第85話 御成婚
『作法の条』が通ったのは、春の終わりの理事会だった。
規約第二条の四つ目の但し書きに、但し書きが一つ付いた。
直しの位を有する者、直しの作法をもって仕立つるときは、新調を請くるを妨げず。作法とは、縫い代一寸を残し、襟裏の札を大きく取り、寸法帳を添ふるをいふ。この作法の新調には、別に値を立つ。
撤回ではない。細則は残った。残ったまま、通る道が一本できた。値表に値が載ったのは、その半月あとだった。
値が載ると、工房が動いた。
去年の初夏に私が訪ねた三軒のうち、三軒目——最後まで話を聞いて、「その仕立ては、組合の値表にございません」と言った工房が、御衣装の下命を引き取った。
断られた理由が、そのまま、請けられる理由になった。
*
支度は、夏と秋をまるごと使った。
銀鼠を解いたのは、六月だ。脇、肩、袖付け、衿。一目ずつほどいて、平らな布に戻して、洗い張りにかけた。アネットが板に張った。三十年目の絹は、張ってみると、思ったより丈夫だった。
解いた布は、工房へ渡した。渡す前に、どこがどの部位から出たものかを、全部紙に書いた。
七月から九月まで、工房が裁って縫った。私は月に二度、検分に呼ばれた。呼ばれて、見て、二度だけ口を出した。一度は裾の引きの裏の継ぎ方、もう一度は縫い代の逃がし方だった。
どちらも、工房の親方が先に気づいていた。気づいていて、私に言わせた。そういうやり方をする人だった。
寸法帳は、私が書いた。三十七行になった。
どの部位がどの布から出たか。銀鼠だった部分はどこか。縫い代は何寸取ってあるか。どこを出せば、何寸まで出るか。裾の引きの裏に、白の違う継ぎが一か所あること。その継ぎは、光の向きによっては見えること。
最後の一行だけ、書くのに時間がかかった。
『この一着は、二度目である』
御成婚は、初冬の十日だった。
朝から雪が降った。北は雪の前に輿入れを済ませるというが、王都のほうが先に降った。私は、着装の間にいた。
縫ったのは工房だ。私は修繕方の頭として、着装に立ち会うだけだった。何かあったときに直す人間が、そこにいるというだけの役だ。
その役でいい、と私は思っていた。
御衣装は、白かった。
南の絹七反の白と、銀鼠だった布の白が、一着の中で並んでいる。
離れて見ると、色は揃っている。近づくと、わずかに違う。銀鼠だったところは、光の当たり方で、まだ少しだけ銀に見える。
揃えようとして揃わなかったのではない。揃えなかった。
隠す継ぎと、隠さない継ぎがある。これは、隠さないほうだ。
「お直し係」
殿下が、衝立の向こうから仰った。
「はい」
「これ、階段で踏むかしら」
「踏まれます」
「あら」
「踏んでいただいて構いません。裾の引きは、踏まれるように作ってあります。踏まれたところは、直せます」
少し間があった。
「……そう」
衝立が開いた。
*
殿下は、二年前に階段の上に立った方と、やはり同じ人には見えなかった。背が伸びた。肩が決まった。顔つきが変わった。
変わっていないのは、袖に手を触れる癖だけだった。
「重いわ」
「北の外套を重ねると、もう少し重くなります」
「立っていられますかしら」
「立っていられます。肩で受けずに、腰で受けてください。祖母が、そう申しておりました」
「あなたのおばあさまは、ずいぶんいろいろ仰るのね」
「ずいぶん仰いました」
*
着装が済んで、儀の刻限まで、四半刻あった。私は、最後に衿の裏を返した。
札がある。工房の親方の名と、年と、それから小さく一行。
『銀鼠の一着より、二度目』
札は、大きめに取ってある。あと四行か五行、書ける余白がある。
「殿下」
「なあに」
「この札の下に、余白がございます」
「ええ」
「次にどなたかが直したとき、その方が名を書けるようにしてあります」
殿下は、鏡の中でこちらを見た。
「では、埋まりますわね。いつか」
「埋まると、よろしいのですが」
「埋まるわよ」
殿下は、前を向かれた。
