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第75話 守るために、引いた線

 翌日、私は城下へ下りた。


 古着市の裏通り。いちばん手前の店の戸が、今日は開いていた。


 軒先に、包みが三つ置いてあった。先月来たときは二つだった。持ち主が名も書かずに置いていって、直し上がると取りに来る。そういう置き方だ。


 中を覗くと、土間の裁ち台に人がいた。背中が広かった。座っていても肩の線が四角い。


「いらっしゃい」


 振り返らずに、声だけが来た。昨日の声だった。


「宮廷修繕方の、リディア・アシュフォードと申します」


 手が止まった。それから、その人はゆっくり振り返った。


 五十がらみ。髪を後ろで括って、布で覆っている。日に焼けていて、目尻の皺が深い。


 卓の上に置かれた手が、昨日の手だった。


「知ってるよ」


 オデットは言った。


「昨日、見た」


「お邪魔をしました。お仕事の途中に」


「いいよ。どうせ待たせてる分ばっかりだ」


 オデットは、手元の一着を裁ち台に広げたままにした。男物の上着で、肘が抜けかけている。肘は、どの上着でも最初に来る。


「何しに来た」


「昨日の続きを、伺いに」


「昨日、あたしは一言しか言ってないよ」


「一言で足りておりました」


 オデットは、ふん、と鼻で笑った。笑ったが、目は笑っていなかった。


「あの但し書きは、あなたの建議ですか」


 私は訊いた。回り道をしなかった。昨日、回り道をして失敗したからだ。オデットは、しばらく私を見ていた。


「そうだよ」


「なぜでしょうか」


「なぜ」


 オデットは、裁ち台に両手をついた。


「あんた、あたしらが、何年待ったと思ってる」


「あたしは、十六からこれをやってる。母親の代からだ。母親は、その母親から教わった」


 声は大きくない。だが、ひとつも聞き落とせなかった。


「三十四年、あたしは針で食ってきた。三十四年、あたしは『職人』じゃなかった。組合の名簿にあたしの名は無い。値表にあたしの仕事の値は無い。値が無いから、客が言い値を付ける。銅貨五枚と言われたら五枚だ。文句を言えば、次から来ない」


 私は黙っていた。


「この春、あんたらが規約を変えた。『直しを職とす』。……あたしはね、あの報せを聞いた日に、店で泣いたよ。四十いくつの女が、真っ昼間に、一人で」


 オデットは、そこで少し口を歪めた。


「五十八人に位が付いた。値表に直し料が載った。載った日から、あたしの仕事には値がある。言い値じゃない。値表の値だ」


「その位を、一年も経たずに薄められてたまるか」


 オデットは、裁ち台の上の上着を指で叩いた。


「新調をやる連中が『うちも直しの位を持ってます』って言い出したら、どうなる。値表の直し料は、あいつらの片手間の値になる。片手間なら安くできる。安くできる奴が並べば、あたしらの値は下がる」


