第83話 名を、残すようになりました
東の国の船は、冬に来る。
行きは夏の風で出て、帰りは冬の風で戻る。去年、ゼイナがそう言っていた。だから、東からの荷が王都に着くのは、いつも年の変わり目あたりになる。
その荷の中に、宮廷修繕方あての箱が一つあった。
*
箱そのものが、まず傷んでいた。
桐の箱を、藍の裂で包んである。包み方は東の結び方で、結び目が平らになるように畳んであった。平らな結び目は、荷の下に積んでも中を押さえない。理に適っている。
その裂が、潮気でやられていた。
白い粉が、縦の筋になって浮いている。指で触ると、ざらつく。張り絹だ。去年、私はこの織を五日かけて覚えた。経に生糸、緯に練った絹。織り上げてから糊を引いて張る。糊が張りそのものだから、潮気が入ると糊が斑に動く。
包みの裂まで張り絹を使う国なのだ、と私は思った。
「これ、洗えるんですか」
ポレットが訊いた。
「洗えません。糊が落ちます」
「じゃあ、どうするんですか」
「糊を、足します」
私は庫から糊の壺を出した。去年、ゼイナに作り方を教わって、自分で炊いたものだ。米の粉を水で溶いて、弱い火で練る。濃いと板になる。薄いと張らない。
「触ってごらんなさい」
ポレットが指に取った。
「……耳たぶ、くらい」
「そうです。その硬さで止めます」
*
刷毛で、筋の出たところだけに引いた。
全体に引くと、引いたところと引かないところで光が変わる。斑になったところだけを、周りとつながるように薄く引き伸ばす。
引いたら、平らな板に伸ばして、押さえずに乾かす。押さえると、押さえた形で固まる。
乾くまでのあいだに、包みの結び目の跡も直した。長く結ばれていた布は、結び目のところで繊維が潰れる。潰れた繊維は、湿して、指の腹で撫でて起こす。爪を立てると切れる。
半日で、筋は見えなくなった。見えなくなっただけで、無くなってはいない。潮を吸った糸は、吸う前には戻らない。
ゼイナが来たのは、その翌日だった。
紺の装いは去年と同じだった。指が太いのも同じだ。違うのは、通詞を連れていないことと、王国語が少しだけ速くなっていることだった。
「お直し係」
ゼイナは、私をそう呼ぶ。
「宮廷修繕方の頭です」
「聞きました。位が、変わった」
「変わりました」
「では、頭」
ゼイナは、それきり言い直さなかった。呼び名を変えることに、あまり意味を置かない人だ。
「箱は、見ましたか」
「包みの裂を直しました」
「裂を」
「筋が出ておりましたので」
ゼイナは、板の上の裂を見た。屈んで、目を近づけて、それから指で撫でた。
「……糊を、足したか」
「足しました」
「薄い」
「薄くしました。濃いと、そこだけ硬くなりますので」
ゼイナは、しばらく撫でていた。
「去年、私が教えた。一度だけ」
「はい」
「一度で、これか」
それは、ほめ言葉だったのだと思う。この人はほめるとき、必ず短くなる。
箱の中身は、二つだった。一つは、張り絹の端裂が一巻き。太妃からの贈り物だという。藍の、上物だった。
もう一つは、言伝だった。
ゼイナが懐から紙を出して、読んだ。読んだというより、覚えてきたものを紙で確かめながら言った、という言い方が近い。
「太妃様より。——三十年前の一着は、いま、私の寝間に掛けてあります。着ることはありません。もう着られる身体ではありませんので」
私は黙って聞いていた。
「けれど、朝に一度、見ます。見て、裏襟をめくります。あそこに、直した人の名の代わりの印があると知ってから、毎朝、そうしています」
「私が死んだら、あの一着は焼かずに、次の誰かへ渡します。渡すときに、印のことを伝えます。伝えれば、次の人も、朝にめくるでしょう」
ゼイナは、そこで紙を畳んだ。
「以上です」
私は、少し返事が遅れた。
「……ありがとうございます、とお伝えください」
「伝えます」
「一つ、こちらからも」
ゼイナが言った。
「東では、直した者の名を、残すようになりました」
私は顔を上げた。
「宮の仕立てだけです。まだ、町では残しません。……けれど、宮の衣装方は、去年から札を入れます」
「どのような札でしょうか」
「小さい。裏襟。年と、名前」
ゼイナは、自分の衿の裏を指で示した。
「こちらの真似です」
「真似ではありません」
「真似です」
ゼイナは、少し口の端を上げた。
「よい真似です」
*
昼を挟んで、私はゼイナに銀鼠を見せた。
解く算段の紙も見せた。ゼイナは紙を読めないので、私が一つずつ指で示した。ここを解いて、ここが身頃に、ここは裾の内側に回る。
ゼイナは、しばらく黙っていた。
「これは、直しか」
「新しく仕立てます」
「布は、古い」
「布は古いです。仕立ては新しくなります」
ゼイナは、腕を組んだ。
「東に、言葉がある」
「はい」
「解いて、縫い直したものを、『二度目の衣』と呼ぶ。……直しとは言わない。新しいとも言わない。二度目、と言う」
私は、その言葉を、口の中で一度繰り返した。
二度目。
「三度目もありますか」
「ある」
「何度まで」
「数える言葉がない」
ゼイナは、そこで初めて笑った。声は出さなかった。
「布が、続くかぎり」
*
帰る前の日、ゼイナは修繕方の仕事を半日見ていた。
コリンヌの敷物の裏返しを見て、房の付け替えのところで一度だけ口を出した。房は、四辺の角から付けると揃う。辺の途中から始めると、角で数が合わなくなる。
コリンヌが「はい」と言って、やり直した。ゼイナは、それ以上何も言わなかった。
ポレットの稽古の裁ちも見た。こちらには何も言わなかった。あとで私に、一言だけ言った。
「あの子は、鋏がいい」
「はい」
「手は、教わった形をしている。……誰に教わったかが、見える」
*
ゼイナは、三日で帰っていった。
帰る前に、張り絹の端裂の使い方を一つだけ教えていった。潮でやられた張り絹は、糊を足しても元の張りには戻らない。だが、裏に薄い絹を一枚添えて、二枚で一枚として扱えば、張りは戻る。
二枚で一枚として扱う。
添える絹は、薄ければ薄いほどいい。厚いと、二枚のあいだで力が食い違って、しまいに表が波打つ。裏の絹は、糊を引かずに、縁だけを浅くまつる。面で留めると、張りが死ぬ。
私は、その手順を帳面に書き留めた。祖母のノートに無い頁が、また一枚増えた。
*
冬が明けかけたころ、城下から人が来た。
昼過ぎで、私は銀鼠の解きにかかっていた。脇の縫い目を、上から一目ずつほどいていた。
階段を上がってくる足音が、重かった。ポレットのでもコリンヌのでもない。書役のでもない。
顔を上げると、戸口に人が立っていた。
荒れた手に、藍の包みを一つ提げていた。
お読みいただきありがとうございます。
解いて縫い直したものを、東では『二度目の衣』と呼ぶそうです。三度目もあり、数える言葉はないそうです。
次話——城下から、人が来ます。
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