第44話 町は、まだ立っている
「アウクスブルクは、もうありません」
煤だらけの男が叫んだ。
気づいたときには、ハインリヒを毛布ごと抱き上げていた。寝台まで走った覚えがない。
東の道が人で埋まっている。空まで赤い。男はそう言った。それしか聞いていない。訊くことなら並んでいた。城門は見たか。壁は。誰の軍勢が。市の人はどこへ。どれも訊かなかった。腕が先に、この子を取っていた。
外套。外套に包む。泣かせない。廊下へ。後ろでアッタの声がする。靴。片方の靴。この子のだ。
「どちらへ向かわれますか」
「西へ。子どもと病人を先に出します」
「西の、どちらまでですか」
どちらまで。
答えられないまま中庭へ降りた。眠っていた者たちが扉から出され、馬に鞍が載り、咳をする老女が寝台ごと運ばれてくる。誰も行き先を知らないのに、王妃が急げと言ったから手だけが動いた。
料理場からは火を消しきらない鍋まで運ばれた。若い下働きが素手で柄を持ち、熱さに落とす。こぼれた粥を踏み、別の者が文箱を抱えて走った。
「箱は置いて。水と毛布を」
命じ直すと、今度は何を置くかで声がぶつかった。病人の薬を探す者、パンを袋ごと奪い合う者、家族を起こしに戻ろうとして門役に止められる者。私が始めた恐怖は、中庭で私より大きくなっていた。
ハインリヒが毛布の中で身をよじった。
「父上は?」
「兵と一緒です」
「母上も行く?」
答えず、乳母に子を渡そうとした。ハインリヒは首に腕を回し、離れない。
門前で、アッタが先頭の馬の轡をつかんだ。門役が横木から手を離す。
「放して」
「ご無礼をお許しください。次の壁の名を仰ってください」
「道で決めます」
「病人を載せたあとで、お決めになるのですか」
声は低かった。だから余計に腹が立った。
「私の子がいるのです」
「寝台の病人は、行き先なしでは運べません」
アッタは轡を放さない。門役がその腕に手を伸ばした。
「触れないで。私が話しています」
手が止まる。アッタは轡を握ったまま頭を下げた。
「牢から出た夜だって、先の道は知りませんでした」
「あの夜は、後ろが牢でした。今は、前の道さえ分かりません」
「では、ここで火を待てと?」
「違います。どこへ逃げるか、一つだけ仰ってください」
アッタの弟のミロも、ほかの家人も、この一行のどこかにいる。彼女とて、怖くないわけがない。
身分で手を外させ、横木を上げさせれば、馬は走る。だが、暗い道のどこで止まり、誰が最初に倒れるのか、私は答えられない。最初の男に何も訊かず、判断に必要なことを確かめていなかった。
「門は閉じて。行き先を決めるまで、誰も出さないで。荷を降ろします」
アッタは轡を放し、退いて頭を垂れた。
「承知しました」
そこへ、片袖を焼いた女が門を叩いた。
「開けて。市はまだ立っています」
横木を半分だけ上げ、女を滑り込ませる。髪の端が縮れ、喉は煙で潰れていた。アッタが水を渡すと、一口でむせた。掌には小さな火傷がいくつも膨れている。杯を落としかけても、反対の手に持ち替えて離さなかった。
「燃えたのは、城壁の外の聖アフラです」
女は火傷した掌で東を指した。
「私が出た時、市の低い壁にはまだ人がいました。年を取った姉妹は床で祈り、歩ける者は十字架と巡ると決めた。私は怖くて、火から逃げました」
煤だらけの男が、人垣から前へ出た。
「私は壁を見ていません。走ってくる人が皆、終わりだと言った。それを、そのまま持ってきました」
男はエッボと名乗った。二日か三日、夜のうちも歩いたらしい。日数は曖昧でも、膝の震えだけは嘘ではなかった。
