第45話 赤い外套を追う
荷車を何台出すかは、日が昇る前に決めなければならなかった。
「8台とも出せば、門に残る者の食べる物がなくなります」
アッタが袋の口を縛りながら言った。中庭には、牛が6頭。麦の袋は、私が思っていたより小さい。
「王のご一行が戻られるまでなら、足ります」
蔵役が言う。
「戻らなければ?」
「戻られます。王でいらっしゃいますから」
「数で答えてください」
「……7日ぶん、でございましょうか。粥にすれば、もう少し」
でございましょうか、で計れるものは何もない。私は袋を自分で持ち上げ、重さを腕に覚えさせてから、8台と決めた。牛は6頭。残る2台は、人が曳く。
残る問題は人だった。門には18人しかいない。
「荷につけるのは6人。12人は門に残します」
「6人では、渡し場で止められます」
アッタの手が止まった。
「12人つければ、この門が空きます」
「空けません。私の子が、門の内側にいます」
言ってから、口の中が乾いた。アッタは何も言わず、書字板を出した。
「そのように帳面へ。理由も入れますか」
「書いて。私の子がいるから、と」
アッタの筆が一度止まり、それから動いた。もう戻せない。
人垣の後ろから、煤の男が出てきた。
「私を、道案内に」
「エッボ。あなたは日数も数えられませんでした」
「日は数えられません。道は、足が覚えております」
男の膝は昨日と同じに笑っていた。それでも、目だけはこちらを見ている。
「渡し場で止められたら、荷を捨てて逃げなさい」
「捨てます」
「約束して」
「捨てます」
繰り返す時の声が、一度目より小さかった。
横木が上がり、8台が出ていく。轍が門の外の泥に食い込み、牛の尻が朝の光に消えるまで、私はそこに立っていた。
門が閉じた音は、開いた音より重かった。
*
幕間――レヒの平野
矢は、後ろから降ってきた。
若い兵が振り返った時には、騎馬の一隊が川を越え、荷車の列に食い込んでいた。水樽が割れ、弟が手綱ごと引かれて敵の馬間へ消える。
「弟が!」
声は戦場の音に潰れた。追おうとした彼の前に、味方の馬が割って入る。先頭にいたのは赤公コンラートだった。去年は王に背いた男が、王の命で後陣へ戻ってきていた。
「連れていかれる者を取り戻せ!」
号令の後半は騒音に消えた。それでも若い兵には、赤公が荷車を素通りして人の方へ向かったことだけは見えた。
午後、平野の熱は鎧の内側にこもった。コンラートが首もとの留めに手を掛ける。風が通るほど開いた時、正面から来た矢が喉に入った。
若い兵が見たのは、赤い外套が馬の首から滑り、周りの者が受け止めるところまでだった。人と馬が間を塞ぎ、その声は届かない。
日が傾き、生き残った者が呼び集められた。負傷者の列で弟を見つけた若い兵に、隊長は王の勝報を渡し、また馬へ乗せた。
*
勝った、という声は、使いより先に門を越えてきた。中庭が沸いても、私は門の内側の段に座って待った。
南へ発つ朝、鐙に足を掛けた夫に1つだけ頼んだ。使いを寄越すなら、勝敗より先に、生きているかどうかを言わせてほしい、と。人の噂を聞くより、使いの口から夫の生死を先に聞きたかった。
「王は生きておられます」
門をくぐった若い兵は、膝をつくより先にそう言った。頼んだとおり、その言葉が最初に来た。あの人は、戦を挟んでも覚えていた。
「見たのですか」
「戦のあと、立っておられるのを」
「傷は」
「遠くからです。歩いておられました」
立ち上がった。膝が卓に当たり、水杯が倒れる。濡れた衣のまま笑い、次の息では涙が出た。頼んだ順など、そこまでだった。
「もう1度」
「王は生きておられます」
3度目を言おうとする男に、首を振った。2度で足りる。2度目は、ただ私が聞きたくて言わせた。
「弟も生きています。腕は上がりませんが、口は私より元気です」
ようやく若い兵の顔が緩んだ。笑いそうになったのに、その顔は歪んだまま戻らない。
「コンラートは」
男は答える前に、いったん唇を結んだ。
「戦死されました」
外では鐘が鳴っている。誰かが勝利の酒を開け、中庭で歓声が上がった。夫が生きている喜びは、胸の中にまだあった。死んだ人のために消そうとしても、消えない。
若い兵は、後陣の襲撃から喉に矢を受けるまでを話した。コンラートが奪い返した捕虜の中に、自分の弟もいたという。
「何か、おっしゃいましたか」
