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第8話 縫い目は筆跡

 納入記録の控えは、宝の山だった。ただし、掘るのに時間の要る宝の山だ。


 表の管理簿と突き合わせれば、差は出る。けれど数字の差だけで進めば、責めはまず「庫番の書き違い」に向けられるだろう。三十年、定規のような字を書いてきた人に、罪を運ぶわけにはいかない。


 数字の外の証拠が、要る。


 時は、こちらの味方ではなかった。ロベールは連日、筆頭のもとへ「沙汰はまだか」と催促に通っているという。教えてくれたのはポレットの朋輩の下女で、廊下の噂は、雑用係の耳にいちばん早く落ちてくる。


「三日のうちに沙汰を、って言ってるそうです。リディアさま、三日で、間に合いますか」


「間に合わせます、とは言いません。針は、急かすと曲がるので」


 慌てる針は、結局遠回り。祖母の声で、私は自分の逸る手を諫めた。


    *


 二日後の夕、ギヨムが包みを抱えてやって来た。


「婦人物の外套だ。銀貨二枚だった」


「……安いですね」


「だろう。妹のと並べてみたが、生地は倍は上物だ。露店の親父は『訳あり品だ、詮索するな』とさ」


 裁ち台に、外套を広げる。深い鳶色の羅紗。仕立て下ろし。襟の形も釦の間隔も、今の流行のものだ。古着市に、あっていい品ではない。


 私は燭台を二本、裁ち台の左右に据えた。影が二重にならない角度に。それからルーペを取り、まずは素手の指先で、縫い目を端から端までなぞる。目より先に、指が覚えていることがあるからだ。


 布を鑑るのではない。縫い目を、読む。


 まず、裏。玉結び——糸の始まりの結び玉——が、どこにも見えない。布と布の間に沈めて隠す始末だ。町場の仕立てはここまでしない。手間ばかりかかって、着る人の目にも触れないからだ。これは、検品の目のある場所の作法。


 絎けの針目は、一寸に八つ。狂いなく揃っている。裏地の返し口——布をひっくり返すために残す縫い残しの口も、閉じ方に見覚えがあった。


 私は読んだ端から、帳面に写していった。針目の数、糸の撚り、癖の出る場所。縫い目の証言は、書き留めて初めて、誰の目にも見える証拠になる。


 短く、息を置いた。


 王宮の作法だ。


 衣装室の、手だ。


 生地だけでは、なかった。盗んだ布を、衣装室の針で仕立て上げて、「新品」として城下に流している。横流しは反物ではなく、仕立て済みでも行われていた——それなら、緞子のような上物ばかり狙う理由も、帳面の上の静かな盗みも、一本の糸でつながる。


 私はルーペを持ち直した。ここからが、本番だった。どこの手か、ではない。誰の手か。


 縫い目は、針子の筆跡。運針の速さ、糸を締める強さ、返し針の癖、疲れの出る場所。同じ師に習っても、同じ手には決してならない。嘘の縫い目はない——祖母はそう言って、幼い私に縫い目を読ませた。


 町の針子だった祖母が、どこで、誰の縫い目を読んで、この目を育てたのだろう。……今になって、ふと思う。


「リディアさま、あたしにも、見せてください」


 覗き込んだポレットが、ふいに真顔になった。袖の縫い目を、目でなぞる。指が宙で、すー、とん、と動く。


「……この人、三針ごとに息継ぎします。すー、すー、すー、とん、って。広間で見たことあります。窓際の、三番の台の——コリンヌさんだ」


「確かですか」


「手は、間違えません」


 読み書きはまだ覚束ない子の、その手だけは、誰よりも確かだった。それでも、証拠にするなら裏を取る。


 衣装室の仕立て物には、襟の裏に小さな仕立て札が縫い込まれている。仕立てた年と、縫い手の名。私は三年分の山から、札に同じ名のある女官服を探し出して、燭台の下で袖と袖を突き合わせた。


 三針ごとの、小さな息継ぎ。糸の締めの、わずかな緩み。——同じ筆跡だった。


 ポレットの手は正しかった。そして皮肉なことに、古着市の「新品」にだけは、その札がなかった。名を残せない仕立てなのだと、縫わせた側がいちばんよく知っていたのだ。


    *


 コリンヌは、広間でも若い方の針子だった。夕刻の水汲みの刻限を狙って、洗い場の陰で待った。


 外套を見せると、彼女は棒立ちになり、それから、糸が切れるように頽れた。


「……言えなかったんです。次席様が、夜に布を持ってきて。朝までに縫えって。断ったら、田舎の口利きを取り消すって。あたしの弟と妹、次席様の口利きで奉公に上がっていて……」


「縫い上がりは、どこへ」


「洗い場の裏口に。外の男の人が、取りに来ます。顔は頭巾で見えません。ただ、荷を受け取ると、いつも同じことを言うんです。——『旦那によろしく』って」


「旦那、というのは、次席のことですか」


「分かりません。でも……次席様のことは、あの人たち、『番頭さん』って呼んでました」


 番頭。店の帳場を預かる者の呼び名だ。番頭がいるなら、その上に、旦那がいる。


「……最初は、端切れの持ち出しくらいに思ってたんです。でも反物が来て、寸法書きが来て。夜中にひとりで縫っていると、自分の縫い目が、自分の罪状を書いてるみたいで」


 縫い目は、筆跡。この人はこの人なりに、同じことを知っていたのだ。


「あたし、どうなるんですか。盗んだ布って、途中から気づいてて、それでも縫って……」


「脅されて縫わされた人と、脅して縫わせた人を、帳面は分けて書けます。あなたの縫い目が、あなたを助けます。……その時が来たら、今の話を、そのまま話してください。それまでは誰にも言わず、いつも通りに」


 コリンヌは、濡れた目のまま、何度も頷いた。


    *


 その時は、すぐには来なかった。先に来たのは、別のものだった。


 翌朝、広間の前を通ると、囁きの質が変わっていた。


「……ねえ。あの人、やっぱりあの、婚約破棄の」


「殿下に捨てられた、断罪の令嬢でしょう……」


「次席様が仰ってたわ。見習いを庇うのも、王家への意趣返しだろうって。……こわい」


 出所の分かりやすい噂だった。事実に嘘を一滴垂らすと、こういう色になる。染みと同じで、広がるのは一晩あれば足りる。


 広間の窓際、三番の台。コリンヌだけが、俯いたまま、針を強く握りしめていた。私は目を合わせずに通り過ぎた。今は、それがあの人を守る歩き方だった。


 お直し部屋に戻ると、ポレットが石盤を抱えたまま、唇を噛んで立っていた。


「リディアさま。あの、あたし、広間の子に聞きました。リディアさまのこと、みんなが……あたしのせいで、リディアさままで」


「ポレット。今日の字は『いと』の『と』です」


「……でも」


「針を十、それから字を一つ。約束は、変わりません」


 私は繕い籠から預かり物の膝掛けを取り、破れの裏に当て布をあてて、細かい針目で叩くように留めはじめた。囁きは、針を止める理由にならない。


 布の上を針の背がこつ、こつ、と渡っていく音だけが、しばらく部屋にしていた。


お読みいただきありがとうございます。

祖母の教え「縫い目は筆跡」が、初めて武器になった回でした。ポレットの耳と手も、いい仕事をしています。


次話、噂の包囲は静かに狭まります。——それでも夜のお直し部屋の扉を、叩く人がいます。


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