↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
78/90

第78話 綴じの内側

 祖母の技法ノートを直したのは、その三日後だった。


 三日置いたのは、忙しかったからではない。触るのが、少し怖かったからだ。


 このノートは、私が宮へ上がった日から、ずっと手元にある。麻布張りの厚い帳面で、図と針目の見本が貼ってある。子どものころから、私はこれを開いて育った。


 開いて育ったから、どこが傷んでいるかは、分かっていた。


    *


 台の上で、背を上にして置いた。


 綴じ糸は、麻の細糸を三本撚りにしたものだ。上から三分の一のところで、一本が切れていた。あとの二本も毛羽立っている。


 祖母が自分で綴じたのだろう。糸の始末の仕方が、布のときと同じだった。玉結びを作らずに、二度返して、返した糸の中へ通して留める。布では当たり前の始末だが、紙ではあまり見ない。


 婚礼令を綴じ直したとき、私は元と同じ穴を使った。新しい穴を開けると紙が弱る。このノートでも、同じにする。


 表紙は麻布張りだ。厚紙に麻を貼って、四隅を内側へ折り込んである。折り込みの角は、布の当てと同じで、斜めに切って重なりを減らしてある。祖母は、紙の仕事も布の手でやった人だった。


 その麻が、背のところで擦り切れていた。三十年ぶん、棚から出し入れされた擦れだ。


 私は端切れの籠から、同じ厚みの麻を探した。色は合わない。合う色は、もう手に入らない。近い生成りを選んで、背の幅に裁った。


 裁ってから、少し迷って、手を止めた。新しい麻を当てれば、擦れは隠れる。隠れるが、三十年ぶんの擦れも一緒に隠れる。


 結局、当てるのは背の下三寸だけにした。いちばん力のかかるところだけを守って、あとは擦れたままにする。全部を守ろうとすると、全部を覆うことになる。


    *


 古い糸を抜いた。


 抜くときは、一本ずつ、背の上から下へ向けて引く。下から引くと、紙の折り目を逆に押して、そこが割れる。


 抜き終えると、ノートは折り丁ごとにばらばらになった。全部で十一帖。一帖が四枚重ねの八頁だから、八十八頁。


 私はそれを、順に台へ並べた。


「頭。……それ、こわしてませんか」


 ポレットが、稽古の手を止めてこちらを見ていた。


「直しています」


「ばらばらですよ」


「洗い張りと同じです。一度ばらして、直して、縫い戻します」


「紙も、ばらすんですか」


「紙のほうが簡単です。伸びませんから」


 ポレットは台のそばまで来て、並べた帖を上から順に見た。触ろうとして、手を引っ込めた。


「触っていいですか」


「端を持つなら」


「どこが端ですか」


「折ってある側です。切ってある側を持つと、紙が反ります」


 ポレットは、折り側をつまんで、一帖だけ持ち上げた。持ち上げて、下から光にかざした。


「……字が、透けます」


「薄い紙です。祖母は、厚い紙を買えなかったのだと思います」


「それで、八十八枚も」


「八十八頁です。紙は四十四枚」


「四十四枚」


 ポレットは、それを口の中でもう一度言った。


「四十四枚ぶん、教わったんですね。頭は」


 私は、その言い方に、答えを持たなかった。


    *


 並べながら、私は自分が何をしているのか、途中で分かった。


 私は、このノートを最初から最後まで読んだことがある。この冬、組合会館から帰った夜に、門下の名の一覧の頁を見つけた。その先も全部めくった。最後の数枚は白紙だった。


 めくった。


 だが、ばらしたことはない。


 本というのは、綴じてある限り、綴じ目のところまでしか開かない。開いた紙の、のど——綴じ側の際は、指で押さえないと見えない。押さえても、見えるのは半分だ。


 ばらして初めて、全部が見える。


 九帖目と十帖目のあいだに、それはあった。


 別綴じの、薄い一帖。


 ノートの紙より少しだけ小さい。小さいから、綴じたときに内側へ入って、外からは見えなくなる。同じ糸で一緒に綴じ込んである。


 私は、それを両手で持ち上げた。六枚。十二頁。表紙も題も無い。一頁目を開いた。


 数字が並んでいた。


 左端に名前。その右に、六つの数。


 背丈。肩。裄。胸。腰。丈。


 寸法帳だった。


