第41話 夜の浅瀬を知る者
954年。春の雨が上がった朝、私は門の内側で南からの馬を待っていた。
冬に戻ったのは、焼けた封紐だけだった。ミラノへ送った問いの中身も、焼いた者も分からない。次の便から王妃の印を外し、油商の荷に言葉だけを預けた。その返事を待っている。
来たのは、東からだった。
馬の姿はない。荷を負った人の列だ。先頭に、髪を焼いた男が一人いる。司祭の衣だと分かるまで、少しかかった。裾が、膝から下だけ黒い。
「異国の騎馬が来ました」
男は門役を通さず、私の顔を見て言った。
「どこから」
「東から。バイエルンを抜けて、西へ」
「あなたの村は」
「焼けました。倉から先に。あの、まっすぐ倉へ行って、村を回って探しはしませんでした」
列の後ろで、子どもが咳をしている。アッタが毛布を取りに走った。
「いつ来たのです。昼ですか」
「夜明け前です。浅瀬を渡って来ました」
「夜に、渡ったのですか」
「はい。あそこは昼でも、土地の者しか渡りません。私は、渡れません」
男はそれきり黙り、自分の焼けた袖を見た。
板に3行だけ書いた。夜明け前。浅瀬。案内なしでは渡れない。板は、手袋と同じ袖へ入れた。
*
「誰が、あの軍勢を呼んだ」
オットーの問いに、誰も答えなかった。戸の外では、また雨が始まっている。
期限つきの休戦で、父王、息子、娘婿が同じ館に来た。以前なら、3人の間にリウトガルトが立った。今日は椅子さえない。
「私は呼んでいません。呼ぶ理由もない」
リウドルフが先に言った。
「お前の側から案内人が出た」
「軍勢はその前からバイエルンにいました」
「お前の側から出たことは認めるのか」
「はい」
オットーの拳が卓に落ちた。器の水が揺れ、こぼれる。
「どこへ導いた」
「私に従う者がいる土地を外す道を示した、と聞いています」
「外した先にも、私の民がいる」
「父上の兵が私の者を追っている時に、国じゅうを父上のものと思えと。それが王国ですか」
「王を名乗る家の息子なら、そう思え」
リウドルフが笑った。乾いた、短い笑いだった。
「王国を私に約した時に、そう教えてくださればよかった」
「約束を盾に、外敵へ道を売ったのか」
「売っていません。私の側が示したのは、私たちを襲わせない道です」
「金は、あなたの側から渡ったのですね」
リウドルフが私を見た。初対面の時と同じ、試す目だった。
「はい。私と、私に従う者に害を加えさせないために。敵がすでに目の前にいる時、王妃なら何を差し出しますか」
「自分のものから差し出すでしょう」
「その先で、誰が襲われても」
答えられなかった。エンマやハインリヒが背後にいれば、他人をどこまで犠牲にするか、自分でも分からない。
*
「コンラート」
オットーが娘婿へ向く。コンラートは自分の番を待っていた。
「お前は協定してロタリンギアを通し、軍勢を導いたと言われている。ヴォルムスでは、公から糧と贈物が出たとも聞く」
「私が東へ使いを出し、呼び寄せたことはありません」
「来た後には、あなたの側が会ったのですね」
自分の声が、リウドルフへ向けた時より柔らかい。口に出した後で、それが聞こえた。
「会いました」
「領地の人々を守るために」
「アーデルハイト。答えを与えるな」
オットーが止めた。リウドルフも見ていた。
「妹が死んだから、その夫には優しい問いを」
頬が熱くなった。否定の言葉は喉まで来ていて、事実がそれを通さない。コンラートの顔に、私はリウトガルトを探していた。
「ええ。あの方が愛した人の一人くらい、汚れていないことにしたかった」
コンラートの目が閉じた。一瞬、赤公でも反乱者でもない、寡夫の顔になる。
「先に、私へ硬い返事をさせましたね」
リウドルフが言った。
「ええ」
「なぜ私からです」
「あなたは認めると思いました。認めた後では、この方も『会っていない』と言えません」
私は同じ声で訊いた。
「あなたの側は、軍勢と何を約しましたか。どの道を通しましたか」
「私の側の者を襲わないこと。進むなら、留められない道を進ませること」
「その道に、あなたの敵がいたことは」
「知っていました。人を守り、敵が弱るのを止めなかった。どちらも私の責任です」
言い訳を足さない。リウドルフより静かで、そのぶん冷たかった。
「もう一つ」
袖から板を出した。
「東から司祭が来ました。騎馬は夜明け前に浅瀬を渡ったそうです。土地の者しか渡らない浅瀬を、夜に」
オットーが板を取り、目を落とす。
