↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
82/86

第82話 新しく仕立てること

 儀典方の卓に、三冊が並んでいた。


 婚礼令の正本。古い式次第の写し。それから、控えの綴り。


 ベルナール殿は、控えの綴りの最後の頁を開いて、そこに一筆書かれるところだった。書役が二人、脇に立っている。私は少し離れて立っていた。


「頭殿。近くへ」


    *


 付されたのは、四行だった。


 婚礼令九条につき。正本の当該頁は、後年に差し替えられたるものと認む。綴じ穴の数、紙質、厚みにより。原初の条は古式次第の写しに拠り『御婚礼の御衣装は、新調に限る』の一行なり。


 それだけだった。


「これは、条文の書き替えでしょうか」


 私は訊いた。


「いいえ」


 ベルナール殿は筆を置かれた。


「正本の条は、そのままでございます。二行のまま残ります」


「では、何が変わりますか」


「読み方でございます」


「儀典方が式を運ぶとき、拠るのは正本でございます。正本には二行ある。ですが、控えに『二行目は後年のもの』と付してございますと、儀典方はそれを知ったうえで運ぶことになります」


「知ったうえで、とは」


「二行目を、原初の条と同じ重さでは扱わぬ、ということでございます」


「消すのではなく」


「消しません。消せば、次の代の者が別のものを消します」


 去年、この方は同じことを仰った。情を挟めば、次の代の者が別の情を挟む。消すことも、同じだった。


「では、九条は」


 私は訊いた。


「原初の条として読めば、一行でございます」


 ベルナール殿は、古い写しのほうを指で押さえた。


 『御婚礼の御衣装は、新調に限る』


 私は、その一行を見た。


 春から半年、私はこの一行と、その下の一行を、いつも一緒に読んできた。九条は二行で一つの条だと、この方が最初にそう仰った。


 一行だけを見るのは、初めてだった。


「ベルナール殿」


「はい」


「新調とは、何でしょうか」


 書役が二人とも、顔を上げた。ベルナール殿は、顔を上げなかった。写しの一行を見たまま、答えられた。


「新しく仕立てること、でございます」


「布のことは」


「書かれておりません」


「……一行のどこにも」


「どこにも」


    *


 部屋の空気が、そこで一度、動いた。


 動いたのは、たぶん私の中だけだった。書役は何も言わなかったし、ベルナール殿も姿勢を変えられなかった。


「二行目が、布のことを書いておりました」


 私は言った。


「直しの手を入れたるものを用ふべからず。……これが、古い布を使うことを塞いでおりました」


「さようで」


「二行目を、原初の条と同じ重さで扱わぬのであれば」


「はい」


「新しく仕立てさえすれば、布は問われません」


 ベルナール殿は、そこで初めて顔を上げられた。


「儀典方は、そのように読みます」


    *


 修繕方へ戻る道を、私はずいぶんゆっくり歩いた。考えていたのは、条文のことではない。


 夏に、私はアネットの洗い張りを見ていた。一着をほどいて、洗って、板に張って、また縫う。あのとき、自分で考えたことがある。


 ほどいて、洗って、張って、縫う。どこまでが直しで、どこからが仕立てなのだろう。


 縫い戻すのは、新しく縫うことではない。だが、針は一から入れ直す。あのときは、答えが出なかった。


 いまは、条文のほうが先に答えを出していた。部屋に入って、私は白布を外した。


 銀鼠は、衣桁に掛かったままだ。春に脇を出して、裾を裁ち替えて、丈を三寸出した。秋に上着の裏を取って、新しい裏を入れた。


 この一着は、もう先王妃様の頃のままではない。それでも、布は、あのときの織だ。


 私は紙を一枚出して、算段を書きはじめた。


 どこから解くか。


 脇。肩。袖付け。衿。順に解いていって、平らな布に戻す。戻した布から、何が取れるか。


 身頃の前と後ろは、大きく取れる。傷みが少ない。御衣装の身頃に回せる。


