろうか。
「べ、別に、なんでもないよ」
「そっか。ならいいけど」
そうは言う楓音だが、やはりどことなく違和感を覚える素振り。それも敏感な人に分かる程度ではあるが、最上の不安は徐々に大きくなっていく。
「ねぇ、最上くん」
硬式球でのキャッチボールと同時に、言葉でもキャッチボール。それぞれの言葉は、包み隠さず全力投球のストレート。
「恋心って苦しいよね」
「どうした。唐突に」
「思い人が遠くにいれば、手が出せなくて苦しい。けど、近くにいても、手が出せないとまた苦しい。って話」
「楓音?」
下に短パンを履いているとはいえ、制服スカート姿。にも関わらず、彼女はしっかりと足を上げ、そこから全力投球でボールを返した。
「うぅぅ、昨日見たドラマがなんだかすごく私みたいでぇぇぇぇ」
「あぁ……アレか」
深い話だと思っていたが、恐ろしく納得。9時くらいまでは野球中継を見ていた最上だが、それ以降は野球中継が終わってやることがなし。寝ようと思ったが、寝付けず。そこで丁度やっていた青春ドラマを見たのだが、そのドラマの主人公の恋事情が楓音に似ていた。と言うことである。
「ほんと辛いよね。女子マネージャーと男子部員の恋って本当に」
「因みにアレ、母さんが原作小説持ってるから結末知ってるんだけど……」
「あ~。聞こえない、聞こえない。言わないで」
「はいはい」
優しく微笑みながら、投げられたボールを受け、さらに軽く投げ返す。
「まぁ、あのドラマの結末は言わないけど、楓音は後悔が無いようにな。叶わない恋、それも当たって砕けたならともかく、砕けることすらできなかった恋はもっと辛いぞ」
「うん。でも、今はさすがに……」
「ははは。楓音にもあのドラマの主人公ばりの思いっきりがあれば――」
「え?」
「あ……」
「えっと……それって、そう言う事だよね」
「えぇ、立場上の理由から、明言は、控えさせていただきたいと、思います。はい」
ドラマの結果。女子マネージャー。恋愛御法度の暗黙の了解を無視し、しれっと男子部員に告白する。それを最上はストレートでは無いものの、変化球気味に言ってしまった。
「なんで言うのぉぉぉ。今後の展開を楽しみにしてたのにぃぃ」
「いや、言ってないじゃん。楓音が勝手に勘ぐっただけじゃん」
その変化球を打ち返せなかったらよかったのだが、器用に理解してセンター返ししてしまった楓音。期待もへったくれもない。
「うあぁぁぁ、最上くんのバカぁぁぁぁぁ」
「なんて理不尽な」
世の中には理不尽な暴力系ヒロインと言うものもいるのだが、楓音も存外、理不尽思考なところがあるようだ。
「おいおい。What's happen?」
「そうそう。ファッツヘブン?」
「What's happen? な。それ、日本語だと『天国は何?』って宗教的な話になるから」
最上との会話に集中していて気付かなかった楓音。その声に驚いて振り返ると、そこには春馬と近江の2人組。
「ひゃわっ。あっ、その、しゅ、春馬くん。おはよう」
「おはよう」
心の準備もしてなかったため、ほんのり顔を赤らめ、滑舌もあまりよくないままに春馬へとあいさつ。
「かの~ん。おはよう」
「近江ちゃんもおはよう」
一方で近江へは、落ち着いた口調であいさつ。
「最上。他のメンバーはまだか?」
「因幡が飲み物忘れたって言って、一回帰宅。他はまだ。そりゃあ、まだちょっと早いからなぁ。来るには丁度いいかもしれんけど、来てないからと言って文句は言えないだろうよ」
「それもそうか」
校舎に掛けてある大きな時計は、5時40分を刺している。当初の集合時間が6時であるから20分早い。おそらくそれは、近江でも分かる単純計算だ。
「で、いったいどうしたんだよ。最上、すげぇ、楓音に嫌われてたけど」
「いや、僕は言う気じゃなかったんだよ。ドラマの後々の展開っぽいものを、言ってはないんだけど言っちゃってさ」
「?」