兵の唇が動き、また閉じた。答えを探している。探させているのは私だ。私はいま、コンラートが死の間際にリウトガルトの名を呼んだことにしてほしいと思っている。そう聞ければ、残された者の痛みが少しは軽くなる気がした。けれど、聞こえなかった言葉を作らせてはいけない。
「いいのです。聞こえなかったなら、そう言って」
「聞こえませんでした」
若い兵は短く息を吐いた。
「去年、私たちはあの方を敵と呼びました。でも今日、弟を返してくれました」
「忘れません」
アッタが腰掛けを後ろから押しつけた。若い兵は抗う力もなく座り、渡されたパンをひと口で飲み込んだ。
*
昼過ぎ、門の外で牛の鳴く声がした。
戻ってきたのは、6人のうち2人だった。1人は牛を引き、1人は荷台に乗せられている。
「渡し場で、待たれておりました」
「エッボは」
「橋の手前で、牛の綱を切りました。切らなければ、倒れた車が道を塞いで、全部やられておりました」
「それで」
「それで、あの人は残りました」
男が帽子を差し出した。煤の匂いが、まだ抜けていない。
「あの人、東の道を3日ぶん覚えていると言い張って」
「ええ。私が行かせました」
誰も私を責めなかった。門に12人残したことも、荷に6人しかつけなかったことも、帳面にある。書かせたのは私だ。
その日の六度目の蹄は、南から来た足の悪い騾馬だった。
油商の荷に、細い紐が結ばれている。結び目は二つ。ヴェローナに、エンマと同じ年頃の娘が二人いる。どちらも耳の後ろまでは確かめられなかった。返事は、それだけだった。
私は紐をほどかず、腰帯へ挟んだ。いま出せる馬はない。二つの手がかりへ伸ばす手も、戦が終わるまでここに縛られる。
*
日が落ちる前、門の外で馬の音が止まった。
取次ぎを待たずに中庭へ走った。オットーは自分の足で馬を降りたところだった。外套は泥と汗で色が変わり、左の頬に浅い傷がある。
王妃らしく歩け、と頭の片隅で声がした。私はそれより早く夫の身体にぶつかった。鎧を外した胸が、額の下で上下していた。
「痛い」
「どこが?」
「お前の額が、傷に当たった」
離れてみると、浅い傷からまた血がにじんでいた。
「生きている」
「見れば分かる」
「分かっても、言います」
オットーの両腕が背に回った。抱き返す力が強く、肋が痛む。その痛みまで嬉しかった。
「コンラートを失った」
「聞きました」
「あれが後陣を戻さなければ、勝てなかったかもしれぬ」
死者の話を聞きながら、私は生きた身体から離れられない。
「私は、あなたが生きていて嬉しい」
「私もだ」
「コンラートのために、まだ泣けません」
オットーは答えず、背に置いた手を1度動かした。
「後ろへ戻れと命じたのは私だ。そのあと、前へ出たあれを見ていた」
「止められたの?」
「勝ちたいなら、止められなかった」
オットーは腕を解いた。
「あれは、娘の夫だったのに」
あなたのせいではない、とは言えなかった。それでは、いま抱いた夫だけが楽になる。私は泥のついた手を握った。
「遺体は、妻の隣に置いてください」
「もう出した。ヴォルムスへ送る」
「聖アルバンなら、1日で追いつきます」
「あれの家はヴォルムスだ」
それで終わりだった。死んだ者の並べ方まで、私の名は届かない。
「後ろから麦が来た。6台ほどだ。誰が出した」
「私です。8台、出しました」
オットーの目がこちらへ動いた。
「兵を、もっとつけられなかったのか」
「つけられました。門に残しました」
「なぜ」
「ハインリヒが、門の内側にいたからです」
夫は何も言わなかった。私も、言い直さなかった。
「母へ使いを出した。私が生き、勝ったと」
「コンラートのことも?」
「別の者が追う。まず、生きたと告げさせた」
夫は母への使いにも、出立の朝に私が頼んだ順番を使っていた。
後日、王母マティルデの一行が同じ滞在地に入った。部屋を訪ねると、扉は叩く前に開いた。
「オットーは生きているのでしょう」
「はい」
マティルデは、嫁の顔をじっと見た。
「では、その顔は誰のためです」
史実メモ:955年8月10日、オットー軍はアウクスブルク近くでハンガリー勢力に勝利し、赤公コンラートは王軍側で戦って戦死しました。後陣を救ったこと、酷暑のなか鎧の留めを解いて風を入れようとした時に喉を矢で射られたこと、遺体がヴォルムスへ運ばれたことは、ウィドゥキント一系統の叙述です。後陣兵の兄弟、勝報を運ぶ兄、王夫妻の再会は創作です。




