第78話 綴じの内側
祖母の技法ノートを直したのは、その三日後だった。
三日置いたのは、忙しかったからではない。触るのが、少し怖かったからだ。
このノートは、私が宮へ上がった日から、ずっと手元にある。麻布張りの厚い帳面で、図と針目の見本が貼ってある。子どものころから、私はこれを開いて育った。
開いて育ったから、どこが傷んでいるかは、分かっていた。
*
台の上で、背を上にして置いた。
綴じ糸は、麻の細糸を三本撚りにしたものだ。上から三分の一のところで、一本が切れていた。あとの二本も毛羽立っている。
祖母が自分で綴じたのだろう。糸の始末の仕方が、布のときと同じだった。玉結びを作らずに、二度返して、返した糸の中へ通して留める。布では当たり前の始末だが、紙ではあまり見ない。
婚礼令を綴じ直したとき、私は元と同じ穴を使った。新しい穴を開けると紙が弱る。このノートでも、同じにする。
表紙は麻布張りだ。厚紙に麻を貼って、四隅を内側へ折り込んである。折り込みの角は、布の当てと同じで、斜めに切って重なりを減らしてある。祖母は、紙の仕事も布の手でやった人だった。
その麻が、背のところで擦り切れていた。三十年ぶん、棚から出し入れされた擦れだ。
私は端切れの籠から、同じ厚みの麻を探した。色は合わない。合う色は、もう手に入らない。近い生成りを選んで、背の幅に裁った。
裁ってから、少し迷って、手を止めた。新しい麻を当てれば、擦れは隠れる。隠れるが、三十年ぶんの擦れも一緒に隠れる。
結局、当てるのは背の下三寸だけにした。いちばん力のかかるところだけを守って、あとは擦れたままにする。全部を守ろうとすると、全部を覆うことになる。
*
古い糸を抜いた。
抜くときは、一本ずつ、背の上から下へ向けて引く。下から引くと、紙の折り目を逆に押して、そこが割れる。
抜き終えると、ノートは折り丁ごとにばらばらになった。全部で十一帖。一帖が四枚重ねの八頁だから、八十八頁。
私はそれを、順に台へ並べた。
「頭。……それ、こわしてませんか」
ポレットが、稽古の手を止めてこちらを見ていた。
「直しています」
「ばらばらですよ」
「洗い張りと同じです。一度ばらして、直して、縫い戻します」
「紙も、ばらすんですか」
「紙のほうが簡単です。伸びませんから」
ポレットは台のそばまで来て、並べた帖を上から順に見た。触ろうとして、手を引っ込めた。
「触っていいですか」
「端を持つなら」
「どこが端ですか」
「折ってある側です。切ってある側を持つと、紙が反ります」
ポレットは、折り側をつまんで、一帖だけ持ち上げた。持ち上げて、下から光にかざした。
「……字が、透けます」
「薄い紙です。祖母は、厚い紙を買えなかったのだと思います」
「それで、八十八枚も」
「八十八頁です。紙は四十四枚」
「四十四枚」
ポレットは、それを口の中でもう一度言った。
「四十四枚ぶん、教わったんですね。頭は」
私は、その言い方に、答えを持たなかった。
*
並べながら、私は自分が何をしているのか、途中で分かった。
私は、このノートを最初から最後まで読んだことがある。この冬、組合会館から帰った夜に、門下の名の一覧の頁を見つけた。その先も全部めくった。最後の数枚は白紙だった。
めくった。
だが、ばらしたことはない。
本というのは、綴じてある限り、綴じ目のところまでしか開かない。開いた紙の、のど——綴じ側の際は、指で押さえないと見えない。押さえても、見えるのは半分だ。
ばらして初めて、全部が見える。
九帖目と十帖目のあいだに、それはあった。
別綴じの、薄い一帖。
ノートの紙より少しだけ小さい。小さいから、綴じたときに内側へ入って、外からは見えなくなる。同じ糸で一緒に綴じ込んである。
私は、それを両手で持ち上げた。六枚。十二頁。表紙も題も無い。一頁目を開いた。
数字が並んでいた。
左端に名前。その右に、六つの数。
背丈。肩。裄。胸。腰。丈。
寸法帳だった。
