第80話 待たせます
銀鼠の上着の地は、五日目の朝に決まった。
同じ織はもう無い。似た地を探すか、この一着の裏から取るか。春からずっと、その二つのあいだで止まっていた。
私は、裏から取ることにした。
裏から取れば、色は完全に揃う。年も釜も同じだからだ。そのかわり、裏を足さなければならない。足せば、この一着はもう、先王妃様の頃のままではなくなる。
どこまでを残して、どこから替えるのか。半年、私はその線が引けなかった。
引けるようになったのは、たぶん、一昨日のことがあったからだ。
自分のものではないものを、自分のもののように抱えていると、線が引けない。手放せば、引ける。
*
裏を外した。
裏地は、表より薄い絹で、傷みはほとんど無かった。人の目に触れないところは傷まない。触れないから、擦れない。
外した裏から、上着の身頃を二枚と、袖を一枚取った。残りでは足りないので、袖のもう一枚は、裾の折り返しの内側から継いだ。
継いだ線は、袖の内側の、腕を下ろすと隠れる位置に置いた。
新しい裏には、宮の庫の絹を使った。色は少し違う。だが、裏だ。
裏を付けるときは、表に引かれないように、わざと少しだけ緩く入れる。きっちり合わせて縫うと、着たときに表が突っ張る。裏は、表より一分ほど大きく裁つ。その一分が、腕を上げたときの余裕になる。
縫い目は、表からは一針も見えない。見えない縫い目に、私は半日をかけた。帳面に、全部書いた。
どこから取ったか。どこを継いだか。継ぎ目がどこにあるか。新しい裏の絹は、いつの、どこのものか。
書いて、それを一枚の紙に写した。
寸法帳だ。
御衣装に添えて北へ渡すつもりで作った書式の、最初の一枚が、銀鼠のものになった。御婚礼には使われない一着の、寸法帳が。
それでも、書いた。
*
昼前に、儀典方から書役が来た。
「頭殿。筆頭が、お越し願いたいと」
「照会でしょうか」
「いえ。……別の件と伺っております」
*
ベルナール殿は、書見台の前におられなかった。
窓際の、細長い卓の前に立っておられた。卓の上に、古い綴じ本が開いて置いてある。先月、棚から出してこられた、あの薄い本だった。
「頭殿。これを」
私は近づいた。
開いてあるのは、真ん中あたりの見開きだった。婚礼の装いの条が並んでいる。古い言葉遣いで、いまの婚礼令とは書き方が違う。
九条にあたる箇所を、ベルナール殿が指で押さえた。
『御婚礼の御衣装は、新調に限る』
一行だけだった。
その下に、細字の一行が無い。
「……無い」
「はい」
「この写しでは、一行だけなのですね」
「さようで」
ベルナール殿は、本を少し回して、こちらから見やすいようにされた。
「もう一つ、ご覧いただきたいものがございます」
そう言って、今度は婚礼令の正本を持ってこられた。私が夏に綴じ直した、あの本だ。
九条の頁を開いて、卓の上で二冊を並べた。正本のほうには、二行ある。
『御婚礼の御衣装は、新調に限る』
『直しの手を入れたるものを用ふべからず』
「頭殿。夏に、これを綴じ直されましたな」
「はい」
「そのとき、元と同じ穴をお使いになった」
「使いました。新しい穴を開けると、紙が弱りますので」
「では、穴の数と位置は、綴じ直す前と同じでございますな」
「同じです」
ベルナール殿は、九条の頁の、のど——綴じ側の際を、指で押さえて開かれた。
紙が、違った。
九条の頁は、前後の頁より、わずかに白い。厚みも違う。指で挟むと、前の頁より薄い。
そして、綴じ穴が、その頁だけ五つあった。前後の頁は四つだ。
私は、自分が夏にこの本を綴じたときのことを思い出そうとした。思い出せなかった。穴に糸を通すとき、私は穴を数えていない。数えずに、あるところへ通した。
職人は、そういうところを見落とす。手が勝手に合わせてしまうからだ。
「この頁は」
「後から入れたものでございます」
ベルナール殿は、静かに言われた。
「一枚だけ、抜いて、差し替えてございます。差し替えるときに、綴じ穴を一つ足した。足さないと、紙の位置が動きますので」
