第10話 お直し部屋に借りができた
物品庫の裏手に、焚き口がある。冬のあいだ、庫の湿気を払うための竈だ。
その焚き口の見えるところに、私たちは灯りを持たずに立っていた。私と、アルヴィン局長と、近衛が四人。ギヨムの姿もあった。庫の脇の暗がりには、鍵の束を握ったゴットフリートが、彫像のように立っていた。
誰も、口を利かない。
真夜中を過ぎて、足音が来た。
手燭の明かりが一つ。荷を担いだ下男がひとり。その後ろに、撫でつけた髪。
ロベールだった。
下男が焚き口の前に荷を下ろす。荷布が解かれて、布の巻きが三本、転がり出た。ロベールは懐から、綴じ紙の束を出した。管理簿から抜き取った頁だと、遠目にも分かった。綴じ穴のところが、破れていたから。
最初の一枚が、火口に載せられた。
「そこまでです」
局長の声は、大きくなかった。ただ、夜に対してまっすぐだった。近衛の持つ覆い付きの角灯が、一斉に開く。光の輪の中で、ロベールの手が、紙をつまんだまま止まっていた。
「……これは、局長どの。夜分に、お揃いで」
「監査は明朝と通達した。ずいぶんと、早いお支度だ」
「は。監査の前に、不用の反故を検分して焼き捨てておこうと。次席の職務のうちで、ございます」
「職務」局長は、焚き口の脇の布を見た。「では、その布も反故か」
「これは、虫の入った傷み物で」
「お直し係」
呼ばれて、私は進み出た。膝をつき、角灯を借りて、一番上の巻きの耳——布の織り端を検める。
朱の房糸。右の耳に、織り傷が一寸。
私は帳面を開いて、掲げた。
「式典局納入の金糸緞子。納入検分の控えと、耳の印が一致します。——虫は、入っておりません」
ロベールの指から、紙が落ちた。火の入っていない焚き口の前で、それはもう反故ではなく、ただの証拠だった。
*
夜が明けて、縫製の広間に、長い裁ち台が三つ並べられた。
一つ目の台には、帳簿。表の管理簿と、庫の納入記録の控えと、式典局の写し。二つ目の台には、焚き口から戻った布。三つ目の台には、一着の婦人外套と、私の帳面。
監査の座で、局長は数字だけを読み上げた。声を張らず、淡々と。
「東翼詰め女官の冬のお仕着せ、十二着。管理簿は羅紗三反の払い出し。仕立てに要る量、二反。差、一反。——同様の差し引き、五年で三十七件。布にして三十二反相当」
「納入の控えには、入った品が入った通りに書いてある。三十年、同じ一つの手でな」
ゴットフリートは座の隅で身じろぎもしなかった。定規のような字の並ぶ古い綴じ帳が、老人の代わりに口を利いていた。
三つ目の台の前で、局長は私を見た。
「縫い目の証しを」
私は外套を裏に返し、燭台とルーペを引き寄せた。広間の針子たちが、息を詰めるのが分かった。
「玉結びを布の間に沈める始末。絎けは一寸に八目。——王宮衣装室の作法です。この外套は城下の古着市で、仕立て下ろしの『新品』として、銀貨二枚で売られていました。縫ったのは」
顔を上げる。短く。
「この広間の、針の一つです。ご本人から、申し出があります」
コリンヌが、進み出た。青い顔で、それでも、自分の足で。
布を持って来た人の名。縫わされた夜の数。洗い場の裏口。頭巾の男。『旦那によろしく』。途切れ途切れの証言が終わるまで、広間には衣擦れの音ひとつしなかった。
帳簿の差し引き。納入記録の控え。そして、縫い目。
別々の場所で張られた三本の糸は、引き絞ってみれば、初めからただ一点に縫い付いていた——次席、ロベール。
「な……にを、仰いますやら。私は管理を預かっただけで、記帳は書き役が」
「書き役の筆跡と、指図書の筆跡は検めさせた」局長は書類の角を、指一本で揃えた。「筆跡というのは、便利なものでな。……筆でも、針でも」
ロベールはまだ何か言っていたが、言葉はもう誰にも届いていなかった。近衛に挟まれて広間を出ていくとき、彼は最後に私を見て、口の端だけで笑おうとして——失敗した。