仕立ての前に、着る人の身体を測って書き留めておく帳面だ。私も持っている。修繕方の全員が持っている。持っていない針子はいない。
ただ、私の寸法帳には、依頼人の名が並んでいる。この一帖に並んでいるのは、名前だけだった。家名がない。
一頁に六人。十二頁で、七十人あまり。三十年ぶんだ。一人目の名を見て、私は台の端に手をついた。
いちばん上に、『エディス(十四)』とあった。
祖母自身の寸法だ。十四のとき。宮へ上がった年だろう。
その下から、名前が続いていた。数字の筆跡が、少しずつ変わっていく。最初のほうは丁寧で、後ろへいくほど速い。三十年、書き足していった帳面だ。
*
私は、名前を順に読んでいった。
知らない名が続く。時々、聞いたことのある名が混じる。組合会館の徒弟名簿で見た名も、いくつかあった。
「頭。それ、何の帳面ですか」
「寸法帳です」
「寸法帳って、お客さんのですよね」
「これは、祖母が寸法を取った人の帳面です」
「お客さんじゃない人も、いるんですか」
「います。名前だけで、家名がありません」
「なんで、家名を書かないんですか」
私は、手を止めた。
考えたことがなかった。依頼人の寸法には、家名を書く。請求を立てるからだ。家名が要らないのは、請求を立てない相手だ。
「……お金を取らなかった人だと思います」
私は言った。
「弟子や、宮の女や、身内です。頼まれて、ついでに測って、ついでに縫った。そういう相手には、家名が要りません」
「ついでに縫うんですか」
「針を持つ人は、みんなやります」
ポレットは、少し笑った。
「いいですね、それ」
十一頁目の上のほうに、知っている名があった。
『ヴァレンタン(十九)』
男の寸法もある。弟子に男もいたのだから、当然だった。数を見ると、肩が広くて丈が長い。いまの、あの方の背格好に合う。
その頁の、いちばん下に、もう一つ。
私は、そこで一度、読むのをやめた。
やめて、台から離れた。窓のところまで行って、外を見た。
秋の庭に、何も動くものはなかった。
私は、自分がなぜ読むのをやめたのか、分からなかった。分からないまま、しばらく立っていた。
それから戻って、寸法帳をもう一度手に取った。
*
裁ち置きの寸法は、覚えている。
春に、紐尺で測った。背丈は測れないが、肩幅は分かる。私より二寸近く広い。丈は、私に当てて三寸か四寸足りない。
着る人は、背が低くて、肩幅が広い。私は、その二つの数を頭に置いて、寸法帳を最初から見ていった。
肩が広くて、背が低い。この組み合わせは、多くない。七十人のうち、四人。
四人のうち、丈が合うのは——
一人だった。
十一頁目のいちばん下。
私は、その行を見た。
六つの数が並んでいた。背丈。肩。裄。胸。腰。丈。
春に私が紐尺で取った数と、全部、同じだった。
寸分違わない、というのは、こういうときに使う言葉なのだと思った。
*
私は、その行の名前のところへ、目を戻した。戻す前に、一つだけ、思ったことがある。
この行の名前を読んでしまったら、あの裁ち置きは、もう私の物ではなくなる。
私は春から半年、誰の物か分からないまま、あれを棚に置いてきた。分からないうちは、誰の物でもない。誰の物でもないなら、私の物かもしれなかった。
読めば、終わる。
私は寸法帳を台に置いて、先に、ばらしたノートを綴じ戻すことにした。
十一帖を順に重ねて、背を揃える。揃えてから、元の穴に針を通す。蝋引きの麻糸で、上から下へ、下から上へ。最後は祖母と同じ始末にした。玉結びを作らず、二度返して、返した糸の中へ通す。
背の下三寸に、新しい麻の当てを伏せた。糸は目立たない生成りを使った。
綴じ戻したノートを、手の上で一度開いて、閉じた。前と同じ開き方をした。
燭台の芯が、一度、じ、と鳴った。
お読みいただきありがとうございます。
本というのは、綴じてある限り、綴じ目のところまでしか開きません。ばらして初めて、全部が見えます。
次話——寸法帳の、その行の名前を読みます。
数字が全部一致したところで息を止めた方。ブックマーク・評価で応援いただけると、次の針が進みます。




