第77話 借り物ではない一着
書状は、四行だった。
婚礼が決まったこと。直していただきたい一着があること。王都へ出る用があるので、十日後に伺いたいこと。差し支えなければ、返書は不要であること。
差し支えなければ、というところで、私は一度読むのをやめた。
差し支えは、ある。
だが、その差し支えは、私の側のものではなかった。
*
十日後の昼過ぎに、その人は来た。
階段を上がってくる足音で、誰かは分からなかった。ポレットが先に下りていって、上がってきたときの顔で分かった。
「頭。あの……お客様です」
「通しなさい」
入ってきたのは、地味な旅装の女性だった。
髪をまとめて、布で覆っている。上着は茶色の毛織で、袖口が擦れていた。扇は持っていない。
二年近く前、大階段の上でこちらを見下ろしていた人とは、別人のように見えた。
*
「……お久しぶりですわ」
ステラ様は、そう仰った。
「お座りください」
私は椅子を出した。この部屋には、来客用の椅子が一脚しかない。ポレットが慌てて自分の椅子を運んできた。
「結構です。立っておりますわ」
「お客様は、座っていただきます」
少し間があって、ステラ様は座られた。座ってから、膝の上で両手を重ねた。その手を、私は見てしまった。
指の腹が、少し荒れていた。二年近く前の手ではなかった。
「用件を申し上げますわ」
ステラ様は、足元の包みを持ち上げて、台の上に置いた。
「これを、直していただきたいの」
私は包みを開いた。
中は、女物の一着だった。緑がかった灰色の絹で、仕立ては古い。三十年か、それ以上前のものだ。裾の縫い代が広く取ってあるのを見て、私は少し、手を止めた。
広い縫い代は、いい仕立ての証だ。
「どなたの一着でしょうか」
「母のですわ」
「男爵家に、一つだけ残っておりましたの」
ステラ様は、台のほうを見ずに仰った。
「商会の仕立てが全部引き上げられたとき、これだけ残りましたの。古すぎて、値が付かなかったのですって」
「はい」
「母が嫁いだときの一着だそうですわ。……わたくし、それまで一度も見たことがなかったの。長持ちの底に入っておりましたから」
私は衿の裏を返した。
仕立て札がない。
無いのではなく、最初から付いていない。抜いた跡もない。町の仕立て屋には、札を入れる習いのないところもある。古い一着なら、なおさらだ。
「札が、ございませんね」
「……ええ」
ステラ様は、そこで初めてこちらを見た。
「誰が縫ったのか、分かりませんの」
「はい」
「それでも、構いませんの」
私は、その言い方の意味を、少し考えた。
二年近く前、この方の一着には、いつも札が無かった。商会が寸法を詰めて、他人の名の請求書で回していたから、札を入れられなかった。私はそれを見て、この方が何者であるかを知った。
いま、目の前にある一着にも札が無い。
同じ「無い」でも、中身が違う。
「構いません」
私は言った。
「札が無くても、縫い目は残っております。縫い目は、札より正直です」
*
私は、その場で寸法を取った。
ステラ様は、言われたとおりに腕を上げ、下ろし、まっすぐ立たれた。慣れておられる。寸法を取られることには、たぶん、誰よりも慣れている。
丈が二寸長い。身幅が一寸半、余る。母上は、この方より背が高くて、肉づきがよかったらしい。
傷みは三か所。右の袖口の擦れ。裾の折り返しが一か所ほどけている。前身の左、胸のあたりに、小さな染み。
「染みは、抜きますか」
「抜けますの?」
「油です。抜けます。ただ、抜いたところだけ、わずかに白くなります」
「……残してくださいませんこと」
私は顔を上げた。
「母が付けたものですもの」
*
直しは、二日かかった。
丈は、裾の折り返しから詰める。広い縫い代のおかげで、詰めた分をそのまま内側に畳み込める。切り落とさない。この方のあとに、また誰かが着るかもしれない。
身幅は、脇を一寸半、内側へ入れる。これも切らない。入れて、留めるだけにした。
袖口の擦れには、同じ絹が要る。手元に無かったので、裾の折り返しの内側から、三寸だけ取った。折り返しは四寸あったから、一寸残る。
同じ一着の中から取った布は、色が絶対に合う。年も、釜も、日も同じだからだ。
染みは、触らなかった。
*
二日後、ステラ様はまた来られた。私は一着を衣桁に掛けて、白布をかけずに置いておいた。
ステラ様は、しばらく立って見ておられた。それから、袖口に指を当てた。
「……どこを直したのか、分かりませんわ」
「袖口は、そちらの裾から取りました」
「裾から」
「同じ一着の中から取れば、色が合います。よその布では合いません」
ステラ様は、裾のほうを見た。折り返しの内側は、三寸ぶん短くなっている。見えないところだ。
「これ、減りましたのね」
「減りました」
「……そう」
*
勘定を書いて渡した。銀貨二枚と銅貨五枚。直しの位ができてからの、値表どおりの値だ。
ステラ様は、それを見て、少し目を見開かれた。
「高うございますわ」
「値表の値です」
「いえ、そうではなくて」
ステラ様は、勘定書きをもう一度見た。
「……安すぎませんこと?」
私は、少し黙った。
二年近く前、この方の背後にいた人々は、銀貨三枚の直しを金貨十二枚で回していた。この方は、その値しか知らずに育った。
「値表の値です」
私は、もう一度そう言った。ステラ様は、包みを抱えて、戸口まで行かれた。行って、振り返られた。
「あの」
「はい」
「わたくし、この一着で嫁ぎますの」
「はい」
「新しいものを作れないからではありませんのよ。作れないのですけれど、そうではなくて」
言葉を探しておられた。この方が言葉を探すのを、私は初めて見た。
「……自分で選んだものが、初めてでしたから」
それだけ言って、階段を下りかけて、もう一度止まられた。
「お世話になりましたわ。……お直し係さん」
私の名前は、最後まで出なかった。出なくてよかった。名前を呼ばれていたら、たぶん、私はうまく返事ができなかった。
「お幸せに」
それだけ返した。足音が階段を下りていって、聞こえなくなった。ポレットが、台の向こうから小さな声で訊いた。
「頭。あの人、誰ですか」
「お客様です」
「それだけですか」
「それだけです」
私は針箱を片付けた。片付けながら、祖母のノートに手が触れた。棚の端に立てかけてあったのが、少し傾いて倒れた。
拾い上げて、背を見た。
綴じ糸が、緩んでいた。
お読みいただきありがとうございます。
札が無くても、縫い目は残っています。縫い目は、札より正直です。
次話——祖母のノートの綴じが、緩んでいます。
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