 袖は、脇下が二年ぶん弱っている。御衣装の袖には使えない。裾の引きの、内側の見えない面に回す。


 裾は、去年裁ち替えた。新しい。使える。


 脇の折り筋は、鏝で殺してある。解けば、また出る。出た筋は、裁ち合わせのときに縫い代へ逃がす。紙が、半分埋まった。


    *


「頭。何、書いてるんですか」


 ポレットが覗き込んだ。


「銀鼠を解く算段です」


「解く」


 ポレットの声が、少し高くなった。


「ばらしちゃうんですか。あれ」


「ばらします」


「せっかく直したのに」


「直したから、ばらせます」


 私はポレットを見た。


「傷んだところは、春と秋に全部直しました。解いても、どの布も使えます。直していなければ、解いた先で捨てる布が出ます」


「……あ」


「解く前に直すのは、無駄ではありません」


    *


 三日後、西離宮に呼ばれた。


 オーレリア殿下は、今度は衝立の向こうにはおられなかった。窓の下の椅子に座って、私が入っていくのを、まっすぐ見ておられた。


「儀典方から聞きました」


「はい」


「九条は、一行なのですって」


「そう読む、と伺いました」


 殿下は、膝の上で手を組まれた。


「では、もう一度、願い出をいたします」


「銀鼠を、御婚礼の御衣装に使いたいのです」


 殿下は、そう仰った。


「そのまま着たいのではありません。着られないことは、わたくしも分かりました。あれは二年前の寸法ですし、御婚礼の格には足りません」


「はい」


「ですから、ほどいて、あの布で、新しく仕立てていただきたいの」


 私は、頭を下げた。


「それは、新調でございます」


「……ええ」


 殿下は、そこで少しだけ笑われた。夏に条文の前で黙られたときの顔とは、違う笑い方だった。


「わたくし、今度は自分で考えました。去年は、あなたに考えていただきましたから」


    *


 その日のうちに、願い出は儀典方へ上がった。


 三日で裁定が下りた。今度は六行あった。長いのは、断るからではない。通すときのほうが、書くことが多い。


 御婚礼の御衣装、南の絹七反に加え、旧銀鼠一着を解きて用ふ。新たに裁ち、新たに縫ふ。婚礼令九条に触れず。


 七反と、一着。


 足りなかった一反は、それで埋まった。


 私は裁定の写しを帳面に挟んで、それから、しばらく座っていた。


    *


 その夜、局長が式次第の写しを持って上がってきた。


 御成婚の式次第は式典局の管轄だ。裁定が下りれば、その日のうちに御衣装の項が書き換わる。


「七反と、一着、と書いてある」


「はい」


「儀典方がこういう文を書くのは珍しい。……前例になるからな」


 局長は紙の端を指で揃えた。揃えてから、こちらを見た。


「書いたのは儀典方だ。書かせたのは、そなただろう」


「書かせてはおりません。訊いただけです。新調とは何か、と」


「それを、書かせたという」


 局長が、ふ、と息を吐いた。笑ったのだと思う。


 私は茶を淹れた。この人は、御用の込む時期ほど、夜にここへ来る。来て、帳面を広げるでもなく、四半刻ほど座って帰る。今日は、裁ち台の端に置いた白布の山を一度見て、それから目を戻した。


「局長」


「なんだ」


「縫い手は、どこになりますか」


 少し間があった。


「組合の割り当てだ。下命は、もう出ている」


 条文が動いた。生地が足りた。殿下の願いが通った。


 あと一つ、動いていないものがある。


 この一着を、誰が縫うのか。


 縫うのは登録工房だ。下命はそちらにある。だが、縫い代一寸と、大きめの札と、寸法帳。あの三つを、あの工房は請けない。値表に無いからだ。


 鋏を針箱へ戻した。刃が鞘に入る音が、乾いて聞こえた。

お読みいただきありがとうございます。

消すのではなく、読み方を変える。消せば、次の代の者が別のものを消しますから。


次話——冬の船が、東の国から着きます。


「直したから、ばらせます」に膝を打った方。ブックマーク・評価で一押しいただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。