一連の文章の中で正面を切って矛盾した発言に、まったくもって意味が分からない春馬。なんとか分かったのは、ドラマの先の展開を言ったとか、言わなかったとか。
「うん。平和的なケンカでよかった」
友情の影響的断絶になりかねない大きな事ではなかったようで安堵の表情。
「えぇぇ、ドラマの先を言うって、結構酷いよ?」
「その、なんだ。楓音。まぁ、許してやってくれや。あのキツネだって、悪気があってわけじゃないんだろうし」
「春馬くんがそう言うなら……」
部員間のもめごとや議論の仲裁をすることも、立場的に無きにしも非ずの春馬。ここでもそのスキルを発揮して、やや怒り気味の彼女をなだめる。それにも成功した以上、放っておけばいいのだが、空気の読めない、正しくは『あえて空気を読まない』奴が煽り始める。
「新田が言うことはすんなり聞くのな」
「だ、だってそれは……はうぅぅ」
最上と2人きりならともかく、この場で本当のことを言うわけにはいかず、詰まり気味の声を出したのちに黙り込んでしまう。
「あのなぁ、最上。ほどほどにしろよ。ほら、猿政のとこの軽トラ来たから、荷物を準備するぞ」
学校の敷地に入ってくる猿政建設の軽トラック。それを指さしながら、自分のカバンを担ぐ。
「へいへい。そいじゃあ、行こうか」
ちょっとどころか、なかなかに騒がしい話もひと段落。先着した5人に、なぜか猿政のトラックと競争していたらしい大崎を加え、早めの準備を終わらせる。そして出発予定時間を目途に遅れてやってきた楓音家、大崎家、因幡家の車に分乗して球場へと向かった。
信英館戦まで残り3時間を切った。
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蛍が丘と信英館の試合が行われる市営球場。着替えや準備を済ませようと球場の控室に入ったのだが、既にこの時点で観客席から大きな声が聞こえる。なにせ春のセンバツ出場校と、古豪の組み合わせ。敵も味方もマスコミも、注目するなと言う方が無理な話だ。
「さぁ、準備はいいか?」
前に立った春馬に視線を合わせ、頷くメンバーたち。
「それじゃあ、オーダーの発表だ。1番、センター、大崎」
「はい」
「2番、レフト、因幡」
元気のいい返事をした大崎に続き、無言で頷く因幡。春馬としては声を出してほしい所だが、細かいことは言わない。
「3番、ファースト、寺越」
「おう」
「4番、サード、猿政」
「うむ。任せよ」
「5番、セカンド、近江」
「ねぇ、かの~ん。私のブラ知らなぁい?」
「「「……」」」
雰囲気打ち砕かれる。よくよく確認すれば、その一同の中に近江の姿はなく、何かを探るような音が、カーテンで仕切られた控室の奥から聞こえる。
「ねぇ、かの~ん」
「近江ちゃん、小さいからいらないんじゃない?」
「殴るよ?」
さすがに男子勢が探すわけにもいかず、春馬は楓音へアイコンタクト。すると彼女は、ため息をひとつ漏らして、カーテンの奥へと突撃する。
「近江は無視してオーダー発表続けるぞ。6番、ショート、新田春馬。7番、ライト、新田楓音」
「は~い」
仕切りの向こうから聞こえる声を確認。
「で、バッテリーは、8番、キャッチャーで皆月。ラストがピッチャーの最上。以上。さぁて、何の問題も無く試合に行け――」
「ねぇ、私のブラ、本当にどこぉぉ。あっ、これ。このピンク色の……」
「近江ちゃん、待っ、違っ、それは私の替えのやつ」
「うわぁ、楓音、やっぱり私のよりサイズが大き――」
「触るなぁぁぁぁぁ」
「うん。問題なく試合に行ける」
女子同士のやりとりは聞かなかったことにする。関わるのが面倒なのもあるが、仮に関わったところで、男子がどうこうできる問題ではないからだ。
「それじゃあ、あのバカは放っておいて、ベンチに入るぞ。準備はいいか」
