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第9話 静かな包囲

 包囲というものは、静かに完成する。


 扉の前の籠が、三日前から一つも増えていない。廊下ですれ違う女官が、目を伏せて道の端に寄る。広間の針子たちは、私が通り過ぎるあいだ、針の音だけを立てている。


 誰も、何も言わない。言わないまま、お直し部屋の周りから人が引いていく。潮の引き方に、よく似ていた。


 昼前には、預かっていた繕い物を一件、引き取りたいという文が来た。理由は書いていなかった。書いていないことが、理由だった。


 私は直しかけのその胴着を丁寧に畳み、埃よけの布を掛けて、渡すための棚に置いた。解きかけの糸は、抜かずにおいた。いつか続きを頼まれる日が、来ないとも限らないから。


「あたしの、せいです」


 ポレットが、稽古の針を握ったまま言った。


「あたしが疑われたから、リディアさまが庇ったから、それで、リディアさままで」


「順番が違います。狙われたのが、たまたまあなただった。それだけです」


「あたしが、いなくなれば」ポレットは前掛けの端を握った。「せめて、リディアさまだけでも」


「ポレット」


「……はい」


「その手は、針を覚えはじめた手です。粗末な使い方を、覚えさせないように」


 我ながら、妙ななだめ方だと思った。けれどポレットは前掛けから手を離し、洟をひとつすすって、頷いた。


 一番立場の弱い者に疑いを置けば、誰も検めない。検められない疑いは、事実の顔をして歩き出す。……そういう仕組みを、私はこの半月で覚えた。


 自分の疑いを晴らしたいかと問われれば、正直、どちらでもよかった。断罪令嬢の噂は嘘を混ぜてあるけれど、半分は事実だ。晴れたところで、元の色には戻らない。


 けれど、ポレットは違う。この子にかけられた疑いは、糸の一本まで嘘でできている。嘘の縫い目は、ほどけるうちにほどかなくてはいけない。


 私はそのために動く。そう決めると、手元が静かになった。


    *


 昼過ぎ、久しぶりに籠が一つ届いた。届けに来た侍女には、見覚えがあった。


 メルヴィル伯爵夫人の使いだった。籠の中には仔羊色の手袋がひと組と、折り畳んだ手紙。手袋は右の親指の付け根がほつれていた。よく祈る人の、ほつれ方だった。


『事情は、うかがいません。私が存じているのは、あなたの針のことだけです。——三月のちの約束も、変わらずに』


 読み終えて、私は手袋を裏に返した。ほつれた糸を抜き、同色の絹糸で、指の股に小さな襠——動きの逃げを作る挿し布——を仕込む。同じ場所が、もうほつれないように。


 見てくれる人は、いる。囲みの外に、ちゃんといる。それが分かっていれば、針は止まらない。


    *


 その夜、扉が三度、正確な間で叩かれた。


 開けると、燭台の灯りの外に、アルヴィン・グレイル式典局長が立っていた。狭いお直し部屋の入口で、その人は場違いなほど姿勢がよかった。


「夜分に失礼する。……入っても」


「どうぞ。お茶は、白湯しかありませんが」


「白湯は好きだ。湯の値段で出る」


 冗談なのかどうか判じかねる顔で言う人だった。ポレットが目を丸くして、慌てて湯を沸かしに走った。


 局長は裁ち台の隅に、角のきっちり揃った書類の束を置いた。


「単刀直入に言う。緞子紛失の件、宮内府として明朝、夜明けとともに衣装室の資材監査に入る」


「……明朝、ですか」


「通達は今日の夕、衣装室に出させた。監査の目録も添えてな。——わざとだ」


 灰色の目が、燭台の火を映した。


「叩けば埃の出る者は、監査の前夜に埃を始末する。始末の現場というものは、埃そのものより、よほど雄弁だ」


「今夜、動く、と」


「動く。この半月、そなたの帳面の写しと、庫の納入記録の控えと、表の管理簿を突き合わせた。差し引きの合わない布が、五年で三十反を超える」


 私は少しのあいだ、言葉が出なかった。この人は、あの査問の日からずっと、衣装室の数字を一人で照合し続けていたのだ。


「……いつから、お疑いに」


「そなたの請求書を読んだ日からだ。安すぎる数字は、高すぎる数字の隣に置くと、よく光る」


 それに、と局長は続けた。


「消えたのは、私が発注した仕事の材料だ。式典局の指名仕事に手を突っ込まれて、黙っている道理がない」


「垂れ幕の納期は」


「延ばした。……案ずるのはそこではない、と言いたいところだが」局長はわずかに目を細めた。「騒ぎの最中に仕事の順を案じるのは、悪い癖ではない」


 局長は書類の角を、指一本で、とん、と揃えた。


「言っておくが、見習いを疑ったことは一度もない。帳簿の差し引きは、あの子が衣装室に来る前の年から続いている。読めば済む話だ。読まずに、一番弱い者を差し出して帳尻を合わせる。……使える物と人を、そうやって捨てる」


 声は静かなままだった。静かなまま、その一言だけ、温度が違った。


「私はそれを、許すと決めていない」


 白湯を運んできたポレットが、湯呑みを置く場所を探して、おろおろした。局長は礼を言って受け取り、一口飲んで「熱い」と真顔で言った。ポレットの肩の強張りが、それで少しだけ解けた。


「そなたに頼みがある」局長は湯呑みを置いた。「金の流れは、私が読める。帳簿と記録は式典局で固める。だが、布と縫い目は私には読めない。監査の場で、現物の見分けと縫い目の証しを、そなたが受け持て」


「針側の証拠は私、金側の証拠は局長——ということですね」


「そうだ。……分担だ」


 その言い方が発注書の書式のように四角四面だったので、私は少しだけ笑ってしまった。分担。この王宮に来て、初めてもらう種類の言葉だった。


「見習いの子の処遇は、監査の後、私からも一筆入れる。案ずるな」


 局長は扉口で振り返って、少しの間を置いた。上着の下で、時計の鎖が鈍く光っていた。止まったままの、父君の形見の。組紐は擦り切れたままで——捨てない人は、今夜も捨てないまま歩いている。


「それは、まだ使える。……物にしか言わん言葉だと思っていたが、どうも、そうでもないらしい」


「局長」


「なんだ」


「いいえ。……白湯、またいつでも」


「高くつかんのなら」


 それから局長は、声を一段落とした。


「監査は夜明けだ。だがその前に、今夜。庫の見張りに、そなたの目を借りたい。納められた緞子の見分けは、検分したそなたにしかできない」


「参ります」


 私は帳面——緞子の控えを書いた、あの帳面を胸に抱え、針箱から小鋏だけを袂に移した。針箱の蓋を閉じると、ことり、と小さく鳴った。


 夜の廊下は冷えていた。けれど不思議と、囲まれている気は、もうしなかった。


お読みいただきありがとうございます。

静かな包囲の中、裏でずっと数字を照合していた人がいました。針側と金側、分担成立です。


次話、深夜の焚き口。台帳と、縫い目と、納入記録——三本の糸が、一点で結ばれます。


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― 新着の感想 ―
淑やかでも熱意のある女性が美しくかっこいいと感じました 続きが楽しみです
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