第82話 新しく仕立てること
儀典方の卓に、三冊が並んでいた。
婚礼令の正本。古い式次第の写し。それから、控えの綴り。
ベルナール殿は、控えの綴りの最後の頁を開いて、そこに一筆書かれるところだった。書役が二人、脇に立っている。私は少し離れて立っていた。
「頭殿。近くへ」
*
付されたのは、四行だった。
婚礼令九条につき。正本の当該頁は、後年に差し替えられたるものと認む。綴じ穴の数、紙質、厚みにより。原初の条は古式次第の写しに拠り『御婚礼の御衣装は、新調に限る』の一行なり。
それだけだった。
「これは、条文の書き替えでしょうか」
私は訊いた。
「いいえ」
ベルナール殿は筆を置かれた。
「正本の条は、そのままでございます。二行のまま残ります」
「では、何が変わりますか」
「読み方でございます」
「儀典方が式を運ぶとき、拠るのは正本でございます。正本には二行ある。ですが、控えに『二行目は後年のもの』と付してございますと、儀典方はそれを知ったうえで運ぶことになります」
「知ったうえで、とは」
「二行目を、原初の条と同じ重さでは扱わぬ、ということでございます」
「消すのではなく」
「消しません。消せば、次の代の者が別のものを消します」
去年、この方は同じことを仰った。情を挟めば、次の代の者が別の情を挟む。消すことも、同じだった。
「では、九条は」
私は訊いた。
「原初の条として読めば、一行でございます」
ベルナール殿は、古い写しのほうを指で押さえた。
『御婚礼の御衣装は、新調に限る』
私は、その一行を見た。
春から半年、私はこの一行と、その下の一行を、いつも一緒に読んできた。九条は二行で一つの条だと、この方が最初にそう仰った。
一行だけを見るのは、初めてだった。
「ベルナール殿」
「はい」
「新調とは、何でしょうか」
書役が二人とも、顔を上げた。ベルナール殿は、顔を上げなかった。写しの一行を見たまま、答えられた。
「新しく仕立てること、でございます」
「布のことは」
「書かれておりません」
「……一行のどこにも」
「どこにも」
*
部屋の空気が、そこで一度、動いた。
動いたのは、たぶん私の中だけだった。書役は何も言わなかったし、ベルナール殿も姿勢を変えられなかった。
「二行目が、布のことを書いておりました」
私は言った。
「直しの手を入れたるものを用ふべからず。……これが、古い布を使うことを塞いでおりました」
「さようで」
「二行目を、原初の条と同じ重さで扱わぬのであれば」
「はい」
「新しく仕立てさえすれば、布は問われません」
ベルナール殿は、そこで初めて顔を上げられた。
「儀典方は、そのように読みます」
*
修繕方へ戻る道を、私はずいぶんゆっくり歩いた。考えていたのは、条文のことではない。
夏に、私はアネットの洗い張りを見ていた。一着をほどいて、洗って、板に張って、また縫う。あのとき、自分で考えたことがある。
ほどいて、洗って、張って、縫う。どこまでが直しで、どこからが仕立てなのだろう。
縫い戻すのは、新しく縫うことではない。だが、針は一から入れ直す。あのときは、答えが出なかった。
いまは、条文のほうが先に答えを出していた。部屋に入って、私は白布を外した。
銀鼠は、衣桁に掛かったままだ。春に脇を出して、裾を裁ち替えて、丈を三寸出した。秋に上着の裏を取って、新しい裏を入れた。
この一着は、もう先王妃様の頃のままではない。それでも、布は、あのときの織だ。
私は紙を一枚出して、算段を書きはじめた。
どこから解くか。
脇。肩。袖付け。衿。順に解いていって、平らな布に戻す。戻した布から、何が取れるか。
身頃の前と後ろは、大きく取れる。傷みが少ない。御衣装の身頃に回せる。
