第42話 裸足の王子
休戦の期限が切れた朝、最初に戻ってきたのは片腕を吊った男だった。
馬から降りると立てず、アッタと2人がかりで寝台まで運んだ。
「休戦は、いつ戻ります」
自分の腕より先に、それを訊いた。答えを持つ者はいない。
夏のあいだ、負傷者の荷車が王の陣を出入りした。焼けた木の臭いが、報せより早く届いた。
オットーは夜ごと遅く戻り、朝にはまた馬に乗った。眠っているあいだも右手を握り、夢の中で手綱を引いている。
「リウドルフが、明日1人で来る」
初秋のある夜、夫は目を閉じたまま言った。目蓋の下で、眼が動いていた。
「話すために?」
「伏すためだと、使いは言った」
「あなたは、立たせるのですか」
オットーが目を開ける。戦場から持ち帰ったままの目だった。
「まだ、私にそれを訊くのか」
「マインツでは、2人が伏しても立たせるだけでした」
「明日、渡せばあの人を息子に戻すのですか」
声が鋭くなった。アッタが身じろぎしたが、止めには来ない。
「明日、あなたは何を訊きますか」
「王が訊くことだけだ」
薪を足した。
「私は、あれを赦したい」
両手で顔を覆った夫の、指の間から出た声だった。言った本人が、その弱さに驚いている。
「なら、何が怖いのです」
「赦したあとも、息子を信じられないことだ」
返せなかった。城も、死者も、異国の軍勢に渡した道も残っている。愛していても、見なかったことにはできない。
夜明け前、夫はようやく剣を壁に掛けた。赦したい、と夫は言った。信じる、とは言わなかった。
*
空が白む前に、私は厩へ降りた。
「どちらへ」
アッタが外套を抱えて追ってきた。
「西の道の、供が待っている所まで」
「王のお許しは」
「訊いていません」
「では、私も参ります。鞍を置くのは私です」
道の窪みに、供の火が見えた。10人ほど。誰も私の名を呼ばない。呼べば、王妃が夜のうちに敵の側へ来たことになる。
リウドルフが外套の前を留めながら出てきた。
「使いですか」
「いいえ」
「では、何を持ってきたのです」
「リウトガルトの言葉です」
留め具の上で、彼の手が止まった。
「妹は、私に何も遺していません」
「遺していません。私が覚えているだけです」
息を吸って、あの人の言い方のまま並べた。
「3人とも来てほしい。腹が立っているうちに、自分の口で話す」
「それは、父上にも申し上げたのでしょう」
「言いました。あなたには、まだ渡していないものがあります」
「兄は、自分のせいではない顔をしながら、誰より悔やむ。あの人はそう言いました」
リウドルフは長く黙った。
「なぜ、今日なのです」
「今日しか、渡す先がないからです」
「明日でも、私は生きています」
「伏せた後では、別の話になります」
「父上は、これをご存じですか」
「いいえ」
「では王妃、あなたは私に武器を渡した」
「あの人の言葉です。私のものではありません」
「使うかどうかは、私が決めます」
「どうぞ」
背を向けた彼が、一度振り返った。
「妹は、怖がっていましたか」
「ええ。最後まで」
彼は火の方へ歩いていった。
*
朝、リウドルフは供を遠くに残して現れた。王の一行が待つ手前で立ち止まり、自分で腰をかがめた。
靴を脱いだ。従者に渡さず、道の脇に左右を揃えて置く。湿った土の上に、若い王子の足裏が下りた。
片方を寝台の下に隠して笑った子のことを、こんな朝に思い出す。エンマの靴を、いま誰が揃えているのか。
見守る者のあいだを、彼は1人で歩いた。誰も目を逸らさない。
オットーは剣を帯びずに待っていた。私は夫の斜め後ろに立った。
リウドルフは父の前で止まった。顔を上げたまま、まず言った。「負けました」
「それを言うために来たのか」
「勝っているなら来ませんでした」
「伏して、何を求める」
「命を。私に従った者への憐れみを。それから――」
リウドルフは一度言葉を切った。
「父上の前に、息子として戻ることを」
「王国は?」
父から、その問いが出た。
「欲しくないと言えば、今日いちばん大きな嘘になります」
リウドルフの声が少し震えた。
「でも、今日それを取りに来たのではありません。明日また欲しがるかもしれない。それでも今日は、生きて帰りたい」
「正直すぎる赦しの乞い方だ」
「上手な言葉は、城を2年守ってくれませんでした」
その言葉のあと、リウドルフは地に身を伏せた。額も掌も土につく。背だけが、呼吸のたび上下した。
