第66話 娘の手
「ロターリオ王の娘、エンマさまがお着きです」
立ち上がってから、何と呼べばよいのか分からなくなった。
戸口には、マルティンがいた。その後ろに若い男が立ち、少し離れて、外套を両手で押さえた娘がいる。窓からの光が当たり、旅の埃が肩で白く見えた。
舟に乗せられた春、三つだった子が、十七になっている。
娘を預かった日の話も、左の耳の後ろの痣も、もう確かめてもらっていた。それなのに、目の前の顔を見ても、あの子だという声は胸から上がってこなかった。知らない女の子が、私と同じように困っている。
「エンマです」
娘は外套を外そうとして、裾を扉の金具に引っ掛けた。振り返り、唇をすぼめる。
その横顔に、ロターリオがいた。
私は笑ってしまった。裾へ手を伸ばし、触れる前に止める。娘は困ったようにこちらを見た。
「何か、おかしいでしょうか」
「お父さまに似ていたの。今の顔が」
「そうですか。私は覚えていないので」
笑いが消えた。娘は私の顔を見て、何か言い足そうとしたが、その前に裾を外した。小さく布の裂ける音がする。
「ああ、もう」
戸口の若い男が、笑いを噛み殺した。
「パオロです。マルタの息子の」
娘に紹介され、男は慌てて礼をした。私を見ず、エンマの足元を見ている。
「道中、お世話になりました」
「いえ。ずっと、こいつ……この方に急かされておりました」
エンマが彼を睨んだ。それがこの子の、普段の顔なのだと思った。私の知らない男の前でだけ、すぐに出てくる顔だった。
休む部屋へ案内してもらい、司祭にも食事を頼んだ。マルティンは曲がった左の指で外套を直し、私と娘を順に見た。
「熱いうちにいただいてきます。あとで、また」
戸が閉まった。
私は近づいた。一歩で抱けるところまで来ても、腕が上がらない。幼い娘なら抱き上げ、頬へ自分の頬を押しつけられた。目の前の子へ同じことをすれば、驚かせる。
「よく、来てくれたわ」
「会いたかったので」
その言葉に、私は両手を出した。娘も出してくれた。指は冷たく、掌には硬いところがあった。
「どこか、痛む?」
「足です。話が長くなるなら、座ってもよいですか」
私は椅子を勧めた。座るなり、どこに暮らしたの、病気はしなかった、ベルノは苦しまなかった、と続けて訊いた。
「一つずつにしてください。どれから答えればいいか、分かりません」
言った本人も、少し笑っていた。
「では、今、何が食べたい?」
「温かい汁物を。パンは、しばらく見なくても平気です」
呼ばれて入ってきたアッタが、娘を見て足を止めた。
「エンマさま」
水差しは落とさなかった。卓へ置く手が、いつもよりゆっくりだった。
「食事と湯を。食事を先にね」
アッタは頷いた。出ていく時にもう一度娘を見て、戸を閉めてから走り出した。廊下の足音が遠ざかる。
「覚えている?」
私は訊いた。
「いいえ。でも、道で司祭さまから聞きました。母上と一緒に穴を通った方だと」
母上、と呼ぶ時、娘の口が少しためらった。
*
汁物を待つ間、娘はベルノのことを話した。
左の膝が悪く、冬は火の前から動きたがらなかった。塩の重さをごまかす者にはひどく怒ったが、自分の負けを認める時には、秤のせいにした。娘を初めて馬に乗せた時、落ちるなと言いながら、馬の腹へ自分の手をついて歩いた。
「降りろと言わなかったので、夕方まで乗っていました。翌朝、膝が腫れて」
「あなたの?」
「ベルノの。馬を押してくたびれたのだと、三日も文句を言われました」
私はその人に会ったことがない。この子を背負った背中も、目を閉じて病床にいる姿も知らない。
「送ってくださった布を、ずっと膝へ掛けていました。最初は受け取らないと言ったのに、暖かいと分かると、誰にも貸しませんでした」
娘が膝の上の手を握った。
「会いに来られなくて、すみませんでした」
「いいの。あなたの手紙は、読んだわ」
待ちたくなかった。自分の娘に会うために、なぜ知らない男の死を待つのかと、ひどいことも考えた。今、その人を語る娘の口が止まるのを、私は待った。
「マルタは」
「元気です。来たがりましたが、私が止めました」
「なぜ」
「お二人の間に、私が座ることになるでしょう。最初から、それは嫌です」
遠慮のない返事だった。私は卓の木目を見た。
「娘を預かった理由は聞きました。最初は、助けてくれた。でも、あの人は、どうして長い間」
「私も訊きました。同じことを、何度も」
エンマは、椀を置くために空けられた場所へ手を載せた。
「母上には会えないと聞かされました。初めは、私のために。後からは、自分が怖かったのだと言いました。母上に知られれば罰せられる。私にも嫌われる。もう少し大きくなってから話そうと思ううちに、大きくなった、と」
「それで、あなたは」
「怒りました。家を出て、パオロに追いかけられました。戻ってから、また怒りました」
娘は口を結んだ。怒った顔には、私に似たところもある気がした。そう思った自分が、少し恥ずかしかった。
「今でも、腹が立ちます。でも、私が病気の時、夜通し起きていたのは、あの人です。私が何を食べたら吐くか、何を怖がるか、母さんは――」
そこで娘が黙り、私を見た。
「続けて」
「……マルタは、知っていました」
「言い直さなくていいわ」
そう言うまでに、少し時間がかかった。娘は私の返事を疑うように見つめた。それから、小さく頷いた。
「母上のことも、知りたいです。人に聞いた話ではなく」
私は口を開き、うまい初め方が見つからずに閉じた。