「道を示すだけの者は、浅瀬まで連れて行きません。あなたの案内人は、示して帰ったのですか。それとも、一緒に行ったのですか」
リウドルフの顔から、試す目が消えた。
「……知りません」
「知らないのですか。戻っていないのですか」
「戻っていません」
初めて、答えが遅れた。
「名を、休戦の終わりまでに」
「はい」
話が途切れた時、コンラートが私に訊いた。
「妻は、私の名を呼びましたか」
リウドルフも顔を上げる。オットーは、その答えをすでに知っていた。
「3人とも来てほしい、と言いました。腹が立っているうちに、自分で話すと」
「私には、何を」
「来た者に言う、と。最後まで決めませんでした」
コンラートは卓の端を握った。指の節が白くなる。
「待っていましたか」
「ええ。怖がりながら」
リウドルフが横を向いた。妹の死を父へ返す言葉も、自分を許す言葉も出さない。
「どこです。どこに葬られたのです」
コンラートの声が掠れた。
「マインツの聖アルバンに」
彼は二度うなずいた。
「休戦の間に、行けますか」
「行けばよい」
オットーが答えた。父が、夫に娘の墓までの道を開いた。
*
翌朝、私はコンラートとリウドルフを聖アルバンへ案内した。休戦の供が離れて立ち、3人で新しい墓の前へ進む。
コンラートは土の上に膝をついた。父王の前で伏した時には汚さなかった両手を、今度は土へ深く差し入れる。
「仲間を置いていけないと、あの人に言いました」
「聞いていました」
「妻を置いていった男が」
その先は続かなかった。私は赦す言葉を持たない。袖から手袋を出した。
「預かり物です。あの方が、返せと」
コンラートは土のついた手で受け取った。片方だけの手袋の内側に、指の形が残っている。
「対にならない物を持たせておくのは気分が悪い、と仰いました」
赤公は声を立てなかった。手袋を胸へ当て、そのまま長く動かない。
リウドルフは墓の反対側にしゃがみ、まだ名を刻んでいない石に触れた。指先に、土はつかなかった。
「父上が答えないと怒っていたのに、私も妹に何も言わなかった」
「あの方も、腹を立てていました」
「誰に」
「3人ともに。私にも」
リウドルフの口元が動いた。泣き笑いにはならない。
「それなら、妹らしい」
「あの方から、あなたへの言付けがあります」
立ち上がりかけた背が止まった。
「いりません」
「聞くだけです」
「あなたの口から妹を受け取れば、妹まであなたのものになる」
彼は墓へ背を向けた。私は言付けを袖へ戻した。
代わりに、もう一枚の板を出した。
「ユーディトさまの板です。取られた物の数と、名前。あなたに読ませると約束しました」
「いま、ここでですか」
「あなたが、いつ死ぬか分かりませんので」
リウドルフは受け取った。1行目で目が止まり、最後まで黙って読んだ。
「靴が、右だけとは」
「まだ歩けない子です」
「返せません。もう、私の手にもない」
「では、数を覚えてください。返す日が来た時に、勘定が早い」
板を返す指が震えていた。何の震えかは訊かなかった。
*
休戦の期限は、6月半ば。3人がそろう最後の朝まで、最初に外敵へ使いを出した者の名は出なかった。
出たのは、別の名だ。
「ヨハンと申します。私の側から出た案内人です」
リウドルフが馬の前で言った。
「東から、戻っておりません」
「どこまで一緒に行ったのです」
「川までは、確かに。その先は、誰も見ていません」
袖の板に、名を1つ足した。3行が、4行になる。
「期限までに、武器を置け」
オットーが息子に言った。
「父上も包囲を解いてください」
「まだ、答えを求めているのです」
戸が開いた。初夏の光の中で、父は右へ、息子は左へ向かった。2人とも振り返らない。
板には、浅瀬の場所と、戻らない案内人ヨハンの名だけが残った。私はオットーへ渡した。
夫は黙って袖へ入れた。雨のしずくが襟から一筋、首へ入っている。拭おうとした指を、彼がつかんだ。
「冷たい」
「知っています」
握ったまま、オットーは開いた戸の外を見た。
「この先は増やさない」
誓いの言い方ではなかった。だから私も誓わせず、濡れた襟だけを直した。
史実メモ:954年侵入への関与は、王の敵たち、リウドルフ側の案内人、赤公コンラート、反乱側の複数者と史料ごとに割れます。Cinnaでの説明・答弁も一系統の叙述です。本話の直接問答、各人の自己説明、王妃の立会いと墓参許可は創作で、史実上の自白ではありません。