座が解かれる間際、局長は一つだけ付け加えた。
「なお、横流し品の卸先は目下追跡中である。金の行き着く口は、城に出入りする御用商人、というところまでは割れている。以上だ」
御用商人。城に、出入りする。その先はまだ闇の中ということだ。私は帳面の隅に、糸の切れ端を書き留めた。切れ端は、捨てない。いつか継ぐ日が来る。
*
沙汰は早かった。ロベールは職を解かれて身柄は法務方へ。コリンヌは「脅されての加担」として、格下げの上で針を続けることを許された。ポレットの疑いは、ひとことで言えば、なかったことになった。
そして、お直し部屋のことは、どこにも書かれなかった。
監査は宮内府式典局の成果として記録され、緞子の見分けも縫い目の証しも、書き付けの上では「監査の一部」だった。私の名は出ない。初めから、そういう扱いになると聞いていたし、それでよかった。
夕刻、廊下でマダム・ジョゼットとすれ違った。マダムは足を止め、私を頭のてっぺんから針箱まで眺めて、それから、ほんのわずかに顎を引いた。目礼、と呼んでいいものだった。たぶん。
「勘違いなさらぬよう。直しが貧乏くさいという考えは、変えておりません」
「はい」
「ですが」マダムは正面を向いたまま言った。「衣装室は、お直し部屋に借りができました。私は、借りを踏み倒す主義ではないの。……それだけです」
銀灰色の髪が、廊下の角に消えた。広間の前を通ると、針子たちの針は止まらなかった。代わりにいくつかの目がこちらを見て、少しだけ笑った。囁きは、もう聞こえなかった。
*
お直し部屋では、ポレットが裁ち台を拭いて待っていた。拭き終わった台を、もう一度端から拭いていた。
「明日から、仕事に戻れるそうです」
「よかった」
「……リディアさま。あたし、預かりのあいだ、ずっと考えてたんです」
ポレットは前掛けの端を、ぎゅっと握った。最初の日に私が直した、あの前掛けだ。
「あたし、捨てられなかったの、初めてで。疑われたのに、庇ってもらって、字も、針も……。だから、あの。雑用の合間の一針じゃ、もう足りないんです」
息を吸って、頭を下げた。つむじが見えた。
「お針を、あたしの一生の仕事にさせてください。弟子に、してください……!」
語尾が涙で崩れて、最後はほとんど聞き取れなかった。聞き取れなくても、分かった。
「顔を上げなさい、ポレット」
そばかすの顔が、ぐしゃぐしゃのまま上がる。
「明日から、毎日十針。字は二つ。弟子は、雑用係より覚えることが多いんです」
「……はいっ! はい、リディアさまっ」
*
その夜、部屋に一人になってから、私は燭台を壁の羽目板に近づけた。
歴代のお直し係の、小さな刺繍印の列。糸車、鋏、花。一番古い端に、褪せた銀糸の指貫。
勤め上げた者だけが、去り際に一つ刺していく——そういう決まりだと、ゴットフリートは言った。私はまだ去らない。けれど今夜だけは、ここに印を置くことを許してもらえる気がした。この部屋で勤め上げる、と決めた夜だから。逃げないための、しつけ糸のようなものだ。
図案は決めてあった。糸の通った針。針一本では、まだ何も縫えない。糸が通って、初めて仕事が始まる。
糸は、青い絹糸を選んだ。あの一晩の、青。
羽目板の古い布地の、一番新しい端に、小さく小さく針を潜らせる。銀糸の指貫の印から見れば、列のいちばん遠い席だ。それでも、同じ一列だった。
——おばあさま。私、ここでやっていくようです。
最後のひと針を留めて、糸を小鋏で切る。
ちん、と澄んだ音が、夜のお直し部屋に響いて、消えた。
お読みいただきありがとうございます。
台帳と、縫い目と、納入記録。三本の糸の結び目の回でした。お直し部屋の壁に、印がひとつ増えています。
次話——王子の新しい婚約者様が、衣装室に「ご挨拶」にいらっしゃるそうです。
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