第84話 背中は、自分で直せない
「勝手に上がった」
オデットは、戸口でそう言った。
「下に誰もいなかったからね。声は掛けたよ」
「聞こえませんでした。申し訳ありません」
「謝ることじゃない」
私は解きかけの銀鼠を台に置いたまま、立った。ポレットが慌てて椅子を運んできた。
「座らないよ」
「お座りください」
「……あんた、去年もそれ言ったね」
オデットは、少し間を置いてから、座った。膝の上に、藍の包みが置かれた。しばらく、誰も何も言わなかった。
私は待った。この人は、言いたいことを最初に言う人だ。言わないのなら、まだ決めかねている。
「……あのさ」
オデットが口を開いた。
「これ、直してほしいんだけど」
包みを開くと、上っ張りが一枚出てきた。藍の厚手の木綿。丈が短い。仕事着だ。
私は、それを手に取った瞬間に、いくつかのことが分かった。
古い。二十年や三十年ではきかない。生地の目がほとんど潰れていて、藍がほぼ抜けている。抜けたところが、うっすら白い。
そして、直してある。
*
数えた。
肩に当てが二枚。肘に四枚。前立てに三枚。袖口に二枚。裾に一枚。
十二枚の当てが、入っていた。
どれも違う布だった。藍、紺、鼠、茶。手元にあったものを使ったのだろう。色を合わせる余裕のない直し方だ。
だが、どの当ても、角が丸く落としてある。どの当ても、三辺を先に止めて、最後の一辺を布を送りながら止めてある。
私は、その止め方を知っている。
「三十四年、着てる」
オデットが言った。
「母親のだった。あたしが十六のとき、あたしの寸法に直した。……初めて自分で直した一着だよ」
「はい」
「丈を五寸詰めて、身幅を三寸入れた。あのころは、そんなもんしか直せなかったからね」
私は、裾の折り返しを開いてみた。
詰めた五寸は、切り落としていない。内側に畳み込んである。三十四年、そこに畳まれたままだ。
「切っておられませんね」
「切れなかったんだよ。切ったら、もう戻せないだろ」
「どこを直しましょうか」
私は訊いた。オデットは、上っ張りを指で示した。
「肩は自分でやった。肘も。前立ても、袖口も、裾も」
「はい」
「全部、自分でやった。三十四年」
「はい」
指が、止まった。
「背中が、届かない」
私は、上っ張りを裏返した。
背の中心。肩甲骨のあいだの、少し下。
そこに、擦れがあった。
椅子の背に当たるところだ。座って仕事をする人は、必ずここが擦れる。擦れて、薄くなって、いつか抜ける。
抜けかけていた。
周りに、当てが無い。十二枚のどれも、ここには入っていない。
*
「着たまま、手が回らないんだよ」
オデットが言った。
「脱いで、裏返して、やってみたことはある。何度もね。……でも、背中は、自分の目で見ながら縫えない」
「はい」
「鏡でやろうとしたら、逆になって、余計おかしくなった」
「なります」
「なるだろ」
オデットは、そこで少し笑った。笑って、すぐ真面目な顔に戻った。
「三十四年、放ってある」
*
私は、当て布を選んだ。抜けた藍に合う色は、手元に無い。三十四年で褪せた藍と同じ色は、どこにも売っていない。
「色は、合いません」
「合わなくていい」
「ほかの十二枚も、合っておりません」
「そうだよ」
「では、合わせません」
私は、端切れの籠からいちばん近い紺を取って、当てに裁った。角を丸く落とした。
「そっちじゃない」
オデットが言った。
「当ては、外からじゃなくて、裏から入れな」
「裏から、ですか」
「表から当てると、椅子に当たるところに段ができる。段は、そこからまた擦れる」
「……はい」
「裏から入れて、表は目だけで伏せる。目は粗く。あんた、細かすぎるからね」
去年の夏、この人は私の見本を見て同じことを言った。
「粗く、と申しますと」
「三分に一目」
「二分ではなく」
「三分。仕事着だよ。洗う。細かいと、洗うたびに糸が切れる」
私は、裏から当てを入れた。
三辺を先に止めて、最後の一辺を送りながら止める。この止め方を、私は祖母に習った。この人は、誰に習ったのだろう。
訊かなかった。表から伏せるとき、オデットが台の反対側に来た。来て、上っ張りの端を持った。
「引くよ」
「お願いします」
二人で布を張って、私が縫った。縫っているあいだ、どちらも喋らなかった。
一度だけ、オデットが手を動かした。私が目を詰めそうになったところで、布をわずかに緩めた。緩めば、目は粗くなる。
言葉で言わずに、布で言われた。
私は、そのまま三分に一目で進めた。
*
終わるまで、一刻半かかった。私は糸を切って、上っ張りを表に返した。返して、広げて、二人で見た。
紺の当ては、褪せた藍の上で、はっきり浮いていた。
浮いていたが、段は出ていなかった。
オデットは、しばらく見ていた。それから、着てみた。背中に手を回して、届かないところを、掌で押さえた。
「……当たらない」
「当たりません」
勘定を書いた。銀貨一枚と銅貨二枚。値表の値だ。
オデットは、それを見て、懐から布の財布を出した。出して、中を見て、それから帳面を出した。
直し賃を書き付けるときに、この人は指を舐めてから帳面をめくる。めくって、書いて、それから顔を上げた。
「あんた」
「はい」
「……師匠に似てないね」
*
私は、その言い方に、しばらく黙った。
一昨年の秋、会館でヴァレンタン殿に同じことを言われた。あなたは、師に似ていない。
あのときは、突き放された言葉として聞いた。今度は、違って聞こえた。
「似ておりませんか」
「似てない」
オデットは、上っ張りの背を、もう一度手で探った。
「あたしの母親も、似てなかった。母親の母親にも」
「はい」
「みんな、違う手だよ。同じなのは、直すってことだけだ」
包みを抱えて、オデットは立った。立って、戸口まで行って、それから振り返らずに言った。
「あのさ」
「はい」
「建議、出すわ」
私は、針箱に手を置いたまま、顔を上げた。
「撤回じゃないよ。あれは撤回しない。あたしが出したもんだ」
「はい」
「但し書きに、但し書きを足す」
*
「直しの位の者が新調を請けるときは、直しの作法で仕立てること。縫い代を一寸。札を大きく。寸法帳を付ける」
オデットは、指を三本立てた。私が去年、馬車の中で立てたのと同じ三本だった。
「それをやるなら、請けていい。やらないなら、請けちゃいけない」
「……それでは」
「それでな、その作法の新調には、別の値を立てる」
オデットは、そこで初めてこちらを見た。
「直し料とは別だ。安くしない。安くしなけりゃ、あたしらの値は薄まらない」
「なぜ」
私は訊いた。訊いてから、余計なことを訊いたと思った。オデットは、少し考えた。
「あんた、背中を直してくれただろ」
「はい」
「三十四年、放ってあったところだ。……あたしは、あそこだけは、どうやっても自分で直せない」
包みを抱え直した。
「誰でも、一つはあるんだよ。自分で届かないとこが」
足音が階段を下りていって、聞こえなくなった。ポレットが、台の向こうから小さな声で言った。
「頭。あの人、誰ですか」
「……お客様です」
「この前も、そう言いました」
「はい」
私は針箱の蓋を閉めた。
閉めた蓋の上に、当て布に使った紺の端切れが一枚、残っていた。
お読みいただきありがとうございます。
誰でも、一つはあるのだそうです。自分の手が、どうしても届かないところが。
次話——理事会が、春の終わりに議を立てます。
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