↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
80/85

第80話 待たせます

 銀鼠の上着の地は、五日目の朝に決まった。


 同じ織はもう無い。似た地を探すか、この一着の裏から取るか。春からずっと、その二つのあいだで止まっていた。


 私は、裏から取ることにした。


 裏から取れば、色は完全に揃う。年も釜も同じだからだ。そのかわり、裏を足さなければならない。足せば、この一着はもう、先王妃様の頃のままではなくなる。


 どこまでを残して、どこから替えるのか。半年、私はその線が引けなかった。


 引けるようになったのは、たぶん、一昨日のことがあったからだ。


 自分のものではないものを、自分のもののように抱えていると、線が引けない。手放せば、引ける。


    *


 裏を外した。


 裏地は、表より薄い絹で、傷みはほとんど無かった。人の目に触れないところは傷まない。触れないから、擦れない。


 外した裏から、上着の身頃を二枚と、袖を一枚取った。残りでは足りないので、袖のもう一枚は、裾の折り返しの内側から継いだ。


 継いだ線は、袖の内側の、腕を下ろすと隠れる位置に置いた。


 新しい裏には、宮の庫の絹を使った。色は少し違う。だが、裏だ。


 裏を付けるときは、表に引かれないように、わざと少しだけ緩く入れる。きっちり合わせて縫うと、着たときに表が突っ張る。裏は、表より一分ほど大きく裁つ。その一分が、腕を上げたときの余裕になる。