「……はい」


「三十四年待って、やっと付いた位だ。それを、新を縫える連中に一年も経たずに持っていかれるくらいなら、線を引く」


 私は、その論の形を知っていた。


 去年の夏、同じ形のものを聞いた。組合会館の二階で、銀髪の男が言った。直しは、職ではありません。職とは、名と位のあるものです。


 あのとき、私は相手が間違っていると思っていた。


 実際、間違っていた。だが、間違え方の形は、いま目の前にあるものと同じだった。


 守るために、線を引く。


 線の内側にいる者は守られる。外側にいる者は、いないことになる。


    *


「一つだけ、お見せしてよろしいですか」


 私は麻の袋を出した。


「なんだい」


「昨日、出しそこねたものです」


 見本の二枚を、裁ち台の空いているところに並べた。オデットは、上着を脇へ寄せて、二枚を手に取った。


 私は何も言わなかった。


 この人は、説明を要らない。指で縫い代を開いて、片方を出してみて、もう片方も出してみた。それだけで、二枚の違いを全部読んだ。


「……一寸取ってあるね」


「はい」


「これ、あんたが縫ったのかい」


「はい」


「目が細かすぎる。一寸取るなら、もう少し粗くていい。細かく縫うと、ほどくとき布が死ぬ」


 私は、その一言を、胸の中で二度繰り返した。


「これを、何に使う」


「王女殿下の御婚礼の御衣装を、この作法で仕立てたいと思っております」


「宮の話かい」


「はい」


「じゃあ、あたしには関わりない」


 オデットは二枚を台に戻した。


「宮の御用は、登録工房のもんだ。あたしら城下の直し屋には、はなから回ってこない」


「はい」


「あんたが困ってるのは、あんたんとこの徒弟が縫えないからだろ」


 見抜かれていた。


「そうです」


「悪いけど、それは、あたしの知ったことじゃない」


    *


 オデットは、また上着を引き寄せた。


「あんたのとこの子は、宮で飯が食えてる。位があって、俸給があって、書けるようになって、名簿に名がある。……あたしらが三十四年かかって取ったものを、あの子は二年で全部持ってる」


「はい」


「それで、まだ足りないって言うのかい」


 私は、返す言葉を持たなかった。持たないまま、一つだけ言った。


「足りないのではありません。ただ、あの子の手が、いま止まっております」


「止まる時期は、あるよ」


 オデットは、針を持った。


「あたしは三十四年、止まってた」


    *


 その夜、局長が修繕方へ上がってきた。


 私は昼のことを話した。全部話した。話しながら、自分が何を求めているのか、途中で分からなくなった。


 話し終えると、局長はしばらく黙っていた。


「撤回の建議は、出すな」


「……なぜでしょうか」


「理事会に出せば、議になる。議になれば、票が割れる。割れれば、直しの位そのものが議題に戻る」


 局長は、いつもの実務の声だった。


「この春、あの位は一票差だったわけではない。だが、いま揺らせば、次は分からん。……揺らして損をするのは、城下の五十八人だ」


    *


「では、ポレットは」


「待たせろ」


「待たせて、いつまででしょうか」


「分からん」


 私は、そこで、初めてこの人に言い返した。


「あの子は、二年待ちました。字を覚えるのに一年、試験に落ちて、位が付くまでにもう一年」


「知っている」


「知っておられるなら」


「知っているから言っている」


 局長の声が、少しだけ硬くなった。


「そなたは、いま、あの子一人のために五十八人を賭けようとしている」


    *


 私は立っていた。


 立ったまま、何も言えなかった。


 この人の言っていることは、正しい。正しいから、言い返せない。


 だが、正しいことを言われて引き下がるのなら、私は去年、城下の婆さんの店が畳まれたときに、規約の第二十二条は以前からあります、と言って終わっていたはずだ。


「局長」


「なんだ」


「正しいのは、分かりました」


「そうか」


「分かりましたが、納得はしておりません」


 局長は、私をしばらく見ていた。


「……そうだろうな」


 それだけ言って、帰っていった。戸口で一度、何か言いかけて、やめたのが分かった。


    *


 一人になってから、私は裁ち台を片付けた。


 見本の二枚を袋から出して、棚へ置いた。オデットの言ったとおりだった。目が細かすぎる。ほどくときに布が死ぬ。


 縫い直すか、と思って、針箱を開けた。開けたところで、階段の下から足音がした。局長ではない。軽い足音だった。


「頭。まだいたんですね」


 ポレットだった。手に、書き付けを一枚持っている。


「工房から、修繕方あてに来てました。書役の人が置いてったんですけど、あたし、読んで」


 私は受け取った。


 御婚礼の御衣装の生地、南の絹、白。発注済みの反数では、裁ち合わせが立たない。


 織が、足りない。

お読みいただきありがとうございます。

守るために、線を引く。線の内側にいる者は守られて、外側にいる者は、いないことになります。


次話——織が、足りません。

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