「では、二行目は」
「元の条には、ございません」
「いつ、差し替えられたのでしょうか」
ベルナール殿は、古いほうの綴じ本の、最後の頁を開かれた。
書き継ぎの記録があった。年ごとに、誰が何を写したかが並んでいる。その一行を、指で押さえられた。
「この年でございます」
私は、その年を見た。
東翼が燃えた年の、翌年だった。
「……なぜ、お調べになりましたか」
私は訊いた。
「頭殿に問われましたので」
「それだけでしょうか」
ベルナール殿は、少し間を置かれた。
「私は、四十年、書いてあるとおりに式を運んでまいりました。書いてあることを疑ったことはございません」
「はい」
「疑ってはおりません。いまも。……ただ、書いてあることの由来を知らぬまま運ぶのは、書いてあるとおりに運んでいることにはならぬと、思い直しました」
*
儀典方を出て、私は渡り廊下で足を止めた。
三十年前、誰かが台帳から名を塗り、仕立て札を抜いて回った。それは去年、御前で明らかになった。蔵帳に一行あった。綴じ替え手間、口止め料共、金貨十枚。
同じ年の翌年に、婚礼令に一行が足されている。
直しの手を入れたるものを用ふべからず。
名を消すのと、手を禁じるのは、同じことだった。
名を消せば、誰が直したか分からなくなる。手を禁じれば、直したものが使えなくなる。
どちらも、直した物が残らないようにするための、同じ一つの仕事だ。
*
その夜、私は式典局へ行った。
局長は帳面の前にいた。夏の拝賀はもう済んで、秋の叙任の支度に入っている。顔を上げて、私を見て、それから筆を置いた。
あの夜から、二十日ほど経っていた。そのあいだ、私たちは仕事の話しかしていない。
「婚礼の日取りですが」
私は言った。
「決めました」
「そうか」
「御成婚が済んでからにします。……再来年の春です」
局長は、何も言わなかった。
「理由は三つございます」
私は続けた。
「一つ。御成婚の支度が、来年の初冬までかかります。修繕方は蚊帳の外ですが、銀鼠と、辺境伯家の外套は手元にあります。その二件を、私は途中で人に渡したくありません」
「……ああ」
「二つ。祖母の裁ち置きの持ち主が分かりました。あれは、私のものではありませんでした。持ち主に渡すまでに、やることがあります」
「誰だ」
「いまは、申し上げません」
局長は、少し目を細めた。それから、頷いた。
「三つ目は」
「三つ目は、あなたに関わることです」
私は言った。
「先日、あなたは正しいことを仰いました。私は納得しませんでした。……いまも、納得しておりません」
「そうだろうな」
「納得しないまま嫁ぐのは、嫌です」
局長が、こちらを見た。
「納得するまで、待っていただきます」
私は、そこで一度、息を継いだ。
「待っていただく、というのは、正しくありませんね。……待たせます」
しばらく、部屋の中で紙の音もしなかった。それから、局長が言った。
「そなたは、いつもそうだな」
「と、申されますと」
「断る理由を三つ並べる」
「断ってはおりません」
「知っている」
局長は、筆を取り直した。取り直して、置いた。
「再来年の春だな」
「再来年の春です」
「……待つ、とは言わん」
「はい」
「待たされる、と書いておく。帳面に」
*
修繕方へ戻って、私は燭台に火を入れた。
銀鼠の上着は、身頃と袖が裁ってある。あとは縫うだけだ。縫い代は一寸取ってある。裏襟の札は、大きめに裁ってある。寸法帳は、一枚できている。
御婚礼には、使われない。
使われないものに、私は全部を入れていた。
いつか使われるかもしれないからではない。使われなくても、そう作るのが、たぶん、正しいからだ。
針に糸を通した。通したところで、手を止めた。
王太后様から召しがあったのは、その翌朝だった。
お読みいただきありがとうございます。
名を消すのと、手を禁じるのは、同じ一つの仕事でした。
次話——王太后様が、その年のことを話されます。