袖は、脇下が二年ぶん弱っている。御衣装の袖には使えない。裾の引きの、内側の見えない面に回す。
裾は、去年裁ち替えた。新しい。使える。
脇の折り筋は、鏝で殺してある。解けば、また出る。出た筋は、裁ち合わせのときに縫い代へ逃がす。紙が、半分埋まった。
*
「頭。何、書いてるんですか」
ポレットが覗き込んだ。
「銀鼠を解く算段です」
「解く」
ポレットの声が、少し高くなった。
「ばらしちゃうんですか。あれ」
「ばらします」
「せっかく直したのに」
「直したから、ばらせます」
私はポレットを見た。
「傷んだところは、春と秋に全部直しました。解いても、どの布も使えます。直していなければ、解いた先で捨てる布が出ます」
「……あ」
「解く前に直すのは、無駄ではありません」
*
三日後、西離宮に呼ばれた。
オーレリア殿下は、今度は衝立の向こうにはおられなかった。窓の下の椅子に座って、私が入っていくのを、まっすぐ見ておられた。
「儀典方から聞きました」
「はい」
「九条は、一行なのですって」
「そう読む、と伺いました」
殿下は、膝の上で手を組まれた。
「では、もう一度、願い出をいたします」
「銀鼠を、御婚礼の御衣装に使いたいのです」
殿下は、そう仰った。
「そのまま着たいのではありません。着られないことは、わたくしも分かりました。あれは二年前の寸法ですし、御婚礼の格には足りません」
「はい」
「ですから、ほどいて、あの布で、新しく仕立てていただきたいの」
私は、頭を下げた。
「それは、新調でございます」
「……ええ」
殿下は、そこで少しだけ笑われた。夏に条文の前で黙られたときの顔とは、違う笑い方だった。
「わたくし、今度は自分で考えました。去年は、あなたに考えていただきましたから」
*
その日のうちに、願い出は儀典方へ上がった。
三日で裁定が下りた。今度は六行あった。長いのは、断るからではない。通すときのほうが、書くことが多い。
御婚礼の御衣装、南の絹七反に加え、旧銀鼠一着を解きて用ふ。新たに裁ち、新たに縫ふ。婚礼令九条に触れず。
七反と、一着。
足りなかった一反は、それで埋まった。
私は裁定の写しを帳面に挟んで、それから、しばらく座っていた。
*
その夜、局長が式次第の写しを持って上がってきた。
御成婚の式次第は式典局の管轄だ。裁定が下りれば、その日のうちに御衣装の項が書き換わる。
「七反と、一着、と書いてある」
「はい」
「儀典方がこういう文を書くのは珍しい。……前例になるからな」
局長は紙の端を指で揃えた。揃えてから、こちらを見た。
「書いたのは儀典方だ。書かせたのは、そなただろう」
「書かせてはおりません。訊いただけです。新調とは何か、と」
「それを、書かせたという」
局長が、ふ、と息を吐いた。笑ったのだと思う。
私は茶を淹れた。この人は、御用の込む時期ほど、夜にここへ来る。来て、帳面を広げるでもなく、四半刻ほど座って帰る。今日は、裁ち台の端に置いた白布の山を一度見て、それから目を戻した。
「局長」
「なんだ」
「縫い手は、どこになりますか」
少し間があった。
「組合の割り当てだ。下命は、もう出ている」
条文が動いた。生地が足りた。殿下の願いが通った。
あと一つ、動いていないものがある。
この一着を、誰が縫うのか。
縫うのは登録工房だ。下命はそちらにある。だが、縫い代一寸と、大きめの札と、寸法帳。あの三つを、あの工房は請けない。値表に無いからだ。
鋏を針箱へ戻した。刃が鞘に入る音が、乾いて聞こえた。
お読みいただきありがとうございます。
消すのではなく、読み方を変える。消せば、次の代の者が別のものを消しますから。
次話——冬の船が、東の国から着きます。
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