「北は、冬が長いのでしょう。長い冬に、人は少し肉が付くのですって」
*
北の衣装方の者が来たのは、儀が済んだあとだった。
五十がらみの女で、王国語が少し訛っていた。輿入れに随って、これから北へ戻る。私は寸法帳を渡した。
その人は、三十七行を、立ったまま最後まで読んだ。途中で一度、指を止めた。裾の引きの裏の継ぎのところだった。
「……ここ、白が違うと」
「違います」
「直したのですか」
「新しく仕立てました。ただ、布は二種です」
その人は、寸法帳から顔を上げた。
「では、なぜ書くのです。書かなければ、分かりません」
「分からないと、次に直す方が困ります」
*
しばらく、その人は黙っていた。それから、寸法帳を両手で持ち直した。
「……北には、こういう紙が付いてきたことは、ございません」
「そうですか」
「衣装は、来ます。紙は、来ません。だから、解くのが怖い。解いて戻せなかったら、誰の責になるか分かりませんので」
「はい」
「これがあれば、解けます」
その人は、寸法帳を胸の高さで持った。
「預かります」
雪は、夕方には止んだ。宮の庭に、うっすら積もった。積もったところを、儀に出た人々が踏んで帰っていった。
私は着装の間を片付けて、修繕方へ戻った。戻って、帳面に一行書いた。
『御婚礼の御衣装、納め。寸法帳一部、北の衣装方へ渡す』
それだけだ。
この一年半のことを書くのに、一行で足りた。
局長が来たのは、その夜だった。
手ぶらだった。この人が手ぶらで来るのは、一年半ぶりだ。
「終わったな」
「終わりました」
「そなたは、一針も縫っておらんな」
「縫っておりません」
「それでいいのか」
「いいえ」
私は正直に言った。
「縫いたかったです」
局長が、少し笑った。
「一つ、申し上げます」
私は言った。
「去年の夏、あなたは正しいことを仰いました。あの子一人のために五十八人を賭けるな、と」
「言った」
「私は納得しませんでした。一年あまり、納得しないままでした」
「知っている」
「いまは、納得しております」
局長が、こちらを見た。
「理由を申し上げます」
「あのとき、私は二つしか道が無いと思っておりました。賭けるか、諦めるか」
「ああ」
「三つ目がありました。三つ目を出したのは、私ではありません。オデットさんです」
「……そうだな」
「私は、三つ目を出せる人を、探していませんでした。探すかわりに、正面から詰めて、負けました」
私は、そこで一度、息を継いだ。
「あなたが止めてくださらなければ、私は建議を出して、議を割って、五十八人の位を揺らしておりました。揺らしたあとで、オデットさんに会っていたら」
「会えんだろうな」
「会えません」
局長は、しばらく何も言わなかった。それから、いつもの実務の声で言った。
「納得したのなら、帳面を書き直す」
「何を、でしょうか」
「待たされる、と書いた欄だ」
私は、その欄を見たことがない。見たことはないが、たぶん本当に書いてあるのだと思う。この人は、そういうところは嘘をつかない。
「消さないでください」
「なぜだ」
「消すと、次の代の者が別のものを消します」
局長が、笑った。声を出して笑うのを、私は数えるほどしか見ていない。
「……儀典方の受け売りだな」
「はい」
「リディア・アシュフォード」
名前が、呼ばれた。五度目だった。
「春だ」
「春です」
*
局長が帰ったあと、私は棚から畳紙を下ろした。一年半、上げたままだった。
台に広げて、六枚を並べた。裁ち端のほつれは、去年の秋に止めてある。止めたところは、まだ生きている。
私は鋏を出した。
裁つためではない。裁ち端の、三十年前の入れ止め——半寸のところで刃が離れた、あの一か所。
そこから先を、続けて裁つためだ。
お読みいただきありがとうございます。
隠す継ぎと、隠さない継ぎがあります。あの一着は、隠さないほうでした。
次話——裁ち置きに、もう一度、鋏が入ります。