女は初めて私を見た。仲間を置いたことを悔やみ、それでも走った足の震えを止められない顔だった。
空の杯を握ったまま、女は門の外を見た。
「戻ります。夜まで持つなら」
焼けた袖を見れば、戻らせたくない。だが私は、行き先もなく皆を夜道へ出そうとした人間だ。人の帰る先を取り上げる資格は、今夜は特にない。
「食べてからにしてください」
言えるのは、それだけだった。
*
幕間――アウクスブルク
低い城壁の内側では、崩れた防備に夜通し木組みが足された。松明を高く掲げた者の腕が震え、外から物音がするたび、作業の手が止まる。
司教ウルリヒは盾も兜も持たず、馬で壁沿いを巡った。投げ込まれる石が足もとで砕ける。立ち止まれば人が彼を見るため、止まらなかった。
城内の女たちは2組に分かれた。一方は十字架の後ろを祈りながら巡り、もう一方は冷たい床に身を伏せた。迷う者は、隣の声を頼りに、選んだ場所へ残った。
夜明けに見えたのは、低い壁がまだ立ち、その外で軍勢が動き始めたことだけだった。
*
次の鐘までに、荷をすべて下ろさせた。中庭に集めた者たちに、自分で言った。
「ハインリヒを抱いた途端、行き先も決めず、皆を外へ出しました。病人が夜道でどうなるかも考えませんでした」
誰も、すぐには許すと言わない。寝台の老女が毛布の中から片目を開けた。
「王子がいなければ、私たちを起こしましたか」
私はハインリヒを見た。嘘をつけば、この場はきれいに収まる。
「もっと遅かったと思います」
「では次は、早く起こしてください。道を決めてから」
老女はそれで目を閉じた。次の仕事を渡された、と受け取ることにした。
その日のうちに、アッタと西の壁を二つ選んだ。病人の車で届く方を炭で門の内側へ大きく書く。もう一つは、その下へ。最初の名が雨で消えた時にしか使わない。
蔵を開けると、麦は思ったより少なかった。荷車は八台、牛は六頭。壁へ着けても、そこで食べる物がないかもしれない。その晩は横木を上げず、炭の地名だけが門に残った。
自分で老女の寝台の前を持った。戸口へ斜めに入れてしまい、枠に当てると、毛布の中から叱られる。
「逃がす時も戻す時も、もっと静かにしてください」
「ごめんなさい」
「謝るなら寝台の足を上げて。そこに段があります」
アッタが後ろで笑った。私は笑えず、言われた通り寝台の足を持ち上げた。
ハインリヒを部屋に戻すと、子は欠けた木馬を胸に抱いた。
「父上は帰る?」
「帰ってくるように、戦っています」
必ずとは言えない。代わりに冷えた片足を両手で包んだ。出立を急がせた時、その白さにも気づかなかった。
夕刻、別の騎手が駆け込んだ。
「包囲軍が、アウクスブルクの壁を離れました」
中庭に安堵の声が広がる。私も立ち上がりかけた。男は首を振った。
「逃げたのではありません。近づく王の軍に、正面を向け直しています」
ハインリヒの木馬が、腕の中で硬い音を立てた。
「王妃さま」
人垣の後ろから、煤の男が出てきた。膝が笑っているのが、立ち方で分かる。
「私を、麦の荷につけてください。東の道なら、3日ぶん覚えています」
「一晩、考えます」
「明日には、道が変わります」
史実メモ:ウルリヒ司教の近接伝記は、955年に城外の聖アフラ教会が焼かれた後、塔のない低い城壁のアウクスブルクが包囲されたと伝えます。城内へ集められた宗教女性たちは二組に分かれ、十字架を伴って巡る者と、床へ伏して聖母へ祈る者がいました。祈りと救済の因果は聖人伝の表現です。アーデルハイトの誤報受領、退避命令、焼けた袖の女性は創作です。




