第73話 蚊帳の外
下命の写しが回ってきたのは、五日後だった。
儀典方から組合へ。組合から登録工房へ。御婚礼の御衣装一式、翌年初冬までに納入。生地は南の絹、白。仕立ては組合の定めるところによる。
割り当てられた工房の名を見て、私は少し息を吐いた。先だって私が訪ねた三軒のうちの、二軒目だった。
裏襟の札を嫌がったところだ。直した者の名を入れる前提の仕立ては、初めから傷むと言うようなものです。そう言われた。
*
宮廷修繕方に回ってきた仕事は、一件だった。
『銀鼠の一着、点検の上、保管のこと』
保管。
着せる予定のないものを、傷まないように仕舞っておくこと。
私はその一行を、三度読んだ。三度読んでも、書いてあることは同じだった。
白布を外した。脇は出してある。裾は裁ち替えてある。丈は三寸出て、折り返しは一寸残っている。
私は、端から検め直した。
裾の縫い目。裁ち替えたところの止め。脇の折り筋——鏝で殺した跡が、夏の湿りで少し戻っていた。もう一度湿して、押さえた。
背の釦を十二、全部確かめた。三つ目と四つ目の糸足は、春のうちに付け替えてある。いまは十二とも同じ長さで立っている。
衿の裏を返した。仕立て札がある。先王妃様の頃の札で、字はもう読めない。その下に、私が去年足した札がある。『銀鼠の一着 直し リディア・アシュフォード』
その下に、まだ、書ける余白がある。
保管の仕方は、決まっている。
まず、汗と脂を抜く。着たまま仕舞うと、見えない汚れが二年後に黄色く出る。絹は水に弱いので、洗うのではなく、脇と衿の内側だけを局所に抜く。湯に通した木綿を固く絞って、叩くように当てて、すぐに乾いた布で水を吸い上げる。擦ると毛羽が立つ。
次に、形を崩さずに畳む。肩の線に折り目が来ないよう、詰め物をする。詰め物は薄葉紙を丸めて、袖の中と肩の内側に入れる。固く詰めると、その形が付く。緩いと落ちる。掌に載せて、少し押して戻るくらいが、ちょうどいい。
最後に、樟脳を打って、薄紙で包む。樟脳は布に直に触れさせない。触れたところが抜ける。
私は詰め物を作るところまでやって、手を止めた。
仕舞えば、次に出すときに理由が要る。理由が要るものは、だんだん出されなくなる。
これは、春に自分で考えたことだった。私は詰め物を台の隅へ置いて、銀鼠を衣桁へ戻した。白布を掛け直した。
掛けておけば、埃は積もる。積もった埃は、月に一度、毛の柔らかい刷毛で払えばいい。仕舞った物は、埃はかぶらないが、二年経つと折り目が戻らなくなる。
どちらにも損はある。私は、折り目を取るほうを選んだ。保管はする。ただし、仕舞わない。
*
昼過ぎに、西離宮から使いが来た。書状ではなく、口上だった。若い侍女が、覚えてきた言葉をそのまま言った。
「殿下より。——御衣装の支度は、組合の方々が進めてくださっているそうです。修繕方には、銀鼠を頼みました。あれは、わたくしが頼める最後の一件でしたので」
侍女は、そこで一度、言葉を確かめる顔をした。
「以上でございます」
「承りましたと、お伝えください」
侍女が下りていったあと、ポレットが小さな声で言った。
「頭。最後の一件って、どういう意味ですか」
「御婚礼の支度のうち、修繕方に頼めるものが、もう一つも残っていないという意味です」
「……そうですか」
ポレットは、それきり何も訊かなかった。
*
夕方、私は式典局へ寄った。
局長は御用の帳面に埋まっていた。夏の拝賀が近い。この時期のこの人には、話しかける隙が半刻に一度しかない。
「工房の型を、ご存じですか」
「どの工房だ」
私が名を言うと、局長は帳面から顔を上げずに答えた。
「組合の値表どおりの仕立てだ。縫い代は五分」
「五分」
「値表にそう書いてある。一寸取れば、その分の布代が値表を超える。超えた分は工房の持ち出しだ」
筆が止まった。
「……ああ」
局長も、そこで気づいた顔をした。
*
縫い代五分の一着が、北へ行く。
殿下は十七だ。これから背が伸びるかもしれない。伸びなくても、身体は変わる。三年、五年、十年。北の冬は長い。長い冬に、人は少し肉が付く。
そのとき、あの御衣装は出せない。
五分の縫い代では、二分しか出ない。二分出したところは、すぐ端に来る。端に来た縫い目は、一度の動作で裂ける。
裂けたら、当てを入れるしかない。当てを入れれば、それは直しだ。
婚礼令は、御婚礼の御衣装に直しの手を入れてはならないと書いている。婚礼が済んだあとのことまでは、書いていない。
書いていないから、誰も考えない。
*
私は、南の絹のことを思った。
南の絹は、白のまま織って白のまま使う。染めないぶん、糸の質がそのまま出る。上物は張りがあって、光を返す面が広い。そのかわり、傷が目立つ。継いだところは、どう工夫しても影になる。
だから南の絹の一着は、傷んだら継ぐのではなく、捨てるものだと言われている。
言われているだけだ。継げないわけではない。裏から共裂を当てて、表を目立たない角度で伏せれば、光の向きによっては分からなくなる。祖母のノートに、その頁がある。
ただ、それをやるには、共裂が要る。
「北に、直す者はおられますか」
私は訊いた。
「おる。城には衣装方がある」
「腕は」
「知らん。……だが、王都の仕立ての作法は知らんだろうな」
局長は帳面を閉じた。
「寸法帳が無ければ、どこを詰めたかも分からん。分からんまま解けば、元へ戻せなくなる」
「はい」
「そなたの三つは、そこを見ていたわけだ」
縫い代を残す。印を残す。寸法帳を添える。三つとも、婚礼の日には何の役にも立たない。役に立つのは、その十年あとだ。
*
部屋へ戻って、私は帳面に書いた。銀鼠の一着。点検済み。保管。ただし仕舞わず、衣桁に掛けて白布。
書いてから、下に一行足した。
『御婚礼の御衣装、縫い代五分の見込み。十年後に直せぬ恐れあり』
誰に見せる帳面でもない。修繕方の控えだ。三十年後に、誰かが読むかもしれないし、読まないかもしれない。
ゴットフリート殿は、三十年、そうやって書き継いだ。書いたものが役に立ったのは、三十年目の一度きりだった。
書き終えてから、私は銀鼠の白布をもう一度めくって、衿の裏の札を見た。私が去年足した札。その下の余白。
余白があるというのは、次に書く者がいるという意味だ。札を大きく取るというのは、そういうことだった。
御婚礼の御衣装には、その余白が無い。
私は白布を戻して、筆を置いた。
置いた筆が、硯の縁に当たって、小さな音を立てた。
組合の理事の名簿を、明日、見に行かなければならない。
お読みいただきありがとうございます。
縫い代を残す。印を残す。寸法帳を添える。三つとも、婚礼の日には何の役にも立ちません。役に立つのは、その十年あとです。
次話——理事の名簿を、見に行きます。
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