 縫い目は、表からは一針も見えない。見えない縫い目に、私は半日をかけた。帳面に、全部書いた。


 どこから取ったか。どこを継いだか。継ぎ目がどこにあるか。新しい裏の絹は、いつの、どこのものか。


 書いて、それを一枚の紙に写した。


 寸法帳だ。


 御衣装に添えて北へ渡すつもりで作った書式の、最初の一枚が、銀鼠のものになった。御婚礼には使われない一着の、寸法帳が。


 それでも、書いた。


    *


 昼前に、儀典方から書役が来た。


「頭殿。筆頭が、お越し願いたいと」


「照会でしょうか」


「いえ。……別の件と伺っております」


    *


 ベルナール殿は、書見台の前におられなかった。


 窓際の、細長い卓の前に立っておられた。卓の上に、古い綴じ本が開いて置いてある。先月、棚から出してこられた、あの薄い本だった。


「頭殿。これを」


 私は近づいた。


 開いてあるのは、真ん中あたりの見開きだった。婚礼の装いの条が並んでいる。古い言葉遣いで、いまの婚礼令とは書き方が違う。


 九条にあたる箇所を、ベルナール殿が指で押さえた。


 『御婚礼の御衣装は、新調に限る』


 一行だけだった。


 その下に、細字の一行が無い。


「……無い」


「はい」


「この写しでは、一行だけなのですね」


「さようで」


 ベルナール殿は、本を少し回して、こちらから見やすいようにされた。


「もう一つ、ご覧いただきたいものがございます」


 そう言って、今度は婚礼令の正本を持ってこられた。私が夏に綴じ直した、あの本だ。


 九条の頁を開いて、卓の上で二冊を並べた。正本のほうには、二行ある。


 『御婚礼の御衣装は、新調に限る』


 『直しの手を入れたるものを用ふべからず』


「頭殿。夏に、これを綴じ直されましたな」


「はい」


「そのとき、元と同じ穴をお使いになった」


「使いました。新しい穴を開けると、紙が弱りますので」


「では、穴の数と位置は、綴じ直す前と同じでございますな」


「同じです」


 ベルナール殿は、九条の頁の、のど——綴じ側の際を、指で押さえて開かれた。


 紙が、違った。


 九条の頁は、前後の頁より、わずかに白い。厚みも違う。指で挟むと、前の頁より薄い。


 そして、綴じ穴が、その頁だけ五つあった。前後の頁は四つだ。


 私は、自分が夏にこの本を綴じたときのことを思い出そうとした。思い出せなかった。穴に糸を通すとき、私は穴を数えていない。数えずに、あるところへ通した。


 職人は、そういうところを見落とす。手が勝手に合わせてしまうからだ。


「この頁は」


「後から入れたものでございます」


 ベルナール殿は、静かに言われた。


「一枚だけ、抜いて、差し替えてございます。差し替えるときに、綴じ穴を一つ足した。足さないと、紙の位置が動きますので」


「では、二行目は」


「元の条には、ございません」


「いつ、差し替えられたのでしょうか」


 ベルナール殿は、古いほうの綴じ本の、最後の頁を開かれた。


 書き継ぎの記録があった。年ごとに、誰が何を写したかが並んでいる。その一行を、指で押さえられた。


「この年でございます」


 私は、その年を見た。


 東翼が燃えた年の、翌年だった。


「……なぜ、お調べになりましたか」


 私は訊いた。


「頭殿に問われましたので」


「それだけでしょうか」


 ベルナール殿は、少し間を置かれた。


「私は、四十年、書いてあるとおりに式を運んでまいりました。書いてあることを疑ったことはございません」


「はい」


「疑ってはおりません。いまも。……ただ、書いてあることの由来を知らぬまま運ぶのは、書いてあるとおりに運んでいることにはならぬと、思い直しました」


    *


 儀典方を出て、私は渡り廊下で足を止めた。


 三十年前、誰かが台帳から名を塗り、仕立て札を抜いて回った。それは去年、御前で明らかになった。蔵帳に一行あった。綴じ替え手間、口止め料共、金貨十枚。


 同じ年の翌年に、婚礼令に一行が足されている。


 直しの手を入れたるものを用ふべからず。


 名を消すのと、手を禁じるのは、同じことだった。


 名を消せば、誰が直したか分からなくなる。手を禁じれば、直したものが使えなくなる。


 どちらも、直した物が残らないようにするための、同じ一つの仕事だ。


    *


 その夜、私は式典局へ行った。


 局長は帳面の前にいた。夏の拝賀はもう済んで、秋の叙任の支度に入っている。顔を上げて、私を見て、それから筆を置いた。


 あの夜から、二十日ほど経っていた。そのあいだ、私たちは仕事の話しかしていない。


「婚礼の日取りですが」


 私は言った。


「決めました」


「そうか」


「御成婚が済んでからにします。……再来年の春です」


 局長は、何も言わなかった。


「理由は三つございます」


 私は続けた。


「一つ。御成婚の支度が、来年の初冬までかかります。修繕方は蚊帳の外ですが、銀鼠と、辺境伯家の外套は手元にあります。その二件を、私は途中で人に渡したくありません」


「……ああ」


「二つ。祖母の裁ち置きの持ち主が分かりました。あれは、私のものではありませんでした。持ち主に渡すまでに、やることがあります」


「誰だ」


「いまは、申し上げません」


 局長は、少し目を細めた。それから、頷いた。


「三つ目は」


「三つ目は、あなたに関わることです」


 私は言った。


「先日、あなたは正しいことを仰いました。私は納得しませんでした。……いまも、納得しておりません」


「そうだろうな」


「納得しないまま嫁ぐのは、嫌です」


 局長が、こちらを見た。


「納得するまで、待っていただきます」


 私は、そこで一度、息を継いだ。


「待っていただく、というのは、正しくありませんね。……待たせます」


 しばらく、部屋の中で紙の音もしなかった。それから、局長が言った。


「そなたは、いつもそうだな」


「と、申されますと」


「断る理由を三つ並べる」


「断ってはおりません」


「知っている」


 局長は、筆を取り直した。取り直して、置いた。


「再来年の春だな」


「再来年の春です」


「……待つ、とは言わん」


「はい」


「待たされる、と書いておく。帳面に」


    *


 修繕方へ戻って、私は燭台に火を入れた。


 銀鼠の上着は、身頃と袖が裁ってある。あとは縫うだけだ。縫い代は一寸取ってある。裏襟の札は、大きめに裁ってある。寸法帳は、一枚できている。


 御婚礼には、使われない。


 使われないものに、私は全部を入れていた。


 いつか使われるかもしれないからではない。使われなくても、そう作るのが、たぶん、正しいからだ。


 針に糸を通した。通したところで、手を止めた。


 王太后様から召しがあったのは、その翌朝だった。

お読みいただきありがとうございます。

名を消すのと、手を禁じるのは、同じ一つの仕事でした。


次話——王太后様が、その年のことを話されます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。