「私がいない間に、弟が二人生まれたと聞きました。一人は、亡くなったと」
「ええ。ハインリヒ。三つで」
「その子の話も、聞きたいです」
今度は娘が待った。私の喉が動き、声が出るまで、何も足さなかった。
*
食事の後、エンマは窓際の寝台へ目をやった。
「少し、横になっても?」
「もちろん」
掛布を広げようとすると、娘が端を取った。二度折り、頬の下へ入れる。
私は手を止めた。
「どうかなさいましたか」
「その折り方を、昔、人から聞いたの。パヴィアであなたを見た人が、そうして眠ったと言いました」
娘は布を見た。
「この方が柔らかいのです。マルタの家の枕は、藁の端が頬へ当たりました。中を替えても、固い茎が残っていて」
「パオロの分も、折った?」
「折ったと思います。細かいことは覚えていません。でも、あの人は枕の固さなんて、気にしませんでした」
私は掛布の上へ手を置いた。
娘が眠っている。その話を頼りに、何度も夜を越えた。布の折り目だけを握り締めるようにして。その布の向こうで、娘は枕に文句を言い、兄のように育った子に笑われていた。
「母上は、何を覚えていらっしゃいますか」
「熱いパンへ手を伸ばしたこと。お父さまが、焼きたてだから待ちなさいと言う前に、握り潰してしまったの」
「叱られましたか」
「いいえ。潰れたところを、お父さまがあなたの口へ運んだわ」
エンマが笑った。
「それは、覚えておきます」
娘の瞼が落ちかけ、また上がった。
「眠っている間も、ここにいますか」
「いるわ」
私は椅子を寄せた。しばらくすると、寝息が聞こえた。数えずに聞いていた。
*
エンマは、宮廷の作法にたびたび腹を立てた。
食べる前に待ち、歩く前に待ち、誰かが椅子を引くのを待つ。一人でできることばかりだと言った。弟のオットーは、それなら王冠を被ってみろ、首を伸ばすにも人が見る、と答えた。
「あなたは、慣れたの?」
「慣れたふりをするんだ」
七つ年の離れた弟に教わり、娘は吹き出した。息子は得意そうだった。二人が並ぶと、同じ私の子だということが、顔より先に分かった。気に入らない時、どちらも、黙って椅子を少し後ろへ引く。
ベレンガーの娘たちは、初めエンマを避けた。ベルタは私の娘と親しくしても両親が戻るわけではないと知っていたし、ジーゼラは、知らない者の前では食べるのも苦労した。
しばらくして、両親から二人へ便りが届いた。ベルタは私の前では開かず、妹と部屋へ戻って読んだ。
ある日、エンマが二人の部屋へ汁を運んだ。私に頼まれたわけではなかった。パオロが帰る前に見せてくれた、塩を控えた作り方だという。戻ってきた時、娘は空の椀を二つ持ち、笑っていた。
「どうしたの」
「塩が足りないと言われました」
「そう」
「ええ。次は、普通に作ります」
私は何も頼み足さなかった。
*
翌年、西フランクから、婚姻の申し入れが来た。
オットーは書状を読み終え、私に渡した。西フランク王ロテールは、亡きイタリア王ロターリオの娘エンマを王妃に迎えたいという。
王妃。その言葉に、心が弾んだ。娘が私と同じ称号を得る。遠くの宮廷で、誰の隣へ座るのかを、もう思い描いていた。
「エンマには、同じ話を?」
使者が戸惑った。
「まず宮廷へお伝えし、その後で正式に、と」
「呼んでください」
「今、ですか」
「ここにいるのです。すぐ隣の棟に」
使者はオットーを見た。夫は侍従へ頷いた。
エンマは間もなく来た。私の隣ではなく、使者の正面へ椅子を寄せる。旅から着いた日より、ずっとゆっくり座った。
「母上は、何とお答えになったのですか」
「まだ何も。よい縁だと思いました」
「どんな方なのですか」
年齢、家柄、治める土地。使者は淀みなく答えた。娘は途中まで聞いて、机へ両手を置く。
「ご本人には、よく会われるのですか」
「はい」
「では、その方の話をしてください。何に腹を立てますか。私が話している時、最後まで聞きますか」
使者は私を見た。助けなかった。娘に訊かれたことへ答える人が、今日は目の前にいる。
「いつ、お返事が要りますか」
娘の次の問いを、私は黙って聞いた。
*
夕方、エンマは古い外套を持って私の部屋へ来た。
初めてここへ来た日に金具へ引っ掛け、裂いたところだった。一度縫い直したが、下の布が薄くなって、また口を開けている。
「新しい物を作らせましょうか」
「これは、まだ着ます。マルタが旅の前に、裾を直した物なので」
娘は布を膝へ広げた。針箱から糸を選び、光へかざす。ぴったり合う色はなく、二つを並べて迷っていた。
「暗い方は?」
「少し目立ちます」
「ほかの色を探させるわ」
「いえ。これで」
エンマは暗い糸を針へ通した。窓から入る風が布を持ち上げ、押さえようとした指から滑る。
「母上、ここを持っていてもらえますか」
私は娘の隣へ座った。
布の端を二人の膝に渡す。向こう側に、前に縫った細かな目が見えた。私はそれを解かず、裂けたところだけを寄せた。
「このくらい?」
「ええ。動かさないで」
娘の手が、私の指のすぐそばで針を引いた。
史実メモ:エンマはロターリオとアーデルハイトの娘で、966年に西フランク王ロテールの妃となりました。951年から965年までの所在や養育の詳細は分かりません。母との十四年の離別そのもの、捜索、別名アニェス、育ての家族、再会と対話、婚姻打診への応答は本作の創作です。母娘が向き合う場面を組み立てるために、史料の空白を架空の出来事でつないでいます。




