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第81話 その年のこと

 西離宮の小間は、秋の終わりの日が低く入って、床の半分が明るかった。


 王太后様は、いつもの椅子におられた。


 膝の上に、手巾が一枚置いてある。麻の白で、隅に銀糸の刺繍がある。小さな指貫がひと針で入っている。


 去年、私が直した一枚だった。


「また、ほつれました」


「お預かりします」


「急ぎません。……座りなさい」


    *


 私は手巾を受け取って、膝の上で広げた。


 ほつれているのは、去年直したところではない。その隣だった。四十年使われた布は、直したところが丈夫になって、その隣に力が移る。移った先が、次に切れる。


 全部を直せば、全部が丈夫になる。そうすれば布は死ぬ。麻は、柔らかくなったところが値打ちだ。


 手巾は、絹でも木綿でもなく麻で作る。麻は洗うほど柔らかくなり、柔らかくなっても織り目が崩れない。四十年洗った麻は、織り目だけが残って、繊維は綿のようになる。


 そこへ新しい糸を入れると、新しい糸だけが硬い。硬い糸は、周りの柔らかい繊維を切る。だから、繕う糸も、古い布から抜いて使うことがある。


 私は針箱から、いちばん細い針を出した。


 四十年の麻は、糸を引きすぎると、そこだけ寄る。寄ったところは、次に洗うと縮む。だから、針は細く、糸も細く、目は浅く拾う。布の厚みの半分までしか針を入れない。


 留める前に、ほつれた糸端を一本ずつ元の目へ戻した。切って捨てるのは簡単だが、捨てれば、そこから先の織りが解け続ける。戻せる糸は戻す。


 戻してから、二目だけ新しい糸で押さえた。押さえるのは、ほつれの先と、その一つ手前。手前を押さえておかないと、力が手前へ抜けて、また同じことになる。


 話を聞くのに、手が空いているほうが落ち着く。王太后様は、それを咎めない方だった。


    *


「儀典方から、話が回ってきました」


 王太后様が仰った。


「婚礼令の九条。頁が一枚、差し替えられていると」


「はい」


「あの年の翌年です、と書役が申しました。……私は、その年のことを、あなたにお話ししておかねばならないと思いました」


    *


「あの年、宮の紙は、ずいぶん動きました」


 王太后様は、窓のほうを見ておられた。


「東翼が焼けて、沙汰が下りて、それから一年ほどのあいだに、いくつもの控えが整えられました。整える、という言い方をします。焼けたものの目録を作り、残ったものを数え直し、古い条々を写し直す」


「はい」


「私は、そのときは、それが普通のことだと思っておりました」


 針が、麻の目を一つ拾った。


「火事のあとに紙を整えるのは、普通のことです。おかしいとは思いません。……いまも、思いません」


「では、なぜ」


 私が訊くと、王太后様はこちらを見た。


「三年経ってから、一つ気づきました」


「はい」


「あの年に整えられた控えは、どれも、古いものを使い続けることについて書いた部分が、なくなっているか、逆になっているのです」


 私は手を止めた。


「たとえば、衣装室の控えには、伝来の御衣装は三代まで直して用ふべし、という一条がありました。いまはありません。写し直したときに落ちたのだと言われました」


「落ちた」


「そう言われました。落ちたのか、落としたのかは、分かりません。……写した者の名は、どの控えにも残っておりません」


「お調べにならなかったのですか」


 訊いてから、私は自分の言い方を、少し悔いた。王太后様は、怒られなかった。


「調べました」


「はい」


「三年目に気づいて、四年目に調べました。……何も出ませんでした」


 膝の上で、手が一度動いた。


「紙は、いくらでも整えられます。整えた者の名を書く欄が、控えにはありません。名を書く欄があるのは、仕立て札だけです」


 私は、その一言で、いくつかのことが繋がるのを感じた。


 名を消して回った者がいた。それは去年、御前で明らかになった。商会の蔵帳に一行あった。綴じ替え手間、口止め料共、金貨十枚。


 綴じ替え。


 あれは、台帳の綴じ替えのことだと、私は思っていた。


 台帳だけではなかったのかもしれない。


「私は、止められませんでした」


 王太后様が仰った。


「あの年、私は喪の最中でした。夫を亡くして、宮の紙が動いているのを、遠くで見ておりました。……見ておりました、というのは、見ていなかったということです」


「王太后様」


「言い訳です」


 それだけ仰って、あとは何も付け加えられなかった。私も、何も言わなかった。言えることが、なかった。


    *


 手巾のほつれを留め終えた。


 最後に、留めた四目を指の腹でなぞって、段が出ていないことを確かめた。手巾は顔に当てるものだ。目に見えない段でも、肌には当たる。


 四目だけだ。四目のために、私はここへ来たのではない。だが、四目を留めるあいだに、三十年前の一年が、一つの形になった。


「お直りいたしました」


 私は手巾を畳んで、差し出した。王太后様は受け取って、隅の刺繍を指でなぞられた。


「エディスは、このひと針を、輿入れの朝に入れました」


「はい」


「急いでいたのでしょう。ひと針だけです。……四十年、私はこのひと針を持っております」


「リディア・アシュフォード」


 王太后様が、私の名を呼ばれた。


「はい」


「あなたは、九条をどうなさいますか」


 私は、少し考えた。


「私は、どうもいたしません」


「では、誰が」


「儀典方です。条文は、儀典方のものです」


 王太后様は、しばらく私を見ておられた。


「……あなたは、自分の持ち場から出ませんね」


「出ると、負けますので」


 この夏、私は会館で論を出して負けた。あれは、自分の持ち場の外で戦ったからだ。


「一つだけ、申し上げてよろしいでしょうか」


「どうぞ」


「三十年前、名を消した者は、名の欄がある仕立て札から消していきました」


「はい」


「名の欄がない控えは、名を書かずに整えられました」


「そうですね」


「……欄が無いところには、誰も名を残せません」


 王太后様が、わずかに目を細められた。


「では、欄を作りなさい」


    *


 西離宮を出たのは、日が落ちる少し前だった。渡り廊下の窓から、庭の木が半分ほど葉を落としているのが見えた。


 欄を作る。


 私が去年から作っているものが、それだった。裏襟の札を大きめに取る。寸法帳を添える。どこを誰がいつ直したかを、書ける場所を先に作っておく。


 書く人がいるかどうかは、分からない。書かれない欄は、ただの余白だ。


 それでも、欄が無ければ、書ける人がいても書けない。


    *


 修繕方へ戻ると、机の上に儀典方からの書き付けがあった。封を切った。二行だった。


 婚礼令九条につき、控えに一筆付す。明後日、頭殿にも立ち会いを請いたし。


 私は書き付けを帳面に挟んだ。


 挟んだ紙の角が、帳面の縁から少しだけ出ていた。

お読みいただきありがとうございます。

名を書く欄があるのは、仕立て札だけでした。欄が無いところには、誰も名を残せません。


次話——儀典方が、控えに一筆付します。


「見ておりました、というのは、見ていなかったということです」に胸を突かれた方。ブックマーク・評価で応援いただけると、励みになります。

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