第74話 三十年、待ったことがあるかい
朝のうちに、厨方の前掛けを三枚繕った。
紐の付け根が切れているのが二枚、火の粉で穴が開いたのが一枚。前掛けの紐は、どれも同じところから切れる。結ぶときに指が掛かるところだ。
付け根には、裏から小さな当て布を入れる。表から当てては、洗ううちに端が浮く。厨方の物は毎日洗う。毎日洗うものは、見えないところで留める。
当て布は、端切れの籠から同じ厚みの麻を選んで、角を丸く裁った。糸は、布より少し細いものを使う。糸のほうが太いと、力が布に逃げずに糸で受け止めることになって、布のほうが先に切れる。
針は、麻を通す太さのものに替えた。返し縫いで三度、紐の芯まで拾って留める。芯を拾わずに表布だけを縫うと、引いた瞬間に紐が抜ける。
穴のほうは、焦げた縁を鋏で丸く裁ち落としてから塞いだ。焦げた縁を残すと、そこからまた広がる。裁ち落とした穴には、裏から当て布を入れて、表から細かく伏せた。
三枚とも、半刻で上げた。
こういう仕事をしてから出かけるのは、癖だ。一件でも上げてから出れば、その日、何も上がらなかったということにはならない。
*
見本の二枚は、麻の袋に入れて持った。
縫い代一寸と五分の、脇を一本だけ縫った端切れ。何の飾りもない、白い綿の二枚だ。
昨夜、もう一度縫い直した。最初に作った二枚は、縫い目の細かさが揃っていなかった。細かさが違えば、出したときの端の落ち方も違う。比べるものは、比べる一点だけを変える。ほかは全部同じにする。
これを見せれば分かる、と私は思っていた。
*
組合会館の玄関で、名簿を見せてもらった。
理事は十七人。去年、私が会館へ通っていたころとは、顔ぶれが半分入れ替わっている。ヴァレンタン殿の名はもう無い。ドニの名も無い。ラウル殿の名は残っていた。
名簿の下のほうに、去年まで無かった名が四つ並んでいた。
欄外に細く注が付いている。『直しの位、城下代表』
四人のうち、一人は男、三人は女だった。
私は、その四つの名を書き留めた。書き留めてから、一つ目の名のところで、指が止まった。
オデット。
取次ぎを頼んだのは、その名ではなかった。
ラウル殿にした。この春の総会で、最後まで挙手されなかった方だ。反対派の顔と言われていたが、あの日、規約が変わったあとは何も言わずに座っておられた。
理由は単純で、私はその方のことを、少しだけ知っていたからだ。知っている相手のほうが、話が早いと思った。
*
検分の間に通されて、四半刻待った。
窓が高い。夏の陽が、卓の上に四角く落ちている。壁に沿って椅子が十七脚並んでいて、そのうち五脚か六脚が、いま埋まっていた。
理事会のあとだった。散会の途中で、まだ残っておられる方が何人か、という形だった。
「宮廷修繕方、頭殿」
ラウル殿が、指の太い手を卓に置いた。
「建議のお話だとか」
「はい」
「あれは、理事会で決まったものです。撤回するには、また理事会が要ります」
「承知しております。本日は、まず、なぜ必要な建議だったのかを伺いたく」
*
ここから、私は間違えた。
間違えたと分かるのは、あとになってからだ。そのときの私は、順番どおりに話しているつもりだった。
「直しの位を有する者が、新調を請けてはならない。この条について、三点申し上げます」
私は指を立てた。
「一つ。この条によって、御婚礼の御衣装が、直せない仕立てになります。縫い代五分の一着が北へ行き、十年後、誰も出せなくなります」
誰も何も言わなかった。
「二つ。直しの位を持つ者は五十八人、うち仕立ても手がける者が二十人。この二十人は、仕事を一つ失いました」
ラウル殿が、わずかに眉を動かした。
「三つ。直しと新調を位で分けることは、この春、この規約が定めた『直しを職とす』の趣旨に反します。職として認めたのは、直しを新調から切り離すためではなく——」
「頭殿」
ラウル殿が、そこで手を上げた。
「趣旨に反する、というのは、どなたが決めることでしょうな」
部屋の空気が、そこで一度、落ちた。
「この春の総会で規約を変えたのは、この理事会です。趣旨を決めるのも、この理事会です。……宮の方が、我々の規約の趣旨をお決めになるのですか」
「そういう意味では」
「では、どういう意味でしょう」
私は、言い直そうとした。言い直すために、言葉を探した。探しているあいだに、部屋の何人かが、椅子を引く音を立てた。
「頭殿。お話は分かりました」
ラウル殿は、丁寧な言い方をされた。
「建議の撤回は、理事会にお出しください。書式は書役が申し上げます。……本日は、これで」
*
私は袋を膝の上に置いたままだった。見本の二枚は、袋から出さなかった。
出す順番が来なかったのではない。出す順番を、私が作らなかった。
最初に論を出した。三点、指を立てて、条の趣旨まで持っていった。相手は規約を作った側だ。趣旨の話をされれば、守るしかない。
この冬、私はヴァレンタン殿に同じことをした。会館の同じ階で、事実を三つ並べて詰めて、それで失敗した。
あのときは、相手が間違っていた。今度は、相手が間違っていない。
*
立ち上がって、一礼した。礼をして顔を上げたとき、いちばん奥の椅子が動いた。
誰も気に留めなかった。ラウル殿はもう卓の紙を集めておられたし、ほかの方々は戸口のほうを向いていた。
その奥の椅子から、声がした。
「あんた」
低い声だった。大きい声ではない。だが、部屋の端まで一息で届いた。私は顔を向けた。
逆光だった。窓が高いので、奥の席は陽の筋の外にある。顔は見えなかった。
卓の縁に置かれた手だけが、四角い陽の中にあった。
荒れた手だった。指の関節が太い。爪が短く切ってあって、爪の脇に、糸を扱う者の切れ目がいくつもある。甲に、火傷とも鏝の跡ともつかない古い痕が二つ。人差し指の腹だけが、ほかより白く硬くなっていた。布を送るときに、そこで押す人の手だ。
私は、その手を知っていた。知らない人の手だが、知っている種類の手だった。
「あんた、三十年、待ったことがあるかい」
それだけだった。
私は、何か答えようとした。答えが出てこなかった。
手が、卓から離れた。陽の四角から消えた。
椅子が引かれて、奥の戸が開いて、閉まった。
「どなたですか」
私は書役に訊いた。
「本日の理事会に出ておられた方でございます」
「お名前は」
「……理事の方のお名前は、こちらからは申し上げられません。名簿は玄関にございますので」
私は玄関へ下りた。
名簿の前に立って、四つの名をもう一度見た。『直しの位、城下代表』。
四人。男が一人、女が三人。
あの手が誰のものか、名簿は教えてくれなかった。
会館を出た。
織物町の通りは、夏の午後で、荷車と人でいっぱいだった。私は麻の袋を抱えて、しばらく歩いた。
袋の中で、見本の二枚が、こすれる音を立てていた。
誰にも見せていない二枚だった。
お読みいただきありがとうございます。
この冬、私は同じ階で、事実を三つ並べて詰めて失敗しました。あのときは相手が間違っていました。今度は、相手が間違っていません。
次話——あの手の主を、探しに行きます。
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