春馬に続いて、座っていた男子6人全員が立ち上がり、各々近くにある道具を持つ。最上は手ぶらであり、春馬はせいぜい私物くらいしか持っていないが、それも2人が蛍が丘を支えるピッチャーゆえ。これから重労働させる人間を疲れさせるわけにはいかない、と言う一同の配慮である。
「よっしゃ。じゃあ行こうか。楓音。先行ってるから、後で来いよ。ついでにクーラーボックスは頼んだ」
「は~い。了か……だから近江ちゃん。それは私の」
「えぇぇ、だってこれ、あ、これ自分のじゃないや。じゃあ、えっと」
「あそこにあるのは?」
「あったぁぁぁぁぁ」
とにもかくにも見つかったようである。無いなら無いで野球バカな近江の事。試合の方が大事と、ノーブラで飛び出してきそうだが、その心配もなさそうである。なお、男子勢全員「最悪それでも困らないだろう」と思ってはいるが、もちろん口には出さない。
近江と楓音は置き去りに、春馬を先頭に男子勢がベンチへと向かう。
そして扉を開けると、熱気と太陽光、そして観客たちの声がよりいっそう大きくなって飛び込んでくる。
試合の行われている球場は、先週、総合鈴征学院出雲共和との試合が行われたものと同じはず。なのだが、声援の量が明らかに違い、それゆえか、同一の球場とは思えない。
「本当に凄い声援だな。大きさで言えば今年度一番じゃないか?」
「そりゃあ、相手は古豪の信英館だしな。それにこっちも、信英館を迎え撃つとあって、全生徒も注目。それも、今日は日曜日で、ついでにテストも終わったしな。そりゃあ、今年度一番にもなるさ」
最上も春馬も、この大声援の前にも緊張感はない。蛍が丘高校にとって、この程度の声援は『地方大会にしては凄い』程度でしかないのだから。
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「事前評価通り、か」
「ですね」
試合前シートノックを見ながら、信英館の監督は関心を示し、スコアラーとしてベンチに入ったメガネのマネージャーが賛同する。
「守備もそうだが、これほどの大歓声や大舞台を前に、緊張ひとつしている様子もない。普通なら緊張でガチガチのはずだろうに」
「それは当然です。この試合はあくまでも『地方大会』です。『全国大会』を知る彼らには、緊張するに値しない試合でしょう」
「むしろ、甲子園の新鮮さに関しては向こうの方が上だな」
「えぇ」
甲子園の新鮮さ。分かりやすく言えば、近年の甲子園出場経験のことだ。
蛍が丘高校は直近、今年の春のセンバツに出場している。ではそれ以前の甲子園はと言うと、去年の春夏は天陽永禄。2年前は、春は島根からの出場校無し、夏は松江水産。3年前は春が天陽永禄、夏が松江水産。そして4年前は春夏共に信英館。
つまり、蛍が丘にとって甲子園は数か月前の出来事だが、信英館にとっては4年も前のことになる。それが意味するもの。
『(甲子園を知る蛍が丘高校。甲子園を知らぬ信英館学院。果たしてそのグラウンド度胸が、どんな差で出るか……)』
それが現在、監督が持つ不安材料だった。
言うなれば信英館野球部自体は何度も甲子園を経験している。しかし、信英館野球部の現・部員たちは甲子園の経験が無い。その2つの『経験』の差がどう出るか。それが問題なのだ。
「新田春馬……本当にいざ目にして思うが、シートノックの時からして動きが違うな。まさか俺の見落としとは。これは後悔という次元じゃすまないな」
唇を噛んで悔しがる監督。前日、蛍が丘守備陣の要たる『新田春馬』をマネージャー陣が調査していたところ、偶然にも過去のセレクション資料から彼の名前を発見。それを知らされていたのである。
ノッカーをやっていた保護者が、ラストでファーストゴロを放ち、それを捕球してバックホームでノック終了。ブルペンで投球練習中のバッテリーを除いた、蛍が丘の選手7人が引き上げていく。
「そろそろか。集合」
―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――・―――
信英館の監督が選手を集めて円陣を組んでいる頃、蛍が丘も選手兼任監督の春馬を中心にして円陣を組んでいた。
「今日の相手は強豪の信英館。気を抜くんじゃないぞ」
そう気合いを入れていたところに、投球練習を終えた最上と皆月も帰ってくる。
「最上。今日は頼んだぞ。正直、僕じゃあの打線は抑えられないからな」
「確かに以前の練習を見に行った時、確実にボールの芯をバットの芯で捉えていたもんな。ほんと、高校生離れしたバットコントロールだったな」
「あぁ、だから――」
気を付けろと言おうとした春馬だが、その直後に最上から驚きの言葉が飛び出した。
「ま、それなら総合鈴征よりは抑えるのは楽そうだけど」
「は? 総合鈴征より楽?」
「説明している余裕も暇もねぇよ。ただ言えることは、打たせて取る分には、可能な限り打たせて取ってやるよ。だから守備と得点は任せた」
「そりゃあ分かったけどさ」
不思議で理解できない理屈を打ち出した最上は、試合開始に備え、ベンチに腰かけて休み始める。いったいどういうことか聞きたいところではあるが、時間にそれほど余裕が無いのは事実。
「それと今日はなんだけど、最上を可能な限り引っ張りたい。そこでだ。あいつの疲労削減のために、ランコーは代わりに別の奴に言ってもらう予定だ。例えば初回は8番の皆月、それといつもは9番の最上だけど、代わりに7番の楓音。任せた。人数的に厳しくなった場合は、僕が立つ」
春季大会以降、春馬が指揮を取りやすくするため、春馬をベンチに置くことを優先してきたが、今回はエース温存のために、最上を優先化する作戦に切り替える。
「うん。私はいいけど……それで大丈夫かな。最上くん、いつもだって体力的に限界で降板するわけじゃないよね?」
「大丈夫だろ。ここまでしてやれば、あいつも降板しにくくなるから」
「うわぁ。そう言う事なんだぁ」
納得できる理由ゆえに、最上が可愛そうになってくる楓音。
「そういうこと。一応だけど、サインは基本的にノーサインで、盗塁は原則グリーンライトな。1回戦で2人ほどサインミスしたけど、今試合は気を付ける事。それでサインは――」
いつものサイン確認。バッター・ランナーに対して送るサインの他、内野の守備シフト、敬遠・ウエストなどの守備的なサインもあるため、他のチームよりは多めだ。
「――以上。質問は……なしな。それじゃあ、近江。気合い任せた」
「うん」
春馬は円陣の一角に入り、代わって近江が円陣の中央へ。
「信英館くらいなら、私たちが本気を出せば負けることなんてない」
前置きをしておいて、大きく息を吸い込む。
「絶対勝つよぉぉぉぉ」
「「「おぉぉぉぉぉ」」」
3塁側ベンチ前から、2人の女子と大崎の高い声、そして最上を除く5人の声が重なり響き、それに呼応するようにスタンドから声援が上がる。
「ベンチ前整列」
春馬の一声に、彼を先頭に7人が並び、時間を見計らって最上が近江の後ろへと入る。
信英館のベンチ入りメンバー18人も1塁側ベンチ前に並び、お互いに睨みあう。それからおよそ20秒。1塁側ベンチ横で待機していた審判団が、時間を確認してからお互いに頷き、ホーム側へと歩み出す。
「集合」
「行くぞ」
「「「おぉぉぉぉぉぉ」」」
キャプテン・東山直輝を筆頭に、先んじてベンチ前を飛び出す信英館学院野球部。
「絶対勝つぞ」
「「「おぉぉぉぉぉぉ」」」
コンマ数秒ほど遅れて飛び出した蛍が丘高校野球部。双方の野球部にスタンドから拍手が送られ歓声が飛ぶ。
「では、ただいまより、先攻・蛍が丘高校対、後攻・信英館学院大学附属高校の、島根県大会2回戦を始めます。選手、礼」
「「「お願いします」」」
共々、深々と礼をかわす。
「気合い入れていこうぜ」
「先制点取るぞ」
東山・春馬が自分のチームに喝を入れてそれぞれの持ち場へ。
勝つのは革新を起こした新世代か、それとも伝統ある歴史か。
蛍が丘と信英館の戦いが幕を開く。