「父上が何をしても、私には裏切りに見えました」
声が土に吸われる。オットーは聞き返さなかった。
「私の者を守るため、よその者に外敵を向けた。妹が待っている時も、父上を負かすことを先にした。悔いています」
「仲間を渡すのか」
「名を並べて首を差し出すことは、まだできません。罰は私に。従った者の処分は、1人ずつ行いを見てください」
オットーは息子を見下ろしたまま動かない。
「私も、お前を次に立つ者だと皆の前に出した」
長い沈黙のあと、父が言った。声を出す前に二度、唇が動いた。
「そのあとで妻を迎え、子が生まれた。お前が何を恐れるか、分かっていた。若い者の焦りだと言って、答えなかった」
「だが、お前が城を固めたことも、人を死なせたことも消さぬ」
「はい」
「私が答えなかったことも、消えない」
「はい」
そこでリウドルフが顔を上げた。土のついた額のまま、父を見上げる。
「妹は、私たちを待っていました」
オットーの肩が動いた。
「腹が立っているうちに、自分の口で話したいと。3人とも来てほしいと。怖がりながら、最後まで待っていたそうです」
「誰から聞いた」
リウドルフは答えず、目を動かした。列席の顔が、順にこちらを向く。
「今朝、門の外で私が渡しました」
私が言っても、オットーはこちらを見なかった。息子から目を離さなかった。
「リウトガルトは、私たちを待った」
最後の一言で、オットーの声が割れた。地に伏したリウドルフの肩も震える。
「私は、間に合わなかった」
「私もです」
「あの子を、お前とコンラートの間に置いた」
「私は父上との間に置きました」
どちらが先に泣いたのか。父の頬を涙が落ち、土の上の息子から押し殺した声が漏れる。
オットーの手が上がる。リウトガルトの頬に、死んでから届いた手だ。その手が、息子の肩に置かれた。
「立て、リウドルフ」
「王としてですか」
「父としてだ。王の答えは、皆の前であらためる」
リウドルフは一度では立てなかった。片手を土につき、父の腕を借りて身体を起こす。抱き合いはしなかった。2人の手が、離れずにいた。
オットーは従者の布を受け取り、自分で息子に渡した。
「まず足を拭け」
「赦しの最初の命令が、それですか」
「王の区画を泥だらけにする気か」
泣いた直後の顔で、2人は睨み合った。涙を拭ったあと、リウドルフは私を見た。
「勝ちましたか、王妃」
「いいえ」
「今朝のあれは、私のためでしたか。父上のためでしたか」
「あの人の言葉を、渡す先がなくなるところでした」
「答えになっていません」
「家族らしくなってきた、と王母さまなら言うでしょう」
リウドルフの口元が歪んだ。笑うと、泣いた跡がまた濡れる。
「ハインリヒは?」
「元気です。口が父親に似てきました」
「ますます気の毒だ」
今度は、オットーまで笑った。長くは続かなかったが、誰も止めなかった。
*
王の区画へ戻る途中で、オットーが足を止めた。
「今朝、門の外へ出たな」
「はい」
「何を渡した」
「あの子が本当に言ったことです」
「私が聞いていないことか」
「あなたが、訊かなかったことです」
夫は廊下の先を見たままだった。
「次は、先に私へ渡せ」
「渡していたら、あなたは今朝、何と言いましたか」
答えはなかった。
戸口では、取次役が困った顔をしていた。脱いだ靴を抱えた若い従者が追いつく。リウドルフは受け取ったが、履かない。泥を拭った足で、父の戸口まで歩ききった。
公位も領地も、支持者の処分もまだ決まっていない。王子と呼べば戻しすぎ、反乱者と呼べば父の恩寵を否定する。
「どのように、お入りになったと告げましょう」
オットーが答えた。
「私の息子リウドルフが帰った、と」
取次役はそのまま声を上げた。リウドルフは靴を手に持ったまま、父と同じ戸をくぐる。その後ろで、夫が私を待っていた。
「12月に、皆を集める。その日までに、お前が今朝したことを私に説明しろ」
「今夜、戸を閉めてから話します」
「食事の前か」
「後です。空腹のあなたは、人の話を聞きません」
オットーは反論せず、私の皿から肉を取る時と同じ顔で先に戸をくぐった。
史実メモ:ウィドゥキントは954年、リウドルフが裸足で父王の前に伏し、悔悟を示す言葉と涙のうちに恩寵へ戻されたと描きます。近い一史料の叙述です。本話の逐語会話、アーデルハイトの立会い、父の手、靴を持った入室は創作です。