 仕立ての前に、着る人の身体を測って書き留めておく帳面だ。私も持っている。修繕方の全員が持っている。持っていない針子はいない。


 ただ、私の寸法帳には、依頼人の名が並んでいる。この一帖に並んでいるのは、名前だけだった。家名がない。


 一頁に六人。十二頁で、七十人あまり。三十年ぶんだ。一人目の名を見て、私は台の端に手をついた。


 いちばん上に、『エディス(十四)』とあった。


 祖母自身の寸法だ。十四のとき。宮へ上がった年だろう。


 その下から、名前が続いていた。数字の筆跡が、少しずつ変わっていく。最初のほうは丁寧で、後ろへいくほど速い。三十年、書き足していった帳面だ。


    *


 私は、名前を順に読んでいった。


 知らない名が続く。時々、聞いたことのある名が混じる。組合会館の徒弟名簿で見た名も、いくつかあった。


「頭。それ、何の帳面ですか」


「寸法帳です」


「寸法帳って、お客さんのですよね」


「これは、祖母が寸法を取った人の帳面です」


「お客さんじゃない人も、いるんですか」


「います。名前だけで、家名がありません」


「なんで、家名を書かないんですか」


 私は、手を止めた。


 考えたことがなかった。依頼人の寸法には、家名を書く。請求を立てるからだ。家名が要らないのは、請求を立てない相手だ。


「……お金を取らなかった人だと思います」


 私は言った。


「弟子や、宮の女や、身内です。頼まれて、ついでに測って、ついでに縫った。そういう相手には、家名が要りません」


「ついでに縫うんですか」


「針を持つ人は、みんなやります」


 ポレットは、少し笑った。


「いいですね、それ」


 十一頁目の上のほうに、知っている名があった。


 『ヴァレンタン(十九)』


 男の寸法もある。弟子に男もいたのだから、当然だった。数を見ると、肩が広くて丈が長い。いまの、あの方の背格好に合う。


 その頁の、いちばん下に、もう一つ。


 私は、そこで一度、読むのをやめた。


 やめて、台から離れた。窓のところまで行って、外を見た。


 秋の庭に、何も動くものはなかった。


 私は、自分がなぜ読むのをやめたのか、分からなかった。分からないまま、しばらく立っていた。


 それから戻って、寸法帳をもう一度手に取った。


    *


 裁ち置きの寸法は、覚えている。


 春に、紐尺で測った。背丈は測れないが、肩幅は分かる。私より二寸近く広い。丈は、私に当てて三寸か四寸足りない。


 着る人は、背が低くて、肩幅が広い。私は、その二つの数を頭に置いて、寸法帳を最初から見ていった。


 肩が広くて、背が低い。この組み合わせは、多くない。七十人のうち、四人。


 四人のうち、丈が合うのは——


 一人だった。


 十一頁目のいちばん下。


 私は、その行を見た。


 六つの数が並んでいた。背丈。肩。裄。胸。腰。丈。


 春に私が紐尺で取った数と、全部、同じだった。


 寸分違わない、というのは、こういうときに使う言葉なのだと思った。


    *


 私は、その行の名前のところへ、目を戻した。戻す前に、一つだけ、思ったことがある。


 この行の名前を読んでしまったら、あの裁ち置きは、もう私の物ではなくなる。


 私は春から半年、誰の物か分からないまま、あれを棚に置いてきた。分からないうちは、誰の物でもない。誰の物でもないなら、私の物かもしれなかった。


 読めば、終わる。


 私は寸法帳を台に置いて、先に、ばらしたノートを綴じ戻すことにした。


 十一帖を順に重ねて、背を揃える。揃えてから、元の穴に針を通す。蝋引きの麻糸で、上から下へ、下から上へ。最後は祖母と同じ始末にした。玉結びを作らず、二度返して、返した糸の中へ通す。


 背の下三寸に、新しい麻の当てを伏せた。糸は目立たない生成りを使った。


 綴じ戻したノートを、手の上で一度開いて、閉じた。前と同じ開き方をした。


 燭台の芯が、一度、じ、と鳴った。

お読みいただきありがとうございます。

本というのは、綴じてある限り、綴じ目のところまでしか開きません。ばらして初めて、全部が見えます。


次話——寸法帳の、その行の名前を読みます。


数字が全部一致したところで息を止めた方。ブックマーク・評価で応援いただけると、次の針が進みます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。