第79話 エレーヌ(十七)
名前を読んだ。
『エレーヌ(十七)』
私は、その行を見たまま、動かなかった。
どれくらいそうしていたか、分からない。気がつくと、燭台の火が細くなっていた。芯が伸びている。私は鋏を取って、芯を切った。
明るくなった。
明るくなっても、行は同じだった。
母の名だった。
*
翌朝、私は棚から畳紙を下ろした。六枚を、台に並べた。前身が二枚。後ろ身が一枚。袖が二枚。衿。それから共裂の一枚。
紐尺を出した。
春に一度測っている。測ったときの数は帳面に書いてある。書いてあるものを、もう一度測るのは、無駄だ。
それでも、測った。肩から測る。
左の肩先から右の肩先まで、身頃を平らに伸ばして、紐を渡す。紐は布の上で少したわむから、たわみを指で押さえて、目を読む。
寸法帳の数と、同じだった。裄を測る。肩先から袖口まで。袖の縫い代を引いた分で読む。同じだった。
胸。腰。丈。
全部、同じだった。
六つの数が合うというのは、偶然ではない。
人の身体は、六つも揃わない。背丈が同じ人は大勢いる。肩まで同じ人は減る。裄が同じなら、もう十人に一人もいない。胸と腰と丈まで揃えば、それは一人だ。
念のため、共裂も測った。
長さ二尺、幅三寸。身頃のどこから取ったかは、織り目の向きで分かる。前身の裾側、いちばん傷みにくいところから取ってある。共裂は、いちばんいい面から取るものだ。着る人の目に触れない場所を削って、将来の直しに回す。
祖母は、そこまでやっていた。
私は、紐尺を巻き取った。
母は、背が低い。
私より、頭半分ほど低い。肩が四角くて、腕が短い。子どものころ、私は母の服を着てみて、袖が余ったことがある。背は私のほうが高いのに、袖だけが余った。
父に似たのだ、と母は笑っていた。
似ていないことを、母はいつも笑い事にした。
三十年前。
祖母は、宮を出る年に、この六枚を裁った。
十七の娘のために。
婚礼衣装の裁ち方で。深い打ち合わせ、裾の余り、倍の縫い代、共裂まで取って。
裁って、袖の途中で刃を離して、それきりになった。その年に何が起きたかは、私も知っている。
東翼が燃えた。焼けた礼服が封印棚へ入った。沙汰が下りた。罪科は不問、ただし退宮。そのあとで誰かが台帳の名を塗り、仕立て札を抜いて回った。
祖母は宮を出た。市井で三十年、針を持った。その三十年のあいだに、娘が嫁いだ。
嫁いだとき、娘が何を着たのかを、私は知っている。
*
アシュフォードの屋敷に、母の婚礼衣装が一着ある。
白の絹で、仕立ては王都の店のものだ。襟裏に、その店の札が入っている。母の名は書いていない。当時の王都の店は、札に縫い手の名を書かなかった。
私は、子どものころに一度だけ見せてもらった。長持ちから出して、広げて、また仕舞った。
そのとき、母は一言だけ言った。
「立派でしょう」
立派だった。いまでも、そう思う。
*
祖母は、その婚礼に来なかった。
これも、知っている。父方の親類が数えるほどしか来なかった婚礼で、母方の親は、来なかった。
子どものころ、私は理由を訊いたことがある。母は、遠いところにいるから、と答えた。祖母は城下に住んでいた。遠くはなかった。
訊いたのは一度きりだ。二度目を訊かないくらいの分別は、子どもにもある。罪人として宮を出た針子が、娘の婚礼に来る。
伯爵家へ嫁ぐ娘の婚礼に、だ。来ないほうがいい、と誰かが言ったのか、誰も言わずにそうなったのかは、分からない。
分かるのは、一つだけだ。
祖母は、娘のために一着を裁って、縫わなかった。
縫えなかったのか、縫わなかったのかも、分からない。
火事は春だ。裁ったのは、その少し前だろう。沙汰が下りて、宮を出て、名が消されていった一年のあいだに、この六枚は畳紙に包まれて、長持ちの底へ入った。
入れたあと、祖母は三十年、開けなかった。
開けなかったのは、忘れたからではない。ほかの反物の下に、平らに敷いて、上から重しになるように置いてあった。布を傷めない置き方だ。
いつか出すつもりの人の、置き方だった。私は、六枚を畳み直した。
畳むときは、織り目に沿って折る。斜めに折ると、そこに折り筋が残って、三十年後に出せなくなる。春にほつれを止めた端が、半年でまた少しだけ毛羽立っていた。糸を一本、通し直した。
畳紙に戻して、四隅を折った。折りながら、指が止まった。
これは、私のものではない。
*
春から半年、私はこれを自分の棚に置いてきた。置いて、裁ち端のほつれを止めて、誰のものか分からないと言いながら、どこかで、私のものになるかもしれないと思っていた。
祖母が遺した。寸法は合わない。それでも、直せば着られる。私は直す人間だ。直して、婚礼に着る。
そう考えなかったと言えば、嘘になる。
畳紙を棚へ上げた。上げて、手を離した。
私の婚礼衣装は、無くなった。
無くなったというのは、正しくない。最初から、無かった。
無かったものが無くなったように感じるのは、私がそれを勝手に自分のものにしていたからだ。
*
ポレットが階段を上がってきたのは、そのあとだった。
「頭。おはようございます」
「おはようございます」
「……あれ。棚、上げちゃったんですか」
「はい」
「読めたんですか。名前」
「読めました」
ポレットは、私の顔を見た。それから、それ以上訊かなかった。この子は、訊かないほうがいいときを、だんだん覚えてきている。
覚えてほしくなかった、と少し思った。
*
「今日は、何からやりますか」
ポレットが訊いた。いつもの朝の一言だった。
私は帳面を開いた。開くと、預かりの品が七件並んでいる。銀鼠の上着の地は、まだ決まっていない。御婚礼の御衣装の照会には、見立てを書いて出した。そのあと、何の返事も来ていない。
婚礼の日取りは、まだ決まっていない。
「敷物からにします」
私は言った。
「三枚です。南の回廊の分。裏返しが二枚、焦げが一枚」
「はい」
コリンヌが帳面を持って上がってきた。
「頭。焦げのほう、寸法を取り直しました。裏に回すと、房の向きが逆になります」
「房は外して、付け替えます」
「全部でしょうか」
「四辺とも。片側だけ付け替えると、そこだけ新しく見えます」
「……房、足りるでしょうか」
「足りません。二辺ぶんしかありません」
私は帳面を繰った。
「残りは、納戸の山から取ります。返品の夜会服に、同じ太さの飾り紐が付いています。あれをほどけば、二辺ぶんは出ます」
「ほどいて、いいんですか」
「あの山は、そのためにあります」
コリンヌは書きつけて、それから小さく頷いた。
「頭、今日は、指示が速いですね」
私は、少し黙った。
「……考えることが、一つ減りましたので」
ポレットが道具を取りに行った。コリンヌがそのあとに続いた。私は、その背中を見てから、帳面の余白に二行書いた。
『婚礼の日取り、決めること』
『母へ、手紙を書くこと』
筆を置いた音が、部屋の中で、思ったより小さく鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
無かったものが無くなったように感じるのは、私がそれを勝手に自分のものにしていたからです。
次話——婚礼の日取りを、決めなければなりません。
祖母が娘の婚礼に来なかった理由を、いま知った方。ブックマーク・評価をいただけると、次の